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久しぶりに君の名前を呼んでみた



 元気がなくなったと言えばそうかもしれない。若い頃のようにはいかないな、と言う台詞がぽんと出てくるあたり、オジサマ傾向なんだろう。現にバイトちゃんはそうやって僕を笑いながら切り捨てる。

 情熱の炎って言ったら青臭いけど、多分そうなんだろうな、と。炎は灯りになった。だから、今の自分が決してキライではない。君の事を愛してない訳じゃない。ただ以前に比べたら、愛してると言うのは恥ずかしいだけで。

 ソファーに座って、本を無造作にページをめくる。書店経営も20年。本に埋もれる事ができると喜んだあの時から数えてみて。自分は今、本より伝票を見ている時が多い。いや、本も多いか。だが、純粋に本を読めない自分がいて。

 商売っ気が出た、と言う事か。本は売りたい。売れないと店が続かない。でも売れる本を望む人ばかりではない。日陰にいて、偶然の出会いで購入する層がいるのは事実で、例えば自分がそうなように。

 理想はあって。それは今でも変わってなくて。なくなってはいなくて。ただ生活があるし、せめて君との生活は守りたいし。来てくれるお客さんとの繋がりも消したくないし。

 エンデにヴェルヌ、ルブランにドイルにモンゴメリ、デュマに那須正幹、乱歩にマーク・トウェイン------

 名前を挙げたらキリがない本と言う魔法の担い手達。

 ただ、こういう本に囲まれたくて、誰か他の人にも読んで欲しくて、そんな想いで、「魔法の本屋」を始めた訳だけど。

 否------そうじゃないか。

 後ろのキッチンでリズミカルに、とんとん、と。包丁を巧みに操り、魔法の使えない僕とは違い、まるで魔法のように具材を料理に変える君がいて。そこにいてくれたら安心で。

 安心が当たり前のようになって。

 君に積極的に話しかける事が少くなって。二人で一緒にいる事に満足している自分がいて。でも、と振り返る。

 僕は彼女に何かをあげる事ができたのだろうか。

 目を閉じる。

 しばらく僕は、君の名前を呼んでない-------





「先輩、今度は何を読んでいるんですか?」

 また来た。僕はあの時、その週になってから数え切れない程の溜息をついていたはずだ。

 興味本位で話しかけてきたのはよく分かる。浮いているだろう本の虫の僕に、

君は躊躇なく話しかけてくる。

 僕は片目を閉じて、彼女を見上げる。迷惑さを演出、苛々も加味しながら。だが、彼女は質問の答えを待つ。

 僕は短気なんだ。それを自覚している。だから、長期戦も長距離走も大長編と言われるジャンルも苦手なのだ。それを見越したかのように、彼女は毎度同じリアクションで僕を攻め入る。だが、陥落易しとでも言いたげな表情は彼女からは読み取れない。真摯な。真っ直ぐな。でも、茶髪に染め、耳にピアス、陶器のような碧の双眸にたじろぐ自分がいて。 偏見? 多分、そうかもしれない。そういう線の人達に線をさらに引く自分がいて。

「何の本を読んでたんです?」

 全く動じてないのか、気にしてないのか。彼女は僕の読んでいる本を覗きこんでくる。ブックカバーがかかって、まして逆さから覗きこんでも分かるはずもないのに。

「……秘密の花園」

 正確にはその原書なので邦文は一切無い。何度も訳文の方は読んだが原書の息遣いが知りたかったというのも理由の一つ。はっきり言ってスムーズには読めないから読書にはならないのだが、あらすじも世界観も知ってるからこそダイレクトな世界がそこにある。

 訳者の言葉選び、表現をとっても感性や苦労が偲ばれる。

「英語だらけ……」

 君は絶句したのが何とも可笑しくて、多分僕は表情に出していたのかもしれない。

 ほんの一呼吸。君と僕で、感情が交わった感じがして。

「先輩もマンガ読めばいいのに」

 拗ねた訳でも無いんだろうが、彼女はボソリと呟く。どうしてか、彼女はいつも僕の世界に入り込もうとし、自分の世界に招き入れようとする。それは新鮮で楽しかった。少女マンガの世界を見せてもらえるとは思えなかったから、紛れもなく新世界だったと言える。

「先週のは、また続き読んでもいいかなと思ったよ」

 何気なしに呟く。

 僕の何気ない言葉は、何気なく彼女の耳をすり抜けて、そして戻ってきた。

 ぼかんとした顔で。それが少しづつ色を為して。見てて面白いくらいに表情が変わる。

「先輩!」

「ん?」

「本当ですか?!」

 いきなり力が入り、僕は苦笑した。その手がいきなり僕の手を握るモノだから、その苦笑も凍りつき、僕の方がドギマギしてしまう。

 慌てて離して、でもその時の僕は気付いてなかった。離れたのに距離が近い事実に。





 目を開ける。

 近いのに距離が離れている事実。それを僕は今感じて焦っている。大切な事が当たり前になってきているというのは月並みか。

 まさか、こんな形になって、という想いが今でも消えないまま、時間だけが経過していった感が強い。気付いたら一緒にいて---------その言い方は卑怯か。

 気付いたら、じゃない。

 僕は彼女が傍にいる事を自然と望んでいた。

 離していたのに近づく距離が、僕は面白かった。

 伝票をテーブルの上に置いて、積ん読を繰り返していた本を手に取る。積ん読というよりは取り置きに近い。楽しみなのに仕事を優先してきた結果。それは仕方が無い。売れる本を仕入れる。そして客層が求めている本を仕入れる。そして客層が求めたものを店主は知り尽くす。その過程で、自分が本を好きだという事実が消えて。

「珍しいですね」

 彼女は振り返らずに言う。僕の一挙一動が掌握されているのを感じる。その反面、僕は彼女を知り尽くしていない。知ろうとしなかった、単純にそういう事か。

「め、珍しい?」

 何で声が上ずっているんだろう。

「お仕事の書類が多かったでしょ?」

「------よく知ってるな」

「一緒にいるもの、それぐらいは見ているし、顔つきでだいたいは」

「ちー?」

 無造作に無意識に出た言葉。彼女は一瞬、ぽかんとして、そして小さく笑んだ。しまった、と何故か僕は思い、慌てて視線を反らせる。




 視線を反らせたのに、彼女はