【その2】
シャツを湿らす汗は気温によるものだった。
眩しくて眉を顰める。
夏は四季の王者というが、海辺にいるとそれも納得だ。競い合う海空の青に疲れた僕は、廃工場の作る日陰に入ろうとした。波止場の工場はイワシ漁で賑わっていたときに建てられた。オイルサーディンの缶詰を作っていたのだが、今では猫と子供たちの遊び場だった。丘の西に広がる大海原は、漁獲量で言えば十万トンを超えるイワシの黒い影によって「夜海」と名付けられるほどだった。
イワシと塩、そしてオリーブ油があれば缶詰ができる。オリーブ油は汽車で小アジアの果樹園から運ばれ、オイルサーディンは汽車で線路沿いのどこにでも運ばれていった。今はバルト海の大規模タラ漁が復活したことで塩の丘の缶詰工場は閉鎖されたが、集落の住人であれば一ヶ月に一度はイワシ肉の臭いを嗅ぎたくて、ここに立ち寄るのだ。
西風と波の崩れる音を軒下で聴いていた。
「臭いが、懐かしいだろう?」
話しかけてきたのは工場跡を倉庫に利用している薬屋だ。イワシの貯蔵庫は通気と温度管理に優れているから、薬の保存にも適しているのだという。
昔は、イワシの肉を練り込んだ古小麦のパスタを食べていた。夜海製の印がついたオイルサーディンの缶詰も絶えて久しく、缶詰は近隣から取り寄せないと食べられないが、ここにいるだけで思い出から空腹になる。僕と薬屋は昔話をした。
「今は駄目だな。何でも塩漬けされたように萎びてる」
「波は海だけのものではないんですよ。人にも土地にもある」
夜海製オイルサーディンの復元をパロ・トロームの主人が考えている。薬屋は缶詰工場の高い屋根を見上げながら言った。パロ・トロームは海沿いのカフェで、イワシ料理とトルコ式の水煙草で親しまれていた。躊躇なく過去を削る現在にあって奇特なことだ。僕も懇意にしているので、その試みが成功したら素晴らしいと思う。
「これからどこへ?」
「海沿いを歩こうかと」
「今は一番散歩に適した季節だから、悪くないだろうよ。それと、気が向いたら俺の店に来るといい。薬屋にも良い物があると教えてやる」
「じゃあ、近い内に」
薬屋と別れて、海鳥の高く低く飛ぶ様子を眺めつつ、海岸を歩いた。碧い海に映える白い雲、白い鳥、白い灯台といったものが絵画のようだ。まどろみ、と土地の人々が言う優しい幸福感は四方に広がり、溜息一つ僕に吐かせた。
文字が生まれる以前から、人と海は共にあり、海は人を育んだ。
僕は小舟。
日照り空に誘われて岩礁に向かった。小高い丘から、白亜堂公司の発掘隊が地面を掘り返しているのを眺める。太古の生物が石化した巨躯を晒していたが、あれの闊歩する様は想像もできない。白亜堂公司はシステム的な発掘体制を敷き、スコップと一輪車で武装した人夫を動かしていく。まるで蟻だ、と観ていて思い、食べるために蟻の一匹として動くのは正しいと感じられた。
何を馬鹿なことを。まどろみの幸福感は詐りだ。
目的を喪失したままだと心が塵になり囚われる。不安を忘れ、コミュニケーションを図ることもせず、表情を殺したまま佇むのは心地よい眠りへ至る道だ。シャツの襟元を弛める。少し足早に、躓き、僕は岩礁へと降りていった。岩礁には誰も近寄ろうとしない。海と陸との境界にあって、禁域に足を踏み入れるのは、逸脱したいという気持ちに動かされているからだ。
「命の有り様は否定しない」と館主は言った。僕は自分が否定の塊のように思われた。彼女は賢く徳に満ちているのに、僕の心は身体を硬化させた化石魚と同じだ。報いは受けても、報われることはないと考えている。母への思慕を隠さないヨナとの一夜を虚構であると言い聞かせ、化石魚の部屋で深海と冥府の闇を夢想する。そのためだけに僕は息をしているみたいだ。
でも、飽きた。
真面目に生きよう。
磯の香りは大好きだ。
不安定な足下を慎重に進んでいき、蟹や甲虫が逃げていく場所を目差す。波の微かな海水は透明度が高くて、砂に埋もれた桜貝も確認できた。西からの潮流は塩の丘を削り、崖を形成し、洞窟を穿つ。そうして出来た一つに僕は足を踏み入れた。
動物の鳴き声が聞こえた。たぶん、コウモリだ。日の届かない世界は存外に涼しく、首筋の汗が乾いていくのが分かる。昔、どこかで「人は迷宮的なものに惹かれ……」という論文を読んだ記憶が甦った。アメンエフマト三世の迷宮神殿や、クレタ島のダイダロスの迷宮、迷宮は救済を求める人間の苦難を象徴しているという。
「竜やキマイラが出てきそうだな」
薄暗い洞窟に僕の心臓も静かに高鳴る。
