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化石漁  作者: 浅丼健一
4/9

【その4】

 アルコルがベランダの観葉植物に水を与えていた。通りを歩く人に手を振って挨拶している。

 井戸に行くと、住人の一人に話しかけられた。白羊歯の集合住宅には僕の他に十人ほどが生活している。アルコルを幾らで買ったのかと問われ、そんな馬鹿なことが知りたいのか、と答えた。

「お前も見掛けによらないな」

「勝手に想像してろ」

 僕らは微笑みを交わし、それぞれの部屋に戻る。

 アルコルと同居して一週間が過ぎようとしていた。僕は今の今まで一人暮らしだったので、周囲から好奇の目で見られている。その視線も気にはならないけれども、回答くらいは用意したほうが良さそうだ。アルコルは遠くから訪ねてきた姪と説明することにした。喪服を着ているのは両親に不幸があって、色々と事情があるのだと仄めかせば、それ以上の詮索はないはずだ。

 食事が終わって器を片付けているときに、僕はそのことを言い聞かせた。

「アルコル、お前は僕の姪だ」

「めい?」

「意味は知らなくてもいい。僕との関係を誰かに聴かれたら、姪だと答えるんだ」僕は少女人形の掠れた髪を梳きながら囁く。「これは約束だよ」

 アルコルは頷いた。僕の言葉は絶対だから、一人のときも約束を守ってくれている。一人のとき、アルコルはオリーブの木陰で歌いながら過ごすことが多いようだ。歌声は物悲しげに掠れ、透き通り、横切る人を魅了した。十二条の革ベルトで拘束する喪服と、憂いを秘めた眼差しが、両親を失った傷心の少女という印象を強めている。

 だから、あえて話しかけようとする人間も少なかった。

 僕が食料品店に行くと、そこで交わされていた話題がアルコルの歌声だったときがある。

「あんなに綺麗な歌声は、ラジオでも聴けないよ」

 と、店の女主人は溜息混じりに呟いた。酒場で歌えば金になる、と男が口々に言ったけれども、彼らがアルコルの正体を知ればどういう顔をするだろう。学校帰りの子供たちが、オリーブの幹に腰掛けるアルコルに歌を教えてもらっているのを見た。舟の歌、雨の歌、星の歌、恋の歌。独特な節回しや諸島言葉に子供は舌足らずな声で悪戦苦闘していたけれども、皆で歌うのも心地が良さそうだ。

「今度、学校で歌ってほしいと言われました」

「いいじゃないか。アルコルも、大勢の前で歌いたいのだろう?」

「はい。歌いたいです」

 僕よりも集落の役に立っている。

 そう自嘲してしまうほど、心配は杞憂に終わりそうだ。ただ、もう一つだけ、ヨナには事情を話すべきか迷っていた。

 彼は信頼できる男だ。それは十分すぎるほど理解している。でも、僕にはアルコルのことを上手く説明できるだけの言葉がなかった。真実を話せば、ヨナは僕を不道徳だと罵るかもしれないし、騙したところでアルコルのことが知られるのは時間の問題だ。独り身の男が等身大の少女人形と一緒に暮らしているというのは、世間的には褒められた行為ではない。

 物思いに耽るのを止めようと、化石魚の部屋から出てみた。

 昼の柔らかな日差しから逃げて、アルコルは部屋の隅で寛いでいる。

「アルコル」

 僕は彼女に発掘現場で拾った骨を見せた。

「これは、何だろうね」

「オルニトミムスに似た顎骨の欠片です」

「踝の骨かもしれない。こういうものでも想像を楽しめる不思議だ」

「想像? 私は想像することができません」

 アルコルの呟きは、事実を事実のまま言葉にしていた。

 二つの部屋に機械と人間を入れて、質問をし、その答えが人間のものか機械のものか区別できなければ、機械が「知的」であるというテストを思い出す。

 つまり、主観の問題なのだろうか心というものは。頬に手を伸ばすと、温もりを求めて身体を寄せようとする仕草に、僕は枯れたものが湿りゆくときの音を聴いた。日陰を好むアルコルは、僕が昼間外出しようとすると、日傘を手に追いかけてくる。意味もなく歩くのは僕の趣味だけれど、彼女はそれが理解できないから、目的を聴きたがった。

