【その3】
他者の存在こそ、起源種博物館に最もそぐわない。
と、思っていたので、館主の他者へと向けた言葉に僕は驚いた。
「はい、館主様」
可愛らしい声がする。部屋は適度な広さで、暮らしのための調度品が揃えられていた。館主の呼び掛けに答える声は、天鵞絨のカーテンで仕切られた部屋の奥から届いたようだ。天蓋を持つ寝台があり、僕はそこに人影と細い手を垣間見た。声は、透き通るような人形のそれだ。智王の座に館主以外の誰かがいることに、僕は戸惑いを隠せない。
「何か飲み物を用意しよう」
「館主、誰がいるんですか?」
「興味があるんだ」
「館主……」
僕を流し見た館主は、反応を楽しみながら氷箱から炭酸水の瓶を取り出した。
別に誰がいたって構わないですよ。僕は言った。館主が一人で住んでいる、と思い込んでいただけで、館主が一人で住んでいるわけではない、ということが判明しても常識的に解釈できる。
僕がそういう態度に出たのは、もちろん館主の思惑通りに動きたくないからだ。彼女は肩を竦めたが、それはチェスの上級者が子供と対局するときの所作だった。
「こちらに来て、挨拶をしなさい」
「はい、館主様」
天鵞絨のカーテンから、下着姿の少女が現れる。
珈琲に入れたばかりの乳液が渦巻く、それが今の感情だった。僕の前で、恭しくお辞儀をしたのは、少女の姿をした人形だったからだ。白磁色の肌、栗色の髪、硝子玉の瞳、精巧な手足が少女を模して、自らの意志で歩いたとき、僕の目には少女以上の美しさがあるように感じられた。
廃棄場のマネキン人形などとは比べるまでもない。憂鬱な表情を保ち、微細な均衡を保つ姿は、球体関節人形の系譜に連なるものだ。
触れようとした僕に、少女人形は微かに微笑む。
「御機嫌麗しゅうございます。御主人様」
「これは?」
館主は少女人形の顎を撫でて、僕に説明した。
「西暦で最も優れた人形造形師による作品だ。肌を触ってみるといい。人の手触りと同じだろう?」
僕に炭酸水の瓶を手渡し、彼女は人形の肩から下半身へと手を這わせる。
「種類の異なる合成樹脂を、軽量化した骨格に重層コートすることで、人に近い柔らかさを表現している。それに綺麗な目を見て欲しい。硝子眼は人形造形師が最も技巧を凝らす部分で、人形は瞳の色彩一つで魂を得るということが、君にも理解できるはずだよ」
少女人形は館主の手の動きに身震いした。そういう反応まで人間と瓜二つだが、視線は僕へと固定されている。ぎこちない笑顔だ。
君は運が良い、と館主は言った。
「廃棄場で君が捨てたものを手に入れた」
「……廃棄場で?」
「人工頭脳だよ。君が見付けて、君が捨てた」
あの黒水晶だ。
なぜ、とは訊かなかった。館主は起源種博物館にいるが、世情に詳しく、興味の赴くままに事象を知る術をもつからだ。覗き見趣味、と僕は言うけれども。そして、ここなら黒水晶を入れるに相応しい器が保管されていても不思議ではない。黒水晶は心宿る場所に入ると、すぐに機能を取り戻したのだという。細腕が僕の首に絡み、口づけを求められた。
柔らかな感触が僕の唇に触れ、甘く陶酔しかけてしまう。
「これは君が拾い、君が捨てたものだから、所有権は君にある」
館主が囁いた。
「炭酸水よりもずっと価値あるだろう?」
どちらも僕には刺激が強すぎるように思えるが。
廃棄場の地下街跡で、可動式マネキン人形に黒水晶を入れてみて理解できたのは、これが僕の手には余るということだった。だから捨てた。
「責任を持て。彼女は君に感謝しているそうだ」
「廃棄場で一瞬でも目覚めさせたことがですか?」
「はい、とても嬉しかったです」
少女人形が頷くのを、僕は苦々しく見詰める。僕は右手で人形の身体を押し返すと、机に腰掛けて炭酸水を咽に流し込んだ。
苦々しさの競い合いは、炭酸水のほうが直接的で、僕は館主を一睨みする。
「意図を教えてください」
「エルビン、君が喜ぶものを与えたいだけだ」
「僕がこれを喜ぶと?」
喜ぶ?