古来から洞窟には火を噴く竜や悪霊が住むと伝えられてきたが、史家的な見解を述べるならば、それは天然ガスや有毒な物質に対する知識がなかったからだろう。採掘の歴史は人が思うよりも古く、人の精神に影響を与え、数々の神話を生み出した。地獄や地底世界のことを考えながら、洞窟に入るのは冒険の動機付けにピッタリだ。
ただ、岩礁の洞窟は坑道や鍾乳洞と違い、恐怖を感じさせるほどの深さはなかった。仄かに暗い内部は頭上が高く、白砂の地面と湧水の泉があるだけだ。
期待は下回るが、他人ならば肩を落とすところであっても、僕には嬉しい発見がある。
「陶器だ」
禁忌とされた岩礁はやはり宗教的な意味を持っていたようだ。泉に手を差して、砂の底をまさぐってみると、杯や器の陶片が幾つも浮かび上がってきた。
神霊の世界に対する畏怖や敬愛の念が、祭司によって現世と結ばれる。命と同様に死んだ物語がここで語られ、命と同様に死んだ言葉で祈りが捧げられた。アミニズム的な存在へ供えられた食物の名残である陶片は、そうした人の精神史を思考させる貴重なパズルの一片でもあった。
泉に沈んでいた遺物の色彩鮮やかな模様に、果実や酒など相当に高価なものが捧げられたのは間違いない。西暦の末に起源種博物館が建てられて、線路が引かれ、イワシ漁と岩塩の採掘で栄えるまで、塩の丘には文化文明とは名ばかりの陋習が幅を利かせていた。岩礁の禁忌も忘れ去られた信仰による僅かばかりの残滓だったのだろう。膝下までの深さの泉には人間の痕跡が色濃く、僕は夢中でそれらを拾い集めていった。
ここは僕にとって海賊の宝物庫だ。
陶片の模様は素朴ではあるが意匠に富んでいた。黒絵式という、この地域で普遍的な技法の陶画には魚だろうか、鱗が描かれている。もう一枚の陶片には舟の舳先と波模様だ。塩の丘で拾う陶器とは様式も製法も違っていた。
ある時、館主が僕に問い掛けた。
「海岸にある陶片と、丘で見付かる陶片は、同じ場所のものではないようだが?」
「この狭い土地に、海の民と塩の民がいたのです。海の民は轆轤を回した薄い黒絵式陶器を、塩の民は手づくねと幾何学模様の陶器を使っていたみたいですね」
僕は人の創意工夫に思いを馳せていた。
どのような祭司が行われていたのか。生け贄が捧げられたのだろうか、祈りの歌は? 神聖なイコンがどこかにあるはずだ。膝下まで水に浸かったまま、泉の中程まで進む。淡水の澄み渡る冷たさを足に感じ、それから底に沈む石版を見付けた。人の身長ほどもある石版には「Quo Vadis Domine」と書かれている。古い言葉だ。意味も用法も忘れられた一節。
「Quo Vadis Domine」
僕は無意識のうちに答えていた。
「星降る海へ」
零れ落ちた言葉は水面に波紋を描き、石版は粉々に割れた。
長い年月が瞬きの間に飛躍して砂となり、泉の水は仕掛けによって引いていく。石版は厳密に言えば蓋だった。泉が消え、そこにはただ砂の積もった柩だけが残る。
綺麗だ。
砂の中には朽ち果てた少女人形と、黒い宝玉が収められていた。黒水晶のようだが、鉱物に対する知識は僅かなので断言は出来ない。透かすと光の作用によって、幻めいたものが見えた。ある人が観れば生き物と言い、ある人が観れば地図だと言う類のものだが、自然に精製されたわけではなさそうだ。
遺骨は見付からず、あるいは完全に朽ちたのかもしれないが、柩には他にめぼしいものはなかった。少女人形は微睡んでいたが、抱えればそれだけで砕け落ちそうだ。全てはやがて塵と砂に還る。人形はそういうことを僕に伝えているようで、長居するのは憚れた。まだ探索してみたい気持ちが強いけれども、明日も明後日もある、と自分に言い聞かせて洞窟を出る。
傾いた夕日に鳥たちが舞うのを観て、今日は有意義な一日だったと思うことができた。自然に込み上げてくる微笑みは、ヨナと化石漁をしたとき以来だ。駅には汽車が到着していて、都市を貫く特急車両のようには速くも煩くもないが、時間が遅々として進まない丘には相応しい。家々の煙突から煙りが漏れているのを観ると、充足した生き方とは言い難い自らの、後ろめたさに身震いした。僕はこうして歩きながら、少しずつ何かを捨てていき、やがて何も持たずに死ぬのだろう。
僕が忌み嫌う投棄主義者のように。
日が暮れて、食欲がなかったので、水だけ飲んだ。いつものようにソファに身体を預け、暗い部屋に一人だけ、化石魚と微かな波音に思考を止めて死者の気持ちへ近付いていく。心が貧しいと空腹にも耐えかねてしまい、つまらない欲に転びそうになるが、恐ろしいのは全てに対して空虚なままになることだった。