「歩くことが目的なんだよ」

 アルコルは少し考えた。

「健康のためですか?」

「あ……まあ、心の平穏を保つためかな」

 何百年の昔に作られた轍道を歩き、右手に丘、左手に翡翠色の海を眺めながら、散歩をするのは気持ちがいい。風は穏やかな波の音を運び、夜海の硬質な水面とはまた違う、柔らかな命の揺りかごの顔を覗かせていた。海はいつまでも見飽きることがない。

 僕の呟きに、アルコルも同じ気持ちのようだ。

「私は海の眷属なのかもしれません」

「僕も時々思うことがあるよ」

 化石漁をしたときの、アルコルの様子が思い浮かぶ。彼女の人工知能は海に縁のものだった。

 人形には、その始まりから宗教的な意味があり、アルコルが口にする海への憧憬にも確かな理由が存在するのではないか。海は男女の神性を兼ね揃えている。地域によって海に捧げる儀式は異なるが、夜海では少女人形が歌で神の怒りを鎮め、魚を呼び寄せる役割を負わされていたとしたら。

「お前は舟巫女だった。そういう記憶はないのか?」

「あまり、過去のことは分かりません。一度記録が失われているので」

 その答えは残念だったけれども、アルコルに対する理解は深まったような気がした。波止場近くまで歩くと、喫茶店のパラソルが僕に咽の渇きを思い出させる。水煙草と珈琲、それに魚料理を味わい、長椅子に侍りながら時間を消費するのは蠱惑的だった。

「ちょっと立ち寄ってみよう」

 僕が懇意にしているのは、風車が目印の喫茶店『パロ・トローム』だ。店の主人はアルコルを観て少し驚いたようだったが、心得たものでベイルート製の水煙草を用意してくれた。珈琲を二杯テーブルに置くが、アルコルはこの黒く濁った飲み物を不思議そうに眺めるばかりだ。水煙草の吸入口からリンゴのフレーバーと一緒に紫煙を味わう。

 漁師の舟が波に揺れていた。コンクリートの波止場で老人たちがチーズ石に興じているのを眺め、アルコルにルールを説明する。チーズ石とは、杭に目掛けて一定の距離から石を転がす遊びで、転がす石がチーズに似ているから、その名が付いた。杭の廻りには二重に円が引かれ、ダーツと同じく中心に近いと点数が高い。ダーツと違うのは、相手方のチーズ石を弾き飛ばすことができるという点だ。

「簡単そうですね」

「そうかな。地面には僅かな凹凸があって、思うようには転がらないし、それよりも相手方を詰めていく思考が必要になってくる。単純なものほど、奥が深いんだよ」

 アルコルには遊戯の醍醐味までは理解できないようだ。地面を転がる石を眺めるよりも、風に流れる雲のほうが面白い、と呟いた。それは僕も同じだった。

 主人が気を利かせて、イワシの油漬けをテーブルに置く。パロ・トロームの主人は漁師でもあり、水煙草の他にも海のものを料理して客に提供していた。豊かな胴回りと、日に焼けた肌、岩のような手は海の男の証だ。アルコルが可愛らしい仕草で「ありがとう」と言うと、表情を崩さないまま頸の関節を鳴らして、僕のほうに視線を滑らす。

