【その5】
テッサリアで発見された飛行船は『饕餮号』と名付けられた。東洋の神話由来の名は、飛行試験に白亜堂公司が関係するからだろう、というのは新聞が伝えるところだ。広場の屋台式カフェで記事を読んでいた僕は、釈然としない気持ちになる。饕餮とは青銅器時代の東洋で祀られていた古神であり、時代を経て強欲暴虐な性格が付与された悪神でもあるからだ。
饕餮と竜と鳳凰、この三つが青銅器時代の東洋では意味ある神として祀られた。三神の内、竜と鳳凰に対する信仰は後の世まで続いたが、饕餮だけは青銅器と共に地中に捨てられている。土地神が新しい信仰の中で、悪と断罪されるのは洋の東西を問わずに行われていたことだ。だが、呪術的な力を祈るための象徴として、白亜堂公司は青銅器の文様にのみ残る饕餮の名を飛行船に与えたのだろう。
その飛行船『饕餮号』が空を飛んだ日に、塩の丘に一台の自動車が現れた。
「御主人様、黒い箱が! 黒い箱が! 黒い箱が!」
という声に、僕の睡眠は破られた。
「黒い箱……ああ、自動車か」
深く振動するエンジン音が理解に通じる。身体を揺するアルコルに、僕は説明してやった。自動車は西暦の乗り物で石油系燃料によって運動する。発明者はカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラー。一般的な定義では、四つのタイヤと一つの原動機があるものを自動車と言って……
自動車。
「どこに自動車が?」
「ここにです」
アルコルの単純な答えと呼び鈴の音が、ほぼ同時に虚ろな意識を叩き起こす。
「はじめまして」
白羊歯の集合住宅に来た男は東洋系の顔立ちをしていて、それだけで彼が白亜堂公司の責任ある立場の人間だと分かった。塩の丘を訪れる東洋人は希少だし、僕に用があるのならなおさらだ。都会的な服装に革靴、容姿は「整った」という形容詞が似合っている。整った顔、整った髪、整った襟元、整った服の皺。
彼は「白亜堂公司の広域支配人」と名乗った。
「丘の発掘現場で、あなたのことを伺いましてね」
「あの現場責任者は、僕のことを毛嫌いしていると思っていましたが」
「失礼があれば、私から注意しておきましょう。あなたのような人間が地方で隠遁生活をしているのは、我々としても惜しいと考えます。どうですか? お望みであれば支配人権限で、適当な職に就いてもらいたいのですが」
僕は今の境遇が身の丈に合っていると謝辞した。
彼の職権は僕では想像もつかないほどだろう。西安城市を拠点に世界の発掘を仕切る同社でも、広域支配人の肩書きを持つのは二十四人しかいない。人が生きた足跡を辿り、地球が今ある過程を追うために、大地を棋盤に見立てて「発掘隊」という駒を動かすのが彼らの役割だ。襟のカフスボタンには、彼の地位を証明する蚩尤の印章が輝いていた。鉄を喰らう荒神の蚩尤は、貪欲さの象徴、知を統べようとする白亜堂公司が野心の形だ。
蚩尤も饕餮も神性は良く似ている。
僕はアルコルに水を注ぐように言うと、男をテーブルに案内した。
「はるばる東洋から?」
「いえ、白亜堂公司は世界中に枝を張っています。当然、この地域にも。普段は新都市での史料蒐集などをしているのですが、たまに外の空気を吸うのも心地よいですね」
窓からの景色を眺め、広域支配人は感慨深げに溜息を吐く。
「今日は飛行船の試運転があると聞きましたが」
「あれは技術畑の仕事です」
男はさして重要でもないという表情をした。白亜堂公司のような巨大企業であれば、職種ごとに分業が進んでいるだろうし、広域支配人の職務は交渉や政治判断にあるようだ。だとするなら、彼が集合住宅に来た理由も自ずと明らかに思えた。
人当たりの良い笑顔と、歯の浮くような甘言には警戒したほうがいい。