岩礁の洞窟から持ち帰った黒水晶を撫でる。過去が断絶することなく、綿々と受け継がれていれば、僕という存在も華やいだものになったのかもしれない。知識を積み重ねることができるのは、人間だけが持つ特権だったが、もはやその知識すらも失われつつあった。黒水晶もまた、何か用法があったはずなのに。
思い当たる節はあった。
館主から借りた西暦の書物を広げる。『オートマタの社会的受容の変化と展望』という題のそれには、オスマントルコのチェス差し人形から始まる自動人形の歴史が語られていた。当初は山師のイカサマだったものが、精巧な技術と自律に関する理論を得て産業に組み込まれる。穀物の生産や機械の製造に、そしてサービスや文化的な分野にも自動人形は使われるようになった。
神は自らに似たものを作ろうとして、似ても似つかぬ人ができたというが、人が自らに似たものを作ろうとした自動人形は、神の目をして区別のつかない器を持つ。僕はページを捲り、掲載されている写真に目線を落とした。チェスの世界王者と対戦する自動人形、軍事的な任務に就く自動人形、そして宗教的行事に参加する自動人形。人と同じ機械を「背徳的」と断罪するようになる前には、自動人形が闊歩し、人と肩を支え合うような時代が確かにあったのだ。
自律制御と人工知能を担う回路は胸部に組み込まれていた。
これは、オートマタの頭脳に値するものかもしれない。僕は黒水晶の模様に見とれながら、朽ちた人形の側にあったということだけで、奇妙な思いつきに納得した。星々に線を引いて、獅子だ蟹だと連想するような他愛のなさだが、洞窟で発見した黒水晶については、また明日調べてみることにしよう。石の魚を飾るのに意味などいらないように、こういうことでも暇つぶしには最適だった。
ラジオが今日一日のニュースを流していた。
『今と今と今に感謝を』
テッサリアの飛行船や、鉱山労働者の生活改善を報じたニュースを聞きながら、情報に接していると妙に安心する自分に気付いた。酸素と知識が共に「吸収する」という言葉に繋がるのは偶然でないように、生きる限り知ろうとするのは人の性なのだ。
書棚に並ぶ本を、手当たり次第に読んでみた。付箋を付けたページを辿り、かつて僕が歩んだ思索の道を辿る。何も語るべき事柄のない男だったけれども、僕が僕の考えを理解するのは楽しい。ソファで横になったまま文章を読んでいたら、筏に乗って航海する物語を考えた。銛を持ち、周遊魚らを狩りながら、西を目差す。なぜ西なのだろう。真理を求める旅は例外なく西を目差した、とヨナが言ったからだ。
ラジオをつけたまま眠っていたので、目覚めもラジオの言葉によってだった。
『今日も一日が始まります。今と今と今に感謝を』
誰が感謝するものか。現在政府に対する不信感と、眠りを阻害された悔しさから、僕は苦しげに呟いた。西暦の宗教音楽がラジオのスピーカーから流れ、今日が木曜日だと気付く。気付いたら賞金を貰えるクイズなら良かったのに。僕は身体を起こすと、肩や足に感じる怠さを引き摺りつつ、冷たい水で頭蓋骨の中の靄を追い払う。
昨日の夜は何も食べていなかったので身体が軽かった。空腹感も強い。台所で目玉焼きを作り、ライ麦パンと一緒に食べる。これで牛乳があれば最高なのに、と思ったが、ないものは仕方ない。牛乳も塩の丘では高価な食材だ。チーズならともかく、保存の難しい食べ物はすべからく得難いのだった。
「卵の味付けには困らないか」
僕は微笑む。
化石に価値が見出される前は、岩塩だけが丘の恵みだった。イワシ漁を生業とする海の民は多かったけれども、大地を削り岩塩のレンガを運ぶ丘の民はさらに多かった。西暦の流通網は大投棄による破壊で機能しなくなっていたので、岩塩は内陸の都市群で重宝されたのだ。
岩塩は二瘤駱駝を連ねた商隊によって、毎月毎週運搬された。駱駝といえば砂漠の生き物と思われているが、小舟にも例えられるそれは一瘤駱駝のことで、二瘤駱駝は岩肌の高地に群生し荷運びなどに使役される。あの時代の旅は、悪路と混乱、そして投棄主義者の襲撃に怯えながらの旅だった。
昔は幾日もかけて都市に行ったものだが、今は汽車線路が回復し、時間的な距離も短くなった。反面、心情的な距離は遠くなったように思える。
幹が枝へと向かうように痩せ細る、そうした場所だ。海塩には海塩の、岩塩には岩塩の味があり、一口に塩といっても千差万別だと、都市の人間が知るのはもっと後になってからだろう。膨大な時間と手間を必要とする岩塩は価格の面で海塩に太刀打ちできなくなり、それは他に産業がない丘では致命的だった。岩塩の採掘は十年前を境に寂れてしまい、職を失った男たちは何をするでもなく屯していたが、起源種博物館と白亜堂公司の化石発掘事業が塩の丘を救った。
人生のニガヨモギを飲み下すのも一興だ。かつて僕は史家として、西暦の知恵を取り戻せば郷里を救う手段になると考えていた。東奔西走して廃棄都市の大学跡を巡り、失われた知識を求めていた昔が懐かしい。でも、史家として僕は世に何一つ貢献することなく終わるのだ。傍から観れば滑稽すぎて笑えないと気付いたときには、もう遅い。
都合の悪いことは忘れるに限る。珍しく早朝に目が覚めたので、今日から仕切り直しだと考えた。良い傾向だ、前向きなのは。
水を飲むために家を出て、そこで僕はヨナと会った。
「何も言わずに丘を出るなんて酷いじゃないか。ヨナに頼みたいことがあったのに」
「そうだったのか? ごめん。君が都市嫌いなのを知っていたから、別に用はないと思っていたんだ」
彼は実に申し訳なさそうな顔をした。
「謝るよ、エルビン」
「そう言われて、許さない人間は集落にいない。
ヨナは魅力的な青年だ。誰からも愛されている。僕はコミュニケーションの欠乏に餓えているが、彼の存在は救いであり、気恥ずかしくもあった。白亜堂公司の発掘に参加する前に、どうしても僕と会いたかったとヨナは言った。白パンを購入できたことを僕に感謝し、また力になってほしいと言葉を続けた。迷惑でなければ、と俯くヨナに、君なら大歓迎だと微笑みかける。
「ありがとう、エルビン」
「ああ、気にしないでくれ。困ったときは、お互い様だから」
それから朝食に誘ってみたが、彼は仕事に急ぐからという理由で僕の元を去った。後ろ姿を見送り、朝に相応しい出来事だったと嬉しく思いながら、井戸水で咽を潤す。九時を過ぎれば暑さで水も生温くなるが、今ならまだ身体の隅々まで染みる冷たさだ。
午前中は読書や書き物をして過ごした。午後から発掘用の手袋をポケットに入れて外出する。黒水晶を忘れていたので、もう一度部屋に戻り、バジル瓶を買うことにした。
近くの食料品店には銅貨三枚で珈琲と噛みハッカを買い、隅の席でボードゲームをして遊ぶ男たちがいる。今日は働かないのか、と挨拶する。お前を見習ってサボタージュしているんだ、と男の一人が言った。それから岩礁で崖崩れがあったと聴き、あそこは蟲や植物の屑石だらけだという話になり、新聞で報じられている野球の結果に一喜一憂した。
でも、店の人間は誰一人そのスポーツを観たことがない。
「野球を知っているのか?」
「昔、都市に出掛けたときに観た。と言ってもルールは知らないが。投げた球を打ち返すなんて芸当に、ひどく感心させられたよ」
僕の言葉に周囲が何度も頷く。
「まあ煙草でもどうだ?」
「遠慮しておこう。トルコ式以外しっくりこないから」
男たちは「トルコ式だとよ」と笑い、僕も笑い、珈琲とラムネ・ソーダで乾杯した。姪の誕生日が近いから人形を買いたいんだが、と嘘を吐くと、新都市でも買い求めるのは難しい、と店の人間が答える。廃棄場ならマネキン人形が幾らでも転がっていると別の男が言い、それじゃあ誕生日のプレゼントにならないだろうと皆笑った。
「この際、それでもいいかな」
「よせ。気持ち悪いぜ」
「恐くないさ」
僕はそれとなく詳しい位置を訊きだした。
銅貨一枚でジュークボックスを動かす。午後に相応しい曲にしてくれ、と店の女主人の注文を受けてボサノバを選択した。今や機械を扱えるのは、丘では僕と館主を含めて十人にも満たないだろう。だからジュークボックスも店の隅で埃を被っていたが、こうして食料品店に来たときは動かすことにしていた。
新聞を受け取る。目下の話題はテッサリアの飛行船が夜海に運ばれることだったが、残念ながら新しい情報はないようだ。現在政府傘下の都市群が大使議会を開こうとしているという記事が、一面に載っていたけれども興味が持てない。思えば僕の目を引く事柄などが、容易に新聞に載るわけもないのだ。
「バジル瓶を一つ」
「菜園商社製は品切れだよ」
「あるのでいい。トゥーロンの修道院製は?」
「コルスの島バジル瓶ならありますよ」
仕方ないとは思いつつも、やはり等級の落ちるものを買うのは納得がいかない。あれは卵との相性が微妙なんだ、と言いながら銅貨を払う。そして男は女と賭け事の話ができない人間には冷たいから、僕がいられる時間はとうに過ぎていると感じ、店を出ることにした。
一日中無駄な話に興じられるのも立派な社会性だ。
砂利道を歩き、海を見詰める。蒼い水面を小舟が漂い漁に勤しんでいた。旅が盛んな季節になれば材木を求める商人や、聖地巡礼の投棄主義者、物見遊山の輩などで少しは賑やかになるのだが、この長閑な景色のほうが味わい深い。街路樹として植えられたオリーブの木陰で一休みしていると、アイスクリームを売る行商が同じように暇を持て余していた。
「お客さん、冷たいのはいかがか?」
「今日は昨日よりも日差しが強いな。大丈夫なのか? そんな箱に入れて」
自転車の荷台に箱を設えて、学校帰りの子供たちを待っているのか。ああいうものは暑さに耐える商売には適さないと素人目には思うのだが、氷室で作られた氷は密度も高く日持ちも良いというから、案外大丈夫なのかもしれない。氷の他にも工夫を凝らしていそうだが、アイスクリームを買い求めただけでは、秘密を窺い知ることはできなかった。
箱の中から、陶器椀に入ったアイスクリームを手渡される。
「昨日は、起源種博物館の館主様がアイスクリームをお求めになったよ」
「館主が?」
行商人の言葉は僕にとって少々意外だった。
「博物館前で格子越しに。良く買われるよ、お得意様だ」
館主は博物館の外には出ない。そこだけは職務に忠実だが、どのように生活しているのかと心配になるときがあった。広大な博物館の敷地には、館主の私的な温室庭園があって、そこで果実や野菜を栽培していると噂されていたが、一人では限界もあるだろう。僕は柑橘類の鉢植えを持つ姿を思い浮かべた。
微笑ましい。彼女がアイスクリームを好いているというのは初耳だった。館主は菓子作りや紅茶の入れ方にも通じているが、女性らしい嗜好はらしくない。今度、会話する機会があれば、手土産に持って行くのも面白い。
「そろそろ、放課後が近いですなぁ」
行商人は呟きを残して自転車を漕いでいった。
「僕も、行きますか」
もちろん目指すのは、食料品店で聞き及んだ廃棄場だ。
廃棄場は丘の東にあって、名前の通り吹き曝された荒野に一面瓦礫が散乱していた。視界にあるのはセメントの塊とアスファルト、そして硝子片ばかりだ。こういう場所は珍しくないし、特に理由なく訪れるところでもない。ただ西暦の物を何か探そうとするのであれば、金があれば都市へ、なければ廃棄場へ行くのが定石だった。
しかし、西暦の一切を否定した大投棄の爪痕は、宝探しの欲望を簡単に打ち砕く光景だ。破壊は徹底的だったし、わずかに残った物も略奪と屑鉄化に遭った。ただ、海岸の洞窟で見付けた黒水晶が僕の推測通りであれば、自律制御と人工知能を発揮できる容れ物はどうしても必要だ。それが少女人形だろうが、マネキン人形だろうが構うことはない。
とりあえず試せばいいのだから。
発掘用の手袋をして瓦礫の山を登る。突き出たH鋼やコンクリートの石段、大理石のモニュメントが無惨な笑顔を浮かべていた。足下は突然空洞になることもあるから注意が必要だ。大投棄時代に西暦の都市の七割が滅んだといい、そのような技が可能なのかと懐疑的にもなるが、廃棄場の有様を見れば誰もが納得してしまうに違いない。
二つに割れた高層ビルから、非常用階段を伝って地下へと降りた。西暦の都市は政庁、港湾、工業、住宅、商業の機能ごとに区分けされていて、商業施設は狭隘な都市空間を有効利用するために地下に作られることが多かった。非常階段から地下ファッサードに出ると、そこは砕けた天井から射す日と発光ダイオードの灯りに彩られている。
振り返ると、モザイクタイルの壁に摩天楼に登る大猿の絵が描かれていた。通路の左右には、名のある商店の豊かさを誇示する大写真が貼られ、無惨な廃墟とは異質の華やかさが目を引く。硝子の破片に気を配りながら歩くと、食料品店での話通りマネキン人形が数多く捨てられているのを発見した。
「死体と変わらないな」
作り物であれ、人の形をしたものが積み重なるのを観て愉快でいられるはずがない。可動式のマネキン人形であれば、黒水晶が機能する可能性は高い、と思ったが、適当なものを探すだけでも困難な作業になりそうだった。壊れた胴体や頭部を選り分けるとして、風雨に晒され、時には土砂が容赦なく降り注いだ中で、山積みになった人形が何百体といたからだ。
まず試してみよう。僕は持ってきた黒水晶を使うことにした。
可動式人形の胴体を掘り出す。両足、右手はなく、欠損部から機械が露出していたが、実験ならこれで問題はないだろう。西暦の機械産業は規格と互換性を重要視していた。可動式人形の背中に、人工知能を内蔵させるための蓋があり、そこに黒水晶を入れる。