「薬屋から話は聞いたよ。夜海製のオイルサーディンを復活させたいそうだね」

「塩とオリーブの比率が問題なんだ。普通の缶詰なら問題ないが、夜海製の味を再現するのは難しい。隠し味があったように記憶しているが、それが何かも分からないし」

「島バジルは卵との相性は良くないが、魚との相性は抜群だよ」

「そうか、試してみよう」

 空が溶けていく海の碧さと、庇の下で風を感じながら、主人と缶詰についての情報を交換した。漁の季節になると、イワシの魚影で海が黒く染まる。小魚を追う鮫や鯨を狩るのもいいが、塩の丘ではイワシを網で引くのが主流だった。以前は波止場に缶詰工場があったのだが、今は薬屋の倉庫として利用されているだけだ。バルト海のタラ漁に圧迫されて漁業に従事する人間は近隣へ散ってしまい、今は漁も個人の楽しみだけのものになっていた。

「魚だけで食っていくのは難しい」

 と、主人は言った。

「お魚は美味しいですよ?」

「味の良し悪しじゃないんだ、お嬢ちゃん」

「要は銭になるかならないかさ」

 漁業は運に翻弄される。チーズ石と同じで、単純なようでいて複雑なのだ。

「夜海製のオイルサーディンが食べられるなら、銀貨を払っても惜しくはないな」

 水煙草の成分が肺を満たし、軽く円やかな味わいに眼が泳ぐ。こうしているとアルコルが夜海で聴かせた歌を思い出し、波音と同調する歌声の名残に頬を弛めた。少女人形の役割とは何か、良く解らないけれども、影だけを道連れに生きていた僕には分不相応にも思えてくる。

 アルコルが僕の袖を掴んでいた。

「お話、してください」

「……聖ルスカと嵐の夜の物語のような?」

「はい、お願いします」

 僕は少し考えて、塩の丘に伝わる巨人の話をした。

 海が陸を覆い、丘が島だった頃、起源種博物館のある場所には大理石の館があった。館には古きに属する巨人が住んでいたという。巨人は海を見守りながら静かに暮らしていたが、ある日、一人の修道士が訪れた。修道士の名をヴァルゴと言う。ヴァルゴは国同士の争いに巻き込まれた棄民を引き連れていた。ヴァルゴは言った「神の御名において、館を使わせてもらいたい」と。巨人は言った「その神は我が神にあらず。早急に立ち去るがよい」と。

 しかし、ヴァルゴは諦めなかった。ヴァルゴは言った「それでは私たちに立ち去る土地を与えて欲しい」と。巨人は笑い声を上げた「小さく賢い者よ、お前の望みを叶えよう」

 巨人は虹の鎖を使い、海から陸地を引き上げた。ヴァルゴと棄民たちの周りには、塩の大地が広がった。ヴァルゴは古に属する巨人に感謝し、修道院を丘の下に建てた。それが今の集落の元となった。この一帯が塩を産するのは、大地が海から隆起した証だ。修道院が栄えると、巨人は静かさを求めて西の海へと旅立っていった。塩の丘に吹き付ける西風は、巨人が故郷を懐かしんで出す溜息だと言い、地下から見付かる恐竜の化石は巨人の一族の骨だと考えられていた。

「巨人なんて、本当にいたのでしょうか?」

「神話なんて全て作り話だよ」

「そうなのですか?」

 僕は微笑むと、アルコルの頬に口吻をした。意味を付与することに人は情熱を傾けるが、真偽を決めることには人は興味を示さない、ということだよ。僕は喫茶店を出ることにした。水煙草の残り香を噛みつつ、パロ・トロームの主人に金を払う。日傘を差して、浜辺を歩くアルコルは無垢の象徴だった。僕はなんだか疲れているようだと自覚した。

 ヨナは、今の僕をどう思うのだろう。

「アルコル」

 僕は少女人形に尋ねた。

「お前は、何だ?」

「私は御主人様の忠実な……いえ、姪です」

「僕は、自分が分からない」

 生きている意味が見出せずに彷徨う、僕は幽霊なのだろうか。そうだとしたら、今はとても耐え難い。アルコルの硝子の瞳が、僕へと向けられている。もっと話がしたい。僕は心の奥から滲み出る欲望に声を漏らす。

「あ……、そうだアルコル」

「はい」

「こんな物語もあるんだ」

 一度話すと、僕らは夜中まで話し続けた。

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