僕は喜ぶべきなのか。
しかし、僕は館主から何かを与えられることに慣れていなかった。裏の意図があるだろうと、そればかりが気になる。僕が廃棄場で自動人形を探したのは悪く言えば暇潰しのためだったが、実際に少女人形が歩いたとき、どうするかまでは考えていなかった。疑われるとは心外だ、と彼女は言い、少女人形を側に寄せて可愛がる。
館主は、少女人形を僕に与えようと告げた。
「そして君に、名前を付けてほしい。そういうのが得意なんだろう?」
命名を司る博物館の主が、僕に役目を押し付けるのは職務怠慢ではないか。だが、彼女が言うように僕も「そういうのが得意」だった。少女人形とクンコリ魚は違うけれども。
相応しい名前を思案する。
アル……コル。
アルコル、というのはどうだろうか。
「綺麗な名前だ。アルコル、アルコル、アルコル……」
館主は満足げに頷いた。
北斗七星のミザルに付随する星の名前、アルコルとは「弱さ」を意味する。
少女人形は名前を与えられて嬉しそうに微笑んだ。有り難うございます、有り難うございます御主人様、一所懸命御奉仕いたします。アルコルは僕の靴に唇を這わせた。
「何をしているんだ」
少女人形の行為に虫酸が走る。
館主が男に媚びることを教えたのだろうか。視線を逸らすと、彼女は炭酸水の氷を割る音に聞き耳を立てながら、僕が理性と欲望の間でどう行動するかを観察しているようだ。僕は舌打ちした。館主に試されていると感じ、さらに人形の媚びた態度に苛立ってもいたからだ。
「御主人様……」
「僕はお前の主人じゃない」
その首を僕は絞めようとした。
「エルビン?」
僕の行為に館主が腰を浮かしかけたが、すぐに座り直す。
意味がないと気付いたのは、咽の滑らかだが確かに人形の感触からだった。アルコルは僕が何をしようとしたのか、理解できかねる表情で見詰めていた。生や死の意味すら分からないのに、媚びることだけを仕込まれた機械。
館主の悪い趣味だ。
「お気に召さないのかな?」
「このような言動を好みません」
命あるところに力への意志ありでしょう、と僕は館主に伝え、アルコルは生きていないから思考することもない、と館主は僕に言った。人工頭脳といっても、小脳的な運動制御は申し分ないが、大脳的な思考回路は形而上レベルまで到達していない。模倣して最適な行動を選択するだけであり、僕らにはそれが「思考している」と見えるだけなのだ。
頸を締めていた指の力を緩め、アルコルを抱きかかえた。館主は僕が倒錯した感情に傾いていると考えたようだ。君の暮らしにも彩りが出てきたな、と囁く館主に対して、僕はあえて何も答えなかった。思うに、人と人との関係であっても、一方は一方が「思考している」ようにしか見えていない。慎重であることを望む必要があるだろうから、僕は丁寧に礼を伝えて館主の私室から出ていくことにした。
智王の座には文明の名残が色濃いから嫌いではない。地上に降りる直通エレベーターを待つ間、僕は館主に初めて上がった智王の座についての感想を語った。大小の歯車が回転して、吊り下げられたソビエト連邦の人工衛星が弧を描くのを、キネティックアートだと館主が説明する。
本当は何か機能があるようにも思えるが。
「エルビン」
塩の丘の斜面から海まで至る集落に、まるでジオラマのようだと感じた。館主が何度か僕の名を呼び、振り返る。雲一つない青空に、館主の濃紺の背広は良く映えていた。
彼女は西の方角を指し示して、言った。
「君は、巨人の話をまだ覚えているか?」
「塩の丘に住んでいて、巨人と修道士ヴァルゴの話を忘れる人間はいませんよ。あなたと最初に出会ったときに、僕はあの伝説が疑わしいと言いましたが」
「史家らしい見解だった」
館主は西の夜海を眺めて呟いた。
「きっと、君の意見が正しいのだろうね」
「館主様、『史家』とは何ですか?」
アルコルが問い掛ける。史家とは何なのだろう?