僕は人形の頭を両手で持った。右目の力なく沈んだ瞳が、緩やかに彩るのを見詰める。
「どうだろう……」
マネキン人形の口が小さく開いた。
「テ、テ」
「て?」
「テ、テケリテケリリコガウアアアアア」
左手が痙攣したように震え、意味を成さない外国語が口から漏れた。汗が噴く。危害を加えるものではないと知ってはいても、異形に対する恐怖は拭い難いからだ。どこかに捨てたはずの信心が背中に被さり、これは涜神的だと主張した。手を離すと、可動式マネキン人形は地面に落ちて動かなくなった。僕はひどく安堵して溜息を吐くと、背中から人工知能を抜き取る。
黒水晶はわずかに熱を帯びていた。
ガラクタのような人形でも動くのだ。西暦の技術の確かさには驚くばかりだが、これが完全な可動式人形ならどうなのだろう。地下街跡の不気味な静寂を破るほどの笑い声を上げて、僕は砂山で針を探す行為に手足を動かした。
探すには根気が必要だった。幸い、こういう作業は化石漁で慣れていたので、僕は一時間も二時間も飽きずにいられた。一日の内で一番日差しの強い時間帯になり、汗が浮かぶ。考えてみれば身体を酷使するのは一週間以上もなかったことだ。壊れた人形を一体一体どけていく。
しかし、僕が納得できるものはついに見付からなかった。
疲れたので腰掛けて、ポケットに手を伸ばすと煙草があった。トルコ式の水煙草が最上だが、こういうものでも気晴らしにはなる。ただ、火を持っていないことに気付き、溜息だけ吐く。仕方ないか、どれもこれも。
黒水晶の宝珠を瓦礫の果てへと投げ捨てて、アディオス・アミーゴと呟いた。執着心を捨て去ることに躊躇いはない。僕は家路につく途中、人を一人殺して、頭蓋骨の中にあれを埋め込んでみたらと考えた。思考だけなら気楽なものだ。今日から日記を書くなら、どういう始め方がいいだろう。特筆すべきことは何もなかった、とか気持ち良いくらい簡潔に纏められそうだ。猟奇的な思考に魂が癒されてしまうのは、僕が人間として恥ずべき存在だから。歌を歌ってみて、ステップを踏んだが、それは面白くなかったので、今夜から始めるつもりの日記も延期にした。
シリンダー式の認証機にトークンを入れた。歯車の噛み合わさる音、僕は唐突に昔のことを思い出す。
まだ大投棄時代の最中で、投棄主義者の群れが徘徊していた頃のことだ。集落の外れに誰かが住んでいるという噂を耳にして、僕は好奇心に任せて会いに行った。
僕は死にたかった。その時の僕は、今よりも自暴自棄だった。住んでいるのが投棄主義者であれば、手斧や棍棒で殴り殺されてしまう可能性は大。だから、よそ者と安易に関わるのは忌諱されていた。人々は警告したけれども、僕はすでに世捨ての厄介者だったし、火中の栗を拾ってもみたかった。集落の外れには無人の通信局がある。そこに行くと、僕はアンテナに登った男に声を掛けられた。
「俺の名を知りたいのか?」
と、男は僕に言った。
それが、ヨナとの出会いだった。
水瓶に浮かぶ睡蓮の花、それを見てもなお過去に心を囚われていた。最近は、誰かについての記憶しか保てないことに気付き、鬱になる。自分だけの時間は存在しなかったと錯覚しそうになるから。
鬱屈した感情も水に流れてしまえばいいのに。水瓶から溢れ出た花水は鼎に敷かれた銀砂を濡らし、床下に組まれた竹管に滴る。装飾を排した大理石壁の空間は、観覧者の歩き疲れを癒す目的で造られていた。東アでは、このような方法で涼を楽しむのだ。起源種博物館は記憶と記録に縁取られ、命に不可避な生老病死を展示する。その事実から目を逸らすため、知性あるものは心地よさを求めた。水甕の花、休日、まどろみの風。
運命は稲穂を狩る鎌車として表現された。
そうであるなら博物館は運命のサイロか。
ヨナとの待ち合わせには、いつも起源種博物館を利用している。互いの家を使わないのは、そちらのほうが都合良いからだった。ヨナには病みがちな母がいるし、僕は部屋で客をもてなすのがどうも苦手だ。ヨナは偶蹄目展示室のヘラジカの前にいた。僕が近付くのを予期していたのか。
「この大きな角は、何の役に立つのだろう」
問い掛けは、背後の僕に向けられていた。
どうして気付いたのだろう。足音で、とヨナは種明かしをしてくれた。僕は顔を赤らめる。知識は館主に遠く及ばないが、と前置きした上で、北の針葉樹林ではヘラジカが「盾持つ獣」と呼ばれていることを話した。ヘラジカの角は軍神を矢から守るためと信じられているのだ。本当は求愛行動を有利にするためなのだが、人の空想が事実に勝るときもある。