「しかし飛行船が空を飛ぶといえば、古典文化復興にも匹敵する出来事ですよ。連日の新聞報道で、僕でも招待状があれば立ち会いたいくらいだ。それに比べれば、地位ある人間が、わざわざ会うべき価値があるとも思えませんが」
「困ったときは、お互い様と言うでしょう?」
「困ることは特にないですが」
広域支配人の眉が微かに反応する。それを確認した。アルコルが優雅な動きでコップを運び、部屋の隅の椅子に腰掛ける。白亜堂公司の広域支配人の目でも、アルコルが少女人形であると見抜けなかった。それどころか僕と喪服の少女の組み合わせに、意味を見出せないでいるようだ。
「姪です。身寄りがなくてね」
「そういうことですか」
その真意を問い質してみたかったけれども頷くに止めた。
「そろそろ本題に入ったらどうですか?」
意味に乏しい受け答えに時間を費やすほど、僕も彼も悠長ではない。
白亜堂公司が来た理由、それは起源種博物館にあった。
いずれも大投棄時代を乗り越えた存在でありながら、復古主義を掲げる白亜堂公司と神秘主義を貫く起源種博物館は水と油の関係だ。あの時代に、今も地域的に続いているが、焚書と破壊によって叡智のかなりが抹消されてしまった。人は西暦の記憶を留めていても、進歩の記録を取り戻すのは容易ではない。白亜堂公司は実際良くやっている。考古学的な研究発掘によって、人類史の幾分かの復元に成功していたのだから。
だが、古生物学の分野は立ち遅れたままだという。
彼は小箱をテーブルに置いた。
「知識は共有されるべきものでしょう」
「密かに楽しむのも認められるべきですね」
「あなたは館主に近い人間だと聞きました。過去に史家を目指していたとも。私の気持ちも痛いほど理解してくれるはずです」
僕は白亜堂公司が館主に宛てた手紙を思い出した。
起源種博物館は大投棄時代の以前、西暦の末に建てられた。十年経てば人は思想も変わるし、百年超えれば命も尽きる。そうした時流の中で、生命の名を司る博物館は宗教的なものを帯びるようになっていた。早くから破壊の対象であり、葬祭神殿を模した建物が本当の「遺跡」になる可能性すらあったのに、代々の館主は起源種の城を守り続けたのだ。そして神の全知を思えば、無知な身ならば畏敬の念を覚えることにも繋がった。
だが知識欲に限界はなく、十を数えられたなら次は百を目差すのが人の性というものらしい。白亜堂公司は博物館の譲渡を求めている。そうすることで万智の座に着きたいとの野望があるのだ。かつて七十万冊の書物を有していたアレクサンドリアが燃えたとき、シギリアの哲学者ラコメネスは「文化の昼は終焉し、蛮習の夜が到来する」と嘆いたが、知を求める営みが途絶えることはなかった。
それは今も同様に、と男は語り、同意を求めた。
「白亜堂公司は現在政府から過去の復元事業を任されています。文化、文明、風俗、風習、科学、技術、伝統、伝説、神話、歴史……自然。人が守るべきだったものは万機に亘る」
小箱に入っていたのは矢魚の化石だ。
「私どもは陸、あなたは海、それで今まで共存していましたよね」
「何か問題でも?」
「いえ、私は起源種博物館の館主と会いたいのです」
「会っても、満足いく結果になるとも限らないですよ」
「それは、あなたが心配することではない」
「言い方が汚いですね」
「何とでもどうぞ」
広域支配人は余裕の面持ちで微笑み、僕は仕方なしにそれを真似た。
自然に忠実な人間は出世する、と薬屋が話していた。つまり弱肉強食、弱みに付け込み強きを盗むのが処世の要なのだ。広域支配人は矢魚に視線を注ぎ、暗にこれが意味を察しろと促している。白亜堂公司に対する反感は、蚩尤の紋章にある強欲さではなく、空に浮かぶ饕餮号の高慢さにこそあった。
組織の威を借る人であればこそ、高みから弱者を圧迫しようと自覚的に選択する。彼が化石魚を携えて来たのは、僕を喜ばせるためではない。漁場をいつでも荒らすことができるという示威だった。道理の通じない相手であれば、それも方法の一つだろうが、僕や館主に対する態度ではない。