根源的な疑問が脳裏を過ぎったとき、館主は微笑みを浮かべて僕に説明を求めた。史家とは過去の出来事を学ぶことで、現在から未来への問題を解こうとする人を指す。時間と人の歩みは、航路もなく舟を走らす行為に似ていた。歴史、過去の出来事を歴史と言うが、史家は歴史を明らかにする使命を帯びている。なぜなら地中海的な時間概念に従えば、人の行為や思想、人々の風俗や文化は何度でも今でも未来においても繰り返すからだ。
しかし、大投棄時代を経て史家の価値がどれほど残っているというのだろう。白亜堂公司の復興事業にも、自らの過去にも、僕は懐疑的な見方をしていた。かつて共産主義が世界の東を征したとき、史家は暴挙の数々に目を逸らし耳を塞いだ。でも、それは許そう。かつて資本主義が世界の全てを飲み込んだときにも、史家の声は金銭の力の前には小さすぎた。でも、それも許そう。
史家が許されないのは、大投棄時代に飲み込まれたことだ。過去の出来事を学んだところで、未来の破滅を未然に防がなくては意味がない。氷山の存在を知りながら、これを避けない客船の船長は死ぬべきだ。同じように、史家は大投棄時代の罪を背負って地獄に堕ちるべきだった。
「史家とは……」
僕は声を絞り出した。
「史家とは、何か物知り博士のように思われていますが、本当は違います。史家は人に指針を示す羅針盤でなくては。僕はそうしたものに憧れていました」
「過去形だね」
館主が呟いたとき、僕を乗せるためのエレベーターが到着した。真鍮の装飾外装と均等分割された硝子窓が美しい乗り物だった。アルコルには難しい話をしてしまったようだが、館主には理解してもらえたと思う。僕と少女人形はエレベーターに乗った。浮遊感と近付く大地、僕はアルコルを観た。お前を人間として接したい、それだけを告げるとアルコルは静かに俯くのだった。
昔、まだ史家を目差し大陸の図書館や大学を巡る旅をしていたとき、立ち寄ったサラゴサの蚤の市で僕は拳銃を手に入れた。欧州軍が廃棄した基地倉庫から出回った物で、投棄主義者が跳梁跋扈する中では、護身のために是非とも欲しかったのだ。結局、拳銃は一度も使用することなく、史家への夢も諦めてしまったが、あれを使わずにいられたことを僕は時々感謝していた。
アルコルが石の魚を抱きかかえている。
「これは何ですか?」
「肺魚だ。僕はトルムと名付けている」
トルムは僕が持つ化石魚の中では、最も肉厚だった。肺魚というのは沼地に生息し、水中ではエラで、水上では原始的な肺で呼吸をしていた。左右のヒレで沼地を動き回るので、一般的な魚の流線型ではなく、両生類の体型に近いように思われる。
「でも、これは私が知る肺魚とは違うようですね」
「特別なんだよ、これは」
僕はアルコルの肩に手を置くと、肺魚の化石を受け取った。海を眺めるために、窓の椅子に腰掛ける。
それから意識しないまま徒然と、物思いに耽っていたようだ。
人は運命の大枠から外れることはない、と僕は呟いた。乳飲み子から立ち上がり、杖を頼り老い朽ちる。聖者にしろ、愚者にしろ、その過程は同じ。ただ、季節の巡りを百数えることが出来ないからといって、一生が無為なものと達観するほど、僕は利口ではないのだった。
寄せては返す波音に海岸線でさえ千差があるのに、誰もが規格化された生き方に甘んじている。人生とは中継点でスタンプを押すウォークラリーのようなものなのか? 違うだろう。
僕は得体の知れない嫌悪感から抗う術を覚えた。しかし心に茨を秘めることは、肉体を裂かれ血を搾られるのと同様だった。他者と壁を作れば、自己にも近寄り難くなる。あるのは哀れみの無限連鎖だ。ヨナは僕を哀れみ、館主は僕を哀れみ、僕は僕を哀れみ……
その全てを拒絶する。
「御主人様」
アルコルが手を差し出した。
「僕はお前の主人ではないよ」
「はい、御主人様」
他のことは上手くいくのに、これだけは直らない。
一度、殴ってみようかと考えたが、手を痛めそうなので抑制する。魅力のない人間は暴力に頼るが、そこまで自分を貶めるつもりはない。まあ、殴りはしないまでも、頸は締めたから、僕の人間性はとっくに暴落しているか。だからアルコルを殴ろうと考え直したが、少女人形は僕の足から伸びる影に手足を丸めていた。