命がここにあるのは、とても不思議だ。ヨナは展示物を興味深く見ながら呟く。多くの神話が生命の誕生について言及し、外在する神秘の御業を讃えるが、神秘は生命に内在し、海原でネジと歯車が自然に組み合わさって時計となるような奇跡にこそ注目すべきだろう。命あるところに力への意志あり、と起源種博物館の館主は言う。生きようとする力があるからこそ、碑文回廊の基礎詩は多様にして妙なる旋律の韻音に満ちているのだ。
「そうだろうね、エルビン」
ヨナは頷いた。
階段を降り、海洋生物展示室に入ると、まずピアノ線で吊られた巨大エイに目を奪われる。ここは僕らが漁で入手した化石魚や、サメのような軟骨魚類が展示されていた。
「ヨナの母親はどういう人なんだい?」
「昔は、働き者で街でも評判だったけれども。今は足を悪くして誰にも会おうとしないんだ」
淡い青色の光に彼の表情も曇りがちだ。
「もし良ければ、君の母親が作るスープが食べたいな。大麦と野草の」
「もちろん。いつでも大歓迎するよ」
「一人だと温かいものに餓えてしまうんだ」
僕の何気ない言葉がヨナの同情を揺り起こしたようだ。孤独や一人とは無縁であれば、僕などは病を患っているのも同じなのかもしれない。恋をしろよ、と彼に言われ、馬鹿にするなと笑い返した。
「エルビンも、たまには都市へ行けばいい」
ヨナが都市へ行った話をする。都市にはサーカスの大天幕と宣伝気球、空を穿つ摩天楼、物で溢れた市場、何万人という市民がいた。それらは塩の丘では想像もできないものばかりだ。でも、母親のために白パンを買ったことに勝る思い出はないと言った。
ヨナの母親ほどの年齢になると、ライ麦のパンは身体に良いとは言い難い。しかし、塩の丘で白パンを買い求めるのは、海で真水を探すようなものだった。白亜堂公司の発掘に参加しても、一日銅貨五枚の賃金では生活するのもやっとなはずだ。だから僕はヨナに生き方を変えるよう勧めたのだが、それでも皆が働いているから僕だけ仕事を放棄するわけにはいかない、と優しく拒否されるに留まっていた。
孤高を保つ生き方も損だが、周囲に束縛される生き方も損だ。損得だけを考えれば塩の丘では生きていけない、と微笑むヨナに僕は恥じ入る。でも、気持ちが理解出来るからこそ一緒にいられるのだろう。
通路は複雑に絡み合い、容易に全体像を把握できない構造は、館内の人々を飽きさせないための工夫だった。僕らは海洋生物展示室では階段を降り、次の展示室へは簡易リフトを使って上階に行く。墳丘に建てられた博物館は三層、館主が生活する「智王の座」、展示場となる「歌花の座」、地下にある「機械の座」の三つに分かれていた。智王の座と機械の座へは立ち入りが禁じられているが、歌花の座だけでも相当な広さがある。
歌は韻律、花は命を表す。
僕らは天井から掛かる垂れ幕に「罪」の一文字が書き記された、絶滅種展示室についた。巨大な象の骨格が出迎える展示室には、人が滅ぼした生物が集められている。感嘆するヨナの後ろで、言葉で表されない断罪の意味について考えるのだが、結局は不快になるだけだ。象を殺した者は自らも殺すことになる、という東洋の警句に人々は耳を傾けるべきだった。
人は人の業によって象を滅ぼし、ドードー鳥を狩りつくし、密林を伐採し、湿原を埋め立て、その果てに大投棄が起きたのだから。生物史による絶滅の曲線は幾度となくあり、二畳紀では全生命の過半数が絶滅した。それは隕石が原因と考えられているが、無思索な石にも匹敵する行為を人が為したことには驚くばかりだ。人の智は愚かさをも助長するようにできているのだろうか。
「投棄主義は正しかった?」
「さあ、人間が滅べば正しさも証明されただろうね」
基礎詩による色彩の伽藍には滅びの音階が良く似合う。起源種の九割九分が既に絶滅し、それが自然淘汰の四文字で片付けられてしまうことに、人はただ鈍感なのだ。この博物館の根底には黒いユーモアが沈殿しているように思えた。
黒髪の館主は、絶滅について、こう語る。
二酸化炭素をエネルギーにしていた単細胞生物から、突然変異によって光合成をする種が現れたとき、酸素は命を腐らす毒として地球を満たした。想像を絶する大絶滅によって、単細胞生物による死の地層が今でも確認できるほどだ。生命は自らの手で星を不毛にも豊潤にもする。これが自然淘汰であり、人の所行などは別段珍しくもなく、むしろナーイブすぎるのではないか?