「……東洋のことわざに、羽虫にも魂が宿るとあるのを忘れないでください」
「ええ、肝に銘じておきましょう」
結局、僕は矢魚の化石を受け取った。話すだけ話してみます。そう言った僕を、広域支配人は手下に対する視線で見詰めるのだった。
「期待しているよ」
「するだけ無駄ですね」
最大限の皮肉を込めた言葉も、広域支配人の厚顔には通用せず、彼は得意げに僕の両肩に手を置くと部屋から出ていった。僕も笑顔で見送ったが、黒い自動車が悪意の届かないところへ去るのを確認した後、テーブルを力に任せて叩きつけた。アルコルは黙ってその様子を眺めていたが、テーブルから転がり落ちた化石魚を拾い上げる。矢魚は二束三文の値打ちしかなく、白亜堂公司の胸の内が嫌でも分かる仕組みになっていた。
平穏に暮らしている者の家に土足で上がり、自らの都合で他人の密やかな楽しみまで奪おうとするのは、盗賊の所行と同じだ。
だが、感情を昂ぶらせたのは誤りだった。僕はアルコルに頭を下げた。
「ごめん、アルコル。驚いただろう?」
「私のことは気になさらないでください」
矢魚の化石を撫でながら、アルコルは台所へと歩く。水だけでは気持ちを静められないでしょう、と呟いて、簡易珈琲の用意をした。心を持たない少女人形が、僕に気を遣うのがありがたく、同時に気恥ずかしい。椅子に腰掛けてアルコルを待ちながら、心が波立たないように努めた。
僕を餌に、館主を釣りたいという意図を、化石魚から読み取った。
矢魚はそういう魚だからだ。
「珈琲にシナモンは」
「あれは苦手でね」
「どうぞ、お召し上がりください」
鼻を刺激する香ばしさに、僕は微笑んだ。耐えられない熱さの珈琲を我慢して啜るのが好みで、朝の一時はこうでありたいと呟いた。アルコルが嬉しげに視線を送る。僕はそのことに気付き、
「どうした、アルコル」
と尋ねた。
「いえ、御主人様が化石の魚にどのような名前を付けられるのかと思って」
「アルコル……」
今度は咎める口調で名前を言う。媚のみを知るアルコルは、気を許すとすぐに媚態を晒そうとした。お前は憂鬱の種だ。白亜堂公司の有無を言わさぬ力は耐え難いが、無垢がもたらす歯痒さにも困惑してしまう。首を横に振った僕に、少女人形は意味を把握しているのかしていないのか、上目遣いをしたままだ。
僕は化石魚を握り締めた。
「こいつの名前は『ロケット』にしよう」
「ロケット?」
「知らないのか?」
「はい」
僕は広域支配人から貰った化石魚を、窓から天に向かって投げ捨てた。太陽を射抜けと思ったけれども、惜しい、矢魚は熱に焼かれたイカロスのように放物線を描き、地上へ墜落していった。硝子玉の目で僕の行為を見ていたアルコルは、何も言わずに視線を窓からの景色に移していく。小さな声で歌う、その仕草が物憂げで。存在は哀しみを背負うものだが人形ならば尚更だということを、人類は古代から物語にしてきたというわけだ。
時計の針は十時を過ぎようとしていた。
「少し、のんびりしすぎたかな」
「いつも通りに思いますが」
昨日は白亜堂公司の訪問という思いがけないことがあり、その道理を無視した言動に僕の気分は大いに害された。アルコルの注いだ珈琲も一時の気休めだ。矢魚の化石を投げ捨てた後、僕は酒を飲みたくて駅前の穴倉酒場「ロミ」へと出掛けたのだった。ロミはパリ風の、階段を降りていく形式の酒場だが、ブランデーではなくジンを出すから集落の人々に親しまれていた。ジンは安価な蒸留酒だ。西暦の昔から「銅貨一枚で酔える。二枚なら泥酔する」と言われていた。
日中に酒を飲ませてくれるのは、集落ではロミくらいなものだった。閑散とした店内で、僕は酒と書き物をしながら過ごした。暇な連中は浜辺や丘で見えもしない飛行船を、一目見ようとしているらしい。ジンをテーブルに置いたバーテンに、飛行船など落ちてしまえと呟いた。
僕が白羊歯の集合住宅に戻ったのは、とにかく夜も遅くにだ。
だから目覚めるのにも手間取った。朝はライ麦パンとチーズを食べた。アルコルも珈琲の入れ方が随分上達したのだが、そのために昨日のジンがもたらす嘔吐感が癒されて、予定よりも長く寛いでしまった。
「そろそろ行こうか」
汗ばんだシャツを着替え、帽子を被る。
「お前は喪服の他は着ないのか?」
「この服が気に入っています。他の服はあまり好きではありません」
「そうか、変なこだわりだ。アルコル」
「はい」
手を携えて階段を下りた。行き先はもちろん起源種博物館だ。
「夜海を飛んだ飛行船は、ギリシャ空軍がキプロス島侵攻の際に、兵員の大規模輸送を行うために開発したものらしい。西暦の頃の話だよ。装甲板に覆われた硬式飛行船で、テッサリアの山岳地帯に隠されていたものが、大投棄時代を潜り抜けて、羊飼いの子供が偶然それを見付けたんだ」
「私には良く分かりません」
「アルコルと似ていると思う。お前も、岩礁の洞窟で人知れず眠っていたのを、僕が発見したのだから」
日傘を差したアルコルが恥ずかしげに俯く。
今日も乾いた暑さが土を照らしていた。
僕とアルコルはピクニックの気分で白羊歯の集合住宅を後にしたけれども、それは白亜堂公司の依頼を果たすためだった。館主に俗な話をするのは気が引ける。それでも、広域支配人の顔は二度と見たくなくても、約束は約束、依頼を受けたのであれば、仕事は仕事だ。
起源種博物館は昨日と同じく静かに佇み、シリンダー式の認証機にトークンを投じると優しく迎え入れてくれた。トークンとして利用しているのは、西の合衆国が長距離通信のために発行したニッケルのコインだ。表にはコーラ社のロゴが、裏には地球が刻印されている。トークンはそれ自体珍しいものではなく、浜辺や本棚の裏、露天商の小箱の中などに転がっているが、これがなければ起源種博物館との商売はできない。
面倒だ、と一度抗議したことがあるけれども、仕組みだから仕方ないというのが返事だった。
門に掲げられた『花の大路に鳥は舞い降り……』の一節を口遊む。昔の桂冠詩人によるソネットで、この後は確か『風薫る世に月は欠けまじ』と続く。それから、いつものように草食恐竜の肋骨アーチから碑文回廊に出た。無人の空間を流れる微かな水音がアルコルには聞こえるようだ。少女人形は「全ては水から生まれ、水に還ります」と言い、僕は「言葉が最初にあり、言葉が最後まで残る」と言った。
不思議そうに見詰めるアルコルに、
「どちらも正しい気がする」
と微笑む。
博物館には相変わらず人気がなく、展示内容も数年前からのままだ。このようなことで経営が成り立つのだろうか。館主と現在政府の関係は知らないけれども、心配になる。針金のような立像彫刻が並ぶ階段が回廊の先にあり、展示室へと繋がった。広い館内で一人だけを捜すとなると、気の遠くなる時間が必要になりそうだ。
歌花の座は碑文回廊からキュビズム壁画の広場まで、本当に鑑賞すれば一日では足りないくらいだが、歩くのは慣れている。それに今はアルコルという強い味方がいた。睡蓮の水甕に視線を注ぐ少女人形が、僕の求めに応じて『立方ラタ』へと通じる道を指差す。
アルコルの勘の鋭さは、僕などより余程研ぎ澄まされているようだ。
「確率は四十三パーセントです」
「らしくない台詞だ」
「機械を真似てみました」
無邪気な笑顔を見せたアルコルの後ろを追う。
展示通路の大階段の途中から、硝子天窓の渡り廊下に入った。黒い石床にはノアの洪水神話が彫刻されている。僕にはヘブライ文字は読めないが、所々の図柄から神話の内容を辿ることができた。オリーブの葉をくわえた鳩の図の先には、夜を模した人工庭園がある。
「待ち人、来るか」
庭園の中央にいた女性が、静かな身振りで僕らを向かい入れた。
立方ラタ、そこは博物館にあって最も特異な場所だった。命と名の収蔵庫でありながら、この庭園には息吹を感じさせるものが何一つない。ラタとは世を睥睨する仏陀の車輪、石切場のような庭に埋め込まれているのは六十個からなるテレビジョン、その画面は不規則に脈絡のない映像を映しては消していた。北極圏の流氷、都市の交通、ゴビ砂漠の蜃気楼、珊瑚礁と熱帯魚、そして僕の姿。
「これで飛行船が見られるのでは」
「さてね、映ってはいないようだ」
「現在政府があなたをないがしろにしているからですか?」
「子は親を、人は神を、科学は哲学をないがしろにしてきた。不思議と、この件に関しては何も感じていないんだ。それよりも君との会話が楽しみで、アップルパイと氷水を用意して待っていた」
彼女は真鍮製の小さな円卓にそれらを置いて、僕とアルコルを歓迎した。館主の出す菓子はとても美味しいが、どこで調達しているのだろう。案外、手作りではないかと僕は睨んでいるけれども。
「予知ですか?」
「そうだね。虫の知らせだよ。私は暇だし、何度も言うようだが君と話すのは楽しい」
「囚人みたいですね」
何気ない言葉に、食器を並べていた館主の手が一瞬止まる。
「私は篭女かもしれない」
自嘲する彼女の顔は黒髪に隠れていた。
だけど、その姿に影よりも色濃い闇を感じ、僕の視線は固定されたままだ。秀麗な眉目が歪むわけでもなく、心情は推し量れない。それなのに何一つ不備のない境遇には、ピンボールの侭ならなさがあるようだ。
縦横無尽に動きながら箱だけに限定された銀の玉。
「アルコルは君の役に立っているかい?」
館主はことあるごとに尋ね、頷くと、嬉しそうに表情を緩めた。
彼女はアルコルに自分を仮託しているのかもしれない。画面の蝶を追う少女人形を、ベンチに腰掛けて見守る。館主がどうして今の地位にいるのか、どこで生まれ、何を学び、どのような思想哲学を持っているのか、誰も僕も知らなかった。尊ばれているのに謎多い存在。僕には、彼女がそういう役割を演じていることに飽いているようにしか見えない。
館主は水筒を傾けて、僕にライムの香りのする氷水を振る舞った。
「アルコルは良い娘です。僕には不釣り合いなくらい」
「そうか」
複数のテレビが極西ユーラシアの巨大死都を映し出す。
自らの国に中性子爆弾を使うのは、大投棄時代に最も流行した「投棄行為」だった。景観を損なうことなく放射能で汚し、聖地として崇める。当然、巡礼も流行った。沈黙の都市へ行った者は例外なく命を「投棄」することになったが、あの時代では美徳とされた。
他者を殺す刃によって、自らの命をも捨てるのは人の不条理があればこそ。喪失は素晴らしい。そういう夢に僕らはいて、醒めつつはあるが未だ浸ったままだ。
君は良くやっているよ、と館主が慰める。
「僕は捨てすぎました」
「知っている。私も色々なものを捨ててきたから」
我が子を遺棄した母親を褒め称える時代のありように、僕は口を閉ざして、これ以上の回顧を拒否した。アップルパイの甘みが記憶の苦渋を中和させるのを待って、
「今日は、なぜ僕が来たのかも、あなたは御存知なはずだ」
と話題を変えた。
「ようやく本題に入るようだね」
「白亜堂公司の広域支配人が、あなたと会いたいそうです。理由は、あえて話す必要もないでしょう」
「公を司る彼らだ。さぞ高みに立った物言いをしてくれたのだろうね。そういうものさ。西暦の劇作家は上手い言い回しをしている。下種な盗賊ほど手前勝手に聖書を引用する、と」
白亜堂公司と起源種博物館の齟齬が、館主をして辛辣な言い方をさせる。ただ、それは大義名分を得た上での演技で、実際は限られた人間以外には誰に対しても冷淡だった。ほら、僕が出向いても無駄だったでしょう、と今この場で広域支配人を笑ってやりたくなる。
しかし、館主は少し思案するように目を閉じると、
「会うことにしよう」
と呟いた。
僕は慌てた。
「僕が広域支配人に依頼されたのは会談の申し込みだけで、その成否までは与り知らないことです。だから言いますが、彼と会うのは賢明とは思えません」
「私は愚かか?」
「そうとまでは……」
白亜堂公司の汚さは銅貨五枚の日当で肉体労働に従事させることからも瞭然だが、現在政府の意向だとか、ありもしない権威を背景に無理を通そうとする姿勢には心底うんざりさせられる。起源種博物館と館主にとっては何一つ益のない申し出。それを受けようとする真意が解らなかったが、彼女は心配する僕の眼差しを見詰め返すばかりだ。
広域支配人とやらに、強者の理屈が紙屑よりも簡単に破られると教えればよいのだろう。アルコルに人の理を伝えるよりも簡単だ。少女人形はテレビが映す皇帝ペンギンに興味を示していた。それを指差し、虫にとって蟷螂は脅威だが、我ら人にとっては踏み潰す対象でしかない、と言い放つ。
「それに、君の顔を潰したくはない」
「ありがとうございます」
「うん? 私が君のことを気にかけていると、今気付いたかのようだね」
円卓に両肘を載せて、館主は微笑んだ。鳥肌が立つほど美しい。
「僕はいつもあなたを敬っていますよ」
立法ラタのテレビ画面が春の景色に変わっていった。もう季節は夏なのに、視界が春も盛りというのは居心地悪い。テレビは手が届くのに、手に入らないから面白い、と館主は楽しげだった。千年前の恋愛劇が今この時にも再現されるのは、擬似に擬似を上重ねる鑑賞以上に、身を焦がすことなど経験できないからなのだ。
僕はもう一度、館主は囚われているのではないか、と思い、それから過去のことが脳裏に蘇った。
たとえば、夢や、記憶、もっと大切な、何か。
「昔のことは、まだ思い出せますか?」
「もう、ほとんど忘れてしまったよ」
「そうですか。僕はまだ覚えています。時々、嫌になるくらい」
溜息を吐く仕草が様になっていると、館主に指摘され顔を赤らめた。
「カフェで水煙草を蒸かすのは良い趣味と言えるけれども」と館主は言った。「パロ・トロームの主人はどこでフレーバーの知識を得たのだろうね。物書きや知識人が出入りする店に縁があるとも思えないが」
「彼は昔、船乗りだったのです。船乗りは海では紙巻煙草を、陸では水煙草を愛すると」
「なるほど、それで得心いったよ。トルコ式の水煙草を用意しているのが、いかにも変だったからね」
外の世界に興味はあるようだ。
アイスクリーム商の話もあって、僕は少し安心した。
「たまには博物館の外に出たらどうですか? 付き合いますよ」
「すまない」
館主は申し訳なさそうに呟いた。自らを「篭女」になぞらえる彼女は、この博物館で何を務めとしているのだろう。館主が来る前の十年間は無人であったし、ここに居続ける理由もないように思えるのだが。
僕は心を見抜かれないために長椅子から立ち上がった。壁に穿たれた丸窓の一つから、青空に覆われた丘が夏風に草揺れているのを眺めた。舟などを数えていたアルコルが、テレビジョンよりも清々しいですね、と口にする。立方ラタには命あるものを排除しているから退屈なのだ、と館主が呟く。アルコルは人形だった。自然と生き物に興味を抱くのは、自らにないものを求めてのことかもしれない。
私はどこにいるのだろうか、と館主は確かに呟いた。
キリストの祈祷工場ではミサと称する乱痴気騒ぎで日が暮れて、煙草を蒸かす拝火教徒は地下酒場で金がなくても哲学談義。館主は肩を竦めた。記憶の糸を手繰ってみても、ガラクタしか取り出せない。その表情は諦めに染められていて、背広姿に良く似合う。
「でも、面白い詩文ですね」
「これは君から教えてもらったものだよ」
唐突に、館主の言葉が僕を振り向かせた。
「……覚えていません」