「……何をしている?」
「こうしていたいのです」
それは人形が持つ癖なのだろうか、彼女は日差しを嫌い、暗く冷たい場所を好んだ。
館主は奉仕と媚態の二つだけは良く教えていたようだ。僕が好まないのは知っていたはずだが、あるいは気が変わるとでも。彼女の髪に指を伸ばしてみたが、人の形として何もないことに哀れみを感じた。つまり僕と同じなのだ。
アルコルには言葉から教えよう。言葉を理解することによって思考は深まる。視覚も聴覚も失った少女が「water」の意味を知り、やがては崇高な自我を獲得するに至ったように、アルコルも僕が好む存在になれるかもしれない。
「館主は、お前に何か話したか?」
「特に何も。ただ、あの方は、御主人様のことばかり考えているようでした」
吉凶の区別がつかない胸騒ぎがする。アルコルは機械的に受け答え、であるからこそ信じるに足りた。主観性がないということは、言説に嘘がないということだ。写真のように。
館主の意図など、僕には窺い知ることもできないが。
「余興のためだと思っていたよ。少し、安心した」
家ではまず化石魚に興味を抱く少女人形の足を洗った。指の一本一本まで精巧に模した足は、水の冷たさには少し反応しただけだが、柔らかなタオルに包まれたときには気持ち良く目を細めた。アルコルのために服を用意しなければ。館主が着せた黒の喪服は似合うものの、やはり、という意識はあった。人形だから食費を気にする必要がないのは幸いが、人らしくあるよう望むのであれば、ある程度の出費は覚悟しないといけないだろう。
何か教えてほしいことがあるか、と尋ねた。御主人様の名前が知りたい、と答えたので、僕を御主人様と言うのを禁じた。しかし、禁じるという概念をアルコルは理解できない。
殴ろうとすると、頬を差し出し、殴られるのは嫌ですが御主人様が好むのであれば耐えられます、などと口にする。アルコルを誇りある個として教育する道程は、茨のものになるだろう。しかし、食べ物は歯応えのあるほうが美味しい。山は険しくあるべきだし、目標は高く設定されるものなのだ。
ささやかな食事の後でアルコルに接吻すると、気が変わってしまい物語の一節を話すことにした。僕の行為を全て受け入れるのは人形だからこそだが、こうして黙したまま耳を傾けてくれるのはありがたい。聖ルスカが嵐の夜に樫の苗木を洗礼した物語は、新しい同居人を迎える日に相応しいと思えたから、曖昧な記憶を辿りながら少しずつ聞かせた。朝歌う小鳥も、夜ざわめく樹木も、秋に揺れる麦穂も、春に戯れる羊にも、命あるものには意志が宿るということを……伝えたくて。
アルコルの物憂げな硝子眼は、新たな知識に接したことで輝きを増したようだ。「理解」するのではなく、「理解するふり」をすると言う館主の顔を思い出し、過度の期待は禁物と自戒する。アルコルはただ僕に忠実でありたいだけだ。この話をどう思う、と問い掛けてみると、御主人様のお話を拝聴できてアルコルはとても幸せです、という答えが返ってきた。
「他には?」
「何もありません。ただ感謝の心で一杯です」
「……そうか」
一朝一夕に成し遂げられる偉業はない。
人形に情理を教えることが、はたして「偉業」と言えるだろうか。その疑念は付き纏うが、無視だ。今日はもう寝よう、明日も早いだろうから。
「アルコル、僕はもう休むよ」
命のないアルコルには睡眠の必要がない。だから椅子に座らせたまま電灯を消して、僕は寝室に入った。館主のこと、ヨナのこと、集落と僕とのことを、一度無の状態にしてしまいたい。化石魚の部屋でいつものように毛布に包まると、夜海の水面に煌く星影、波に揺れる海中の温もりから、静謐な深海へと心を沈めていく。瞼を閉じた僕は、今ここにある架空の海で、化石魚の一つになった。
化石魚は歌声に誘われて漂う。
僕にはその声が、とても身近なものに感じられた。誰の歌声だろうか。心が落ち着く。そして化石魚の夢の中で聴こえた歌は、それが目覚めてからも聴こえることに気が付いた。
部屋には少女人形の姿はなかった。
「アルコル?」
真夜中の風を肌に感じたくて窓を開けると、月明かりの下で踊る喪服の少女がいた。何をしているのだろう、綺麗だ。夢で聴いた歌を歌い、その手足の動きに見せられて、しばし見詰めていたけれども、睡魔に勝てず化石魚の部屋に戻る。
漁に出よう。
そう心に決めた。磯の香りにアルコルの歌声は良く似合う気がしたからだ。
午前三時に僕は目を覚まし、身支度を整えた。
「アルコル」
月夜に佇む少女人形を誘い、僕は潮騒へと向かう。
「どこに行かれるのですか?」
「海だ」
「御主人様が行かれる場所は、とても素敵なところなのでしょうね」
「アルコル」
「はい」
「僕は御主人様じゃない」
黎明前の闇は色濃く、そのときを見計らい、浜辺から小舟を出す。
アルコルは海が初めてだ。舟に乗せることに不安もあったが、不確かに揺れ揺れる感覚に喜びの声を上げて、杞憂であると安心させた。彼女の人工頭脳は岩礁の洞窟にあった。だから海洋との相性が良いのだろう。天球と星屑の祝福に照らされて、夜海の世界は静寂の支配下、舟は水面を滑らかに行く。
楽しい、とアルコルは呟いた。
水平線のかなたを眺める少女人形の、美しい眉目が心地良さそうだ。楽しい、僕は「楽しい」という言葉を噛み締める。本当に楽しんでいるようなアルコルに比べて、自分はどうなのだろう。
濡れた手足が乾くころには、アンモナイト礁に到着していた。
櫂を漕ぎ、夜の潮風と揺らぐ小舟に上機嫌のアルコルを見詰める。
「歌うことは出来るか?」
「流行の歌でなければ」
僕は頷く。
歌が海へと還る戯れを、耳にするには良い月の夜だった。ここは幾多の大巻貝が岩肌に眠ることから、アンモナイト礁と呼ばれる場所だ。文字を持たない生物は、自ら石になることで墓と墓銘碑になるのかもしれないと考え、透明度の高い海水に手を差した。温度はそれほどでもなく、漁には適している。
アルコルの声が風に染む。
それは諸島に伝わる古い歌だった。方言の強い詩は意味を超越していたが、感じるのはより直線的に、波揺れのリズムと調和して僕の心を慰めた。
諸島には歌で霊と交流する人たちがいる。「花近衛」の名で知られ、宗教的な儀式では十人ほどの集まりになって、神歌を歌う。アルコルが僕に聴かせているものは、海に豊漁を願う歌だった。古式の声調は水の奥にも届きそうな、真青の音。館主が君に教えたのか、と尋ねると、意味深な眼差しを海に向けたまま、元から知っていました、と言う。
「海を観ていると、懐かしい気持ちになります」
僕は心臓を掴まれたように、舳先のアルコルを見詰めた。
夜と海は一つになって夜海になり、影を好む少女人形を包み込んでいるようだ。その証拠に歌は月明かりを浮かべる水面に確かな波紋を残し、小さな泡になって海に溶けていく。碑文回廊の基礎詩のようだ。言葉にできない感覚に強く心が動かされた。
「アルコルは、お前の人工知能は、あの岩礁の洞窟で見付けたんだ」
「はい、そのように館主様から伺っています」
あの洞窟は海の民が残した遺跡だ。それは土器片の様式から明らかなことだった。
だとするなら、海の民は少女人形にどのような役割を与えていたのだろう。
「今初めての場所とは思えません」
「不思議だな、人形のくせに。岩礁の洞窟に捨てられる前の記憶があるのか?」
「いいえ、ただ記録の欠片が歌の形をしているのかも」
歌もまた、化石のようだ。僕はアルコルに笑顔を見せると、漁を始めることにした。
網を手繰り寄せる手に、気持ち良く力が籠もる。魚の形をしていると言っても、それは石だから、海中に仕掛ける網は小さなものでなければならない。海面に浮かぶデゴイを頼りに、僕は網を五つほど引き上げた。本物の魚は海に帰し、アルコルに化石の違いを教えていく。これはユーコノスピラ・エレストクス、海で一般的に獲れる化石。これはボトリオテピス・モノス、デボン紀の甲冑魚。
化石は、名無しの星座が落ちたものなのですよ。
「言葉ない生き物が、墓と墓銘碑になるためだと思っていたが」
「それは迷信です」
少女人形は悪戯っぽく微笑んだ。
ああ、そうかもしれない。
アルコルは両手に巻貝の化石を抱いた。意味のない行為に意味を付与したくなる。
海のもたらす魂の静けさは、波の揺らぎに溶けてゆく。心地よい疲労感、空はもう朝の一歩手前、明星が輝いていた。舟の上は海に身を任せるに丁度良い場所だった。アルコル、僕は少女人形の名を呼んだ。彼女は巻貝に耳を当てて、潮騒を聴くふりをしていた。
砂浜に押し寄せる波の泡立ちが、黒から濃紺に薄れる闇の下では幻影的だ。僕は小舟を茂みに隠した。化石漁はいつも午前六時に終える。皆が夜と朝の境界と考え、政府のラジオ放送の始まる時間でもあるからだ。
舟を引いた後は、風と海水が洗い流すだろう。
「アルコル、丘から日が昇る頃だ」
朝日は澱んだ意識の象徴だと思う。朝に対するイメージは、ネガティブなものばかりだったからだ。秘密を嗜む夜が終わると、次に控えるのは日常生活の時間帯。そこでは太陽ですら自由を許されず、暦に沿った運行を強いられていた。
真昼に息苦しさを感じるのは、アルコルも僕も同じだった。家に帰る途中、彼女は名残惜しそうに何度も振り向いていた。海に還りたい、と呟く、それも記録の欠片が原因なのだろう。化石魚の成果は乏しいものだったが、彼女の歌声は銀月と黒金の世界に唯一つの花にも思われた。
白漆喰に羊歯植物が生い茂る集合住宅。
「これから何をなさるのですか?」
「朝食だ」
僕は井戸から朝の真水に組み上げ、卵とベーコンのパスタを作ることにした。良い匂いですね。傍らで料理を見詰める少女人形に、僕は微笑みかける。
「島バジルは塩梅が難しいんだよな」
と、独り言を言いながら沸騰する鍋にパスタを入れた。
塩の風味がする島バジルは、卵との相性が悪い。菜園商社製のバジルでの半分の量を卵に振り掛けると、柔らかくなったパスタと一緒に絡める。朝はこれで十分だった。
部屋の隅に腰掛けたアルコルが、食事中の僕に憂いを秘めた視線を送る。精巧な人工皮膚と造形によって本物以上の魅力を秘めた身体は、少女の成長過程を拒絶する悲鳴が今にも聴こえてきそうなほどだ。髪、硝子眼、細頸から肩、そして背中へと降りる曲線、下腹部。バロック的な美意識が器、人工頭脳によって動作する四肢に心は備わらない。
食事中に見詰めているだけで興味が無限に湧いてくる。
「申し訳ありません。私に心がないばかりに、御主人様の起源を損ねてしまいました」
「……気にすることはない」
哲学者曰く、精神は肉体の付属物に過ぎない、のだから。
食事を済ませてアルコルの足を洗う。十二条の革ベルトで身体を拘束する喪服は窮屈そうで、もう少し軽快な服装にするべきだと思った。
今日は、白亜堂公司の発掘に参加しよう。
生計を立てる意味においては、発掘の仕事など足しにもならないけれども、労働の実感が欲しいときもある。
「御主人様、私は何をすればいいのでしょうか?」
「僕を御主人様と呼ぶな。それと今日は僕が帰ってくるまで、静かにここにいるんだ」
「解りました」
髪を梳くと俯いた顔が僕を見詰めて、笑った。孤独に慣れた心に、それは辛い。
水筒と手拭い、発掘用の革手袋を鞄に入れて、スコップを手にした。白亜堂公司の発掘現場に続く、畦道には見知った男たちがゆらゆら歩いている。景色の中に自分がいる感覚をいつも持ち続けていよう。海沿いのカフェで水煙草を吸いたい。周遊漁の生態が知りたいから本を買おう。その前に、彩湖貝の流通についての本を読んでしまわないと。アルコルの服は、どうしたらいいのだろう。アルコルとの生活は。
そのような思考を続けていると、僕はいつの間にか発掘現場の小屋に到着していた。ここで集まった男たちは組に分けられ、作業に従事する。発掘は流れ作業だ。地面を均等に掘っていき、土を一輪車に乗せ、一箇所に捨てる。そうして慎重に地層を剥がしていき、化石の年代測定や保存状況を克明に記録していくのだった。発掘途中の巨大な化石は熟練者が慎重に土を取り除いていく。この現場からは蜥蜴鳥の化石も良く出るとのことだ。