それは現在政府の見解に沿う言説だったが、彼女は静かに微笑み、
「死ねばいいのに」
と呟くのだった。
僕はそこまで利己的にはなれない。
「エルビン、聞いてほしい」
前衛芸術家が描いた鯨漁のキュビズム壁画、それが周囲を巡る広場が歌花の座の最後だ。黒い円で表現された恐ろしげな鯨、三角の槍を持つ漁師、困難とそれに打ち克つ人間力を象徴しているのだという。広場の中心に立ったヨナは、僕に約束を持ちかけた。
二人のどちらかが窮地に立たされたときは、お互いがお互いを助けると。
ヨナが化石漁のお返しをしたがっているのは想像できた。でも、白パンの対価になるようなものをヨナは持たないから、誓いという空手形を切ったのだろう。
「受けてくれるだろうか?」
「断る理由がないよ」
「良かった。それだけを言いたかったんだ」
ヨナは好青年だから、きっと僕を助けてくれる。たとえ鯨に飲み込まれたとしても。僕らは新しく付け足された関係に満足して、親愛と義侠を守るためにポリネシア式の握手をした。
それからヨナは起源種博物館から去り、僕は残って、館主が訪れるのを待った。
窓から碑文回廊の基礎詩を眺める。意味の塊は塊であるが故に、読解を強く拒む。だが、韻字には多様性を支える規則があり、文章の体裁は得ていた。以前、館主が基礎詩の一節を口にしたことがある。抑揚と変化に富んだ、素晴らしい詩韻。
「友の顔は、憂鬱であるほど美しい」
「誰の言葉ですか?」
「さて、誰だったろうね。神学者だと記憶しているが」
大理石の広場に射す影の、一つが実体を得たように、館主が僕の傍らに立っていた。足音で僕に気付いたヨナのようにはいかないか、と僕は苦笑する。彼女は落ち着いた口調で、僕とヨナの語らいを邪魔したくなかったと言った。アイスクリームも食べ頃を過ぎれば溶けるでしょう、と話を振ってみたけれども、館主は小さく頷いただけだ。
かつて、全ての問いに答えが用意されているわけではない、と思想家ジャック・ラカンは論じた。現在でも十分通用する考え方だ。館主はサチュルニヤン詩集を知っているかと尋ねた。僕は首を横に振る。詩人は夢の中で見知らぬ女と出会い、女は詩人を愛し、詩人は夢の中の女にだけ心を開いた。
「ベルレーヌが象徴主義なら、あなたは何を暗示させようとしているのですか?」
館主がその問いに答えないのは、最初から分かっていたことだ。僕の視野の右から左へと彼女は歩き、広場の壁画に描かれた鯨の一点に手を押し当てると、隠し扉が開いた。裸電球の光が点々と続く通路には本や紙の束が積み重ねられて、床と天井を支えているようだ。羊皮紙を踏んだ僕は電球の灯りを頼りに目を凝らしたが、それはグレゴリオ聖歌の旋律を記したネウマ譜だった。
「ここからは智王の座。君は知らないだろうが、人の基礎詩は私が作った」
「人の基礎詩?」
「右に廻せば滅び、左に廻せば始まりへ」館主は通路の先にある年代物の昇降機に乗り込むと、僕に手を差し出した。「さあ、君も乗るんだ」
滑車が軽やかに動く音に続いて、昇降機が上昇を始める。
「韻が全てを律するのは君も知っているだろう。七の聖韻と十二の舟韻、十五の葬韻、八の龍韻が起源種博物館の基礎詩を構成しているのも。生命を構成する情報を韻によって圧縮し、詩によって封じることで、時間をも超越する。ところで、西暦が終わったのは今から何年前のことだっただろうか」
「二十年前でしょう?」
「暇があれば、今度ヨナに尋ねてみるといい」
館主は意味ありげに微笑んだ。
人の基礎詩は起源種博物館には存在しないとされていたが、館主は自らが作ったと言う。昇降機の生み出す疑似的な重力と、出口を閉ざした迷路のような会話に、僕が感情は沈んでいった。それを不安と捉えたのだろうか、館主は僕を抱き寄せた。
「君が喜ぶものを与えたい。ヨナと約束を交わしたように、受け取ってもらえるだろうか?」
「盗み聞き、覗き見は褒められた趣味とは言えないですね」
「許してほしい。私の密やかな楽しみなんだ」
昇降機が上昇を止めると、僕らは空中庭園に出た。
硝子と鋳鉄のドームのようだが、人の背丈ほどもある黍が視界を遮るほど密生している。館主は畦道を歩いていく。僕は後を追った。なぜ黍が植えられているのか疑問に思ったが、おそらくは砂糖を生産しているのだろう。黍に含まれている糖分は、地下に鎮座する人工頭脳に供給されると同時に、館主が用意する茶菓子にも使われる。
「良く分かったね」
「アイスクリームの行商人にも、ここの砂糖を分けているでしょう? あなたがわざわざ買い求めるからには、何か理由があると思っていましたが……」
「それも正解だよ。正解者には世界の命運をプレゼントしよう」
欲しくない、と答えた僕に館主は笑い、強制するかと呟く。黍園の終わりには海洋生物展示室のリフトと同じものがあり、それに乗って上階に向かった。岩礁の洞窟を探検したときには迷宮的なものに強く惹かれたが、今こうして迷宮的な博物館にいると掻痒感だけが際立つ。
終点はどこにあるのだろう?
「智王の座の特別見学は、ここまでだ」
到着した場所は、館主の私室。
そして、
「戻ったよ」
と、館主は部屋の奥にいる誰かに声を掛けた。