「君も、言うほど記憶力が良いわけではないのかな。万智と讃えられる者の限界がこれだから、誰でも同じだろうけれども。まあ、いい。白亜堂公司は君に化石魚を与えたのだろう。捨てるなんて勿体ないことせずに、私に売ればそれなりの値段を付けてやったものを」
館主は広域支配人の置き土産だった矢魚の化石について、僕がそれを捨てたのをつぶさに観察していたようだ。立方ラタのテレビが僕を映している。プライバシーについて、館主に一言言ってやりたい気持ちになったが、彼女の娯楽を責めるのは無意味だとも思った。
結局、僕も館主の視線を感じた上で動いているのだ。
「今からでも、探せば落ちているかも」
「施しで得た金より、高貴に餓えることを僕は選択します」
「人から貰った物を投げ捨てるなんて、感心しない」
その言葉には、時代に対する侮蔑の情が入り混じっていた。
「時々は、僕も投棄主義者に。でも、親愛なる人には譲渡したいと」
「良いものかな?」
「それは難しい。価値は人それぞれでしょう」
僕は館主にオルニトミムスの顎骨を手渡す。今日、立方ラタで食べたアップルパイを百とすれば、こちらは一くらいの価値しかなさそうだが、彼女は両手で顎骨を包むと一言「ありがとう」と呟いた。
その小さな嘆息は消えてしまう。アルコルを連れて出た後、起源種博物館を振り返り泡のような感謝の言葉を反芻した。
日傘を差す喪服の少女に微笑みかけ、
「あそこは良い場所だ」
と言う。
「館主様は優しいですね」
「僕とは違うだろう」
畦道には夏草がまばらで、白い花々が舞い散り、目と季節感を楽しませてくれる。日傘の影を凝視したアルコルは、円周率計算を繰り返しているようだった。
そして、おもむろに僕へ視線を移す。
「違います」
僕はハッとしたけれども、それは単に個体差を答えただけのようだ。人形の言葉を解釈しても仕方ないだろうに、僕は軽い腹立ちを隠したくて日傘の後ろに下がる。
古寂びた家の建ち並ぶ通りでは、僕ら二人の姿を見掛けた人々が声を掛けてきた。その一人一人に挨拶をする少女人形に、自分も見習うべきだった。アルコルは丁寧な受け答えをするし、物憂げな眼差しと喪服を身に纏っていても。媚びることしか知らないから、周囲に融け込むのも早いのだろう、例えそうだとしても。
そういえば、ヨナはもう仕事を終えて家に帰っているかもしれない。
「アルコル」
「はい、何でしょうか」
人前で御主人様と言わせないように心を砕いたが、その成果はあった。
「お前は夕食の用意をするんだ」
「魚料理がいいですか? それと温野菜のスープが?」
「そうだな。温野菜のスープにしようか」
恭しくお辞儀をして帰宅するアルコルを見送り、僕はヨナの家に足を進めた。発掘現場から帰る途中の男たちは、角打ち酒場でサイコロ遊びに興じたり、新聞の見出しを解説したりと忙しそうだ。流通とインクの乾き具合の関係で、新聞は丘に二日遅れで配達される。それでも酒の肴には丁度良いというわけで、当たり障りのない主張を、事情通の秘密情報に見せかけるために使われた。
僕も新聞配達夫の自転車に視線を送り、「密輸団」という見出しの単語を読み取る。そこでシチリアの密輸団はピストルの代わりにバナナを運ぶ、という話を思い出した。バナナ、というのは裏社会の隠語ではなく、南洋の島で栽培される黄色い果物だ。ブーメランのように反っているが、狩猟には使われず、主に病人への見舞いとして贈与される。ピストルは当局に捕まれば縛り首だが、バナナだったら説教だけで済むし、旧態依然とした流通と不親切な関税は密輸バナナに相応しくない利益を生むのだ。
バナナの皮を八つに剥いて、海賊ごっこのフェンシング。かつては誰もが口遊んだギター弾きの名曲を、節を外して歌っていると、寂れた街角も呼吸の量だけ華やかになるようだ。所々、朧に灯る街灯を頼り、集落の外れに辿り着く。