ヨナを探したが、今日は来ていないみたいだ。他愛ない会話が交わされて、思い思いの組に分かれていく。紙切れに名前を書き込んで、白亜堂公司から発行される人証を示すと、僕も適当なところに入ろうとした。
「ちょっと待て」
背広姿の男が僕を呼び止める。
現場責任者だ。軽く頭を下げると、彼は意に介した様子もなく、発掘現場の一角を指差した。そこはまだ整地されていない、大小の岩石が転がる場所だった。
「測量に邪魔な草木や石をどけてほしい」
「一人でですか?」
そう言いかけて、
「解りました」
と答える。
苦々しいのは、図らずもアルコルと同じ受け答えをしたことだ。個人の自由意志を求めていない人間は、これを当然として去っていくが、釈然としない感覚は僕に施された呪いなのだと思った。仕事になれば、僕は思考を停止した機械だ。行為は媚びを売る人形と大差はない。
作業は測量で等高線を引くために、機械が設置できる空間を確保するのが目的だった。一人でするべき仕事ではないが、一人しか割り振られない仕事でもある。地形を読める人間が鉈と鎌で草木を切り、スコップを使い、テコの要領で石を転がしていく。単純な肉体労働だが蟲や貝の化石が出土するときがあるから、常に注意を保たなければならない。化石を見付けたら一箇所に集め、作業の終わりに現場責任者に確認を求める。
午前中も残り少なくなると、日は高く輝き、汗の量が増えた。もう夏と言っても差し支えない陽気だ。海からの潮風は生温く風の用を為さないため、つねに心地悪さを感じつつの作業になった。水分の補給と休憩を怠れば、すぐに熱中症で倒れてしまうだろう。一人では遅々として進まないが、それでも昼間近くになると刈った草も石もかなりの量になっていた。成果も。僕は動かした石の下から、骨の化石を発見した。
丸みのある骨だ。顎か骨盤の骨か……
地中のものは空気に触れれば急速に風化するので、エナメル剤で科学的な処理を施し、その後、石膏で割れや欠けを塞ぐ。骨を手に取り、僕は想像した。何億年もの昔に、巨大な爬虫類が塩を求めて丘を闊歩していたのを。
海からの暖風が汗を含んだ肌着を乾かす。空は青一色で、光の束である太陽が素晴らしい輝きを放っていた。水筒の水で喉を潤す。井戸水は咽から肺へと染み渡るが、それも気休めでしかないほどだ。だが、それがいい。身体を動かして、何かを成すという実感に、この暑さは欠かせない要素だった。
休憩時間になり、木陰で横になった時だ。
「御主人様」
潮風が運ぶまどろみの香りに浸っていると、なぜかアルコルが僕の前に立っていた。直射日光を浴びないように鴉羽の日傘を差して、暑さにもかかわらず涼しげな表情、影から浮かび上がる実体に、僕は館主が来たのだろうかという錯覚に囚われた。
何をしている。僕が問い掛けると、弁当箱を手渡された。
「料理です」
「料理?」
「お気に召していただければいいのですが」
「そうだな、僕は好き嫌いがないほうなんだ」
アルコルが料理をしたというのは意外で、少し嬉しかった。家事などは最初から期待していなかったからだ。人間らしいじゃないか、と僕が言うと、少女人形は小さく頭を下げる。家事のことよりも料理の中身が知りたくて、僕は興味津々で弁当箱の蓋を開けてみた。
これは……パスタだ。
「どうでしょうか?」
ネジとボルトがトッピングされている。
「あ、うん、独創的というのかな」
冗談かと一瞬思ったけれども、大真面目なのはアルコルの表情を見れば察しがついた。アルコルは僕のために料理を作った。パスタなのは朝食を見ていたからだろう。ただ、彼女は人ではなく、ましてや生き物でもないから、食べられる物と食べられない物の区別がつかないのだ。基本を教えるとして、どこまで基本的なことから教えればよいのか。難問だが、今は気持ちだけいただくことにしよう。
「美味しそうだ」
「ありがとうございます。御主人様」
「その呼び方はやめてほしい」僕は、弁当箱の蓋を閉めた。「美味しそうな料理は、一人で食べることにしているんだ。今日はそういう気分だから、後で食べさせてもらうよ」
「解りました」
「アルコル、ありがとう」
僕はアルコルを見送った。
それから穴を掘って、誰にも見られないようにネジとボルトのパスタを埋める。顔色の悪さを鉄分の不足と考えたのだろうか、だとしたら喜びも五割増しだけれども。木陰で休憩していると、肉体の疲れが他愛ない思考を呼び込んだ。今ある因果を忘れて、何にも拘らなければ、世界は許せることばかりじゃないか。なんとなく、思考の辿り着いた答えに背中を押され、僕は立ち上がった。草を刈り、枝を手折り、測量杭を打ち込んでいく。楽しいと感じると、仕事に没頭するのも早かった。
時計が四時を回れば、確かに日が傾いているのを実感できて、風も疲れた身体を慈しむようになる。発掘作業の終了は午後五時だ。僕らは土埃と汗に汚れた服のまま、日当を得るために列を作る。
食料品店で会話を交わした男らが、僕に好奇に満ちた表情を向けていた。
「エルビン、お前が発掘だなんて、どういう風の吹き回しだ?」
「身体を動かすのが好きなんだよ、意外に」
「休憩のときに来た女のためだろ」
男たちが笑い、僕はそうじゃない、と否定したが、どういう理由かまでは説明しなかった。ハッキリしない奴だ、と見られるのには慣れていたので、平気だ。しかし、白亜堂公司の現場責任者だけは僕に厳しい視線を送っていた。なぜ彼は僕を毛嫌いするのだろう。僕が起源種博物館の館主に近すぎるからだ、と思っていたけれども、どうやら違うらしい。
「お前がヨナと仲が良いからだって、言われているぜ」
「何だ、あいつはそういう趣味なのか?」
日当の銅貨五枚を現場責任者から受け取るとき、僕は鼻で笑ってやった。どうした、と彼が詰問してきたので、どうしたもこうしたもありません、と僕は前置きした上で、肩を竦める。
気が晴れたので、帰路を行く足取りは軽かった。発掘帰りの男たちは日銭を使って酒を飲むが、ヨナがいなければ僕は特に誘われない。酒を飲んでも会話が弾むわけでもないし、共通の話題に乏しいのは如何ともしがたいことだった。エルビンはああいう性格の男だから、という評価は芳しくないものの、僕にとっては気が楽だ。
アルコルに服を買ってあげないと。
僕は呟いた。
塩の丘では古着が普通だが、アルコルには都市で着るような服が似合うような気がする。今度、誰かが新都市に行くような機会があれば、購入してきてもらうことを考えた。それを打ち消す。やはり自分たちで試着してみないことには、身体の寸法や似合うかどうかが解らないではないか。自分のことは何も考える必要がなかったが、世間知らずの同居人には世話を焼いてあげないと。
僕は立ち止まった。
館主が押し付けたものを、嫌々ながら手元に置いているという図式から離れている。化石魚と僕だけの世界は閉じられていて、例え媚びに長けた自動人形であっても、拒絶できる準備はできていると思っていたのに。それはそれで悪くはない、と僕が考えていることに驚く。
「ただいま」
白羊歯の集合住宅に帰り着くと、アルコルが笑顔で出迎えた。
「御主人様の帰りを待ちわびて、歌を歌っていました」
「ああ、すまないね。一人は辛かっただろう」
アルコルは何も言わず、僕の胸に顔を埋める。栗色の髪と頭を撫でていると、ネジとボルトのパスタについて一つの名案が閃いた。アルコルに食べられる物と食べられない物の区別を教えるのは難しい。しかし、アルコルに僕が好きな食べ物と嫌いな食べ物を教えるのは簡単だろう。
「アルコル、夕食にしよう」
「はい、お腹を空かせていると思って、もう作っています」
「作っている?」
「お魚料理ですよ。御主人様の大好きな……」
と、言いかけるアルコルを退かして、僕は台所に行った。鍋に入っていたのは、魚には違いないが、それは僕が大事にしている化石魚だ。茹で上がる寸前のチチムーとクアドラを取り出して、褒められたがっているアルコルを一瞥した。分かってはいるけれども、どうしたものか。
「御主人様の大好きな……」
「ああ、固い魚はあまり好きじゃないんだ」
「それは、申し訳ありません。御主人様」
本当に悲しそうに頭を下げたアルコルに、僕は世界を許す態度で溜息を吐いた。