ヨナは僕が来ることを知っていたのだろうか、家の前で立っていた。
「僕らは似ていると思わないか?」
「さあ、どうだろうね。正反対だと思っていたけれども」
肩を竦めた僕にヨナは微笑んだ。
彼の母親はもう眠っていた。健康を心配したけれども、そういうことではなく、昔の人は日暮れと共に横になるらしい。二人で近くのベンチに腰掛け、ヨナはポケットから紙煙草を取り出した。
最近吸っているんだ、とヨナが言い訳をする。紫煙を肺に溜めて眼を細める姿に、労働に疲れた男の影が覆い被さる。僕は彼に化石貝を渡そうとした。フェニキア銅の価値しかないが、それでも生活に苦しむ人間にとっては癒しになるだろう。
「受け取れないよ」
「ヨナ」
「この程度の関係なのか?」彼の言葉は僕の心に突き立った。広域支配人のことを思い、化石貝をポケットに戻す。「それよりも、話は聞いているよ。可愛いお客さんがいるそうじゃないか」
空の星々を見上げつつ、ヨナが呟いた。
「アルコルの?」
「良い名前じゃないか。君に親戚がいるとはね」
家族は大切だし、良いものだ。母親想いのヨナは、僕に「家族」の共通項ができたことを喜んでいた。
その彼にアルコルの正体を明かせば、どういう顔になるだろうか。煙草を蒸かす彼のどこを見ればいいか分からないまま、姪としてのアルコルの物語を話した。沿岸の新都市で貿易商を営んでいた弟が死に、唯一の肉親である僕が引き取ったという馴染みの内容。もう何度もしていたので口が覚えていたけれども、虚偽に恥ずかしさが強まり空気を深く吸い込んだ。
紙巻き煙草の香りに心が落ち着く。
そうじゃない、と僕は告白した。
「アルコルは、自動人形だ」
「そう」
返事が素っ気ない。自動人形なんだ、もう一度言うと、驚いたよとヨナが微笑む。彼は彼なりに、僕を考えてくれていた。
館主の気紛れが君に向けられるのは、喜劇か悲劇か。真相の半分を言い当てられてしまっては、僕も苦笑するしかない。人に対する見方を引き算していかないのが彼の素晴らしさだった。血が家族の必要条件ではないと、言われて気付く。アルコルが余興で、さらに煩わしくあったとしても、今では日々を表す字画の一つだ。
僕はどうしてしまったのだろう。
今のエルビンは表情が豊かで、以前とは違うようだ。アンモナイト礁の魚、浜辺に沈む二枚貝のように、心を凝り固まらせていた。墓銘碑に生年月日しか記されない男、かつてはそうだった。アルコルの世話に手を焼いている今は、誰の目からも呼吸を確認できるのかもしれない。
それは素直な驚きを僕にもたらした。
差し出された紙煙草を口にする。咽奥に通る涼しさが、水煙草に慣れた僕には渋い。
「昔、僕は史家を目差していた。あの頃は未来に純粋な希望を抱いていた。過去を識れば、未来に役立てる、そう信じていたんだ。馬鹿馬鹿しい」
「エルビン」
「僕の思惑なんて、煙みたいなものだ。移ろい薄れて消えてしまう」
大投棄時代で終わった僕は、目を閉じ、口をつむぎ、耳を塞いだ。まどろみの風が吹く土地は死亡ごっこに適していたから。柔らかく否定される。夢や希望がなくなったとしても尊敬に値するとヨナは呟いたが、その意味は計り知れない。
僕などは、君の足下にも及ばないのに。
「自分を卑下するなよ。エルビン。飛び魚を鳥と見なす漁師や、小教区信者と枢機卿を区別できない教会関係者はたぶんいないぜ」
「僕は、ヨナが羨ましいとずっと思っていた」
「ああ、意外に疲れるよ」
「観てれば分かるさ」
僕らは意思を疎通し、夜の密かな楽しみとして、新たな約束の再確認をした。創作に関する限り友人は邪魔者でしかない、と一世紀前の映画監督は恨み言を残したが、創作以外では慈雨のようだ。慈雨は枯れた大地を潤し、地下に眠る種を芽生えさせる。ヨナの存在は一桁の足し算だった。間違えることもなく、安心して回答できる、気分はそれと同一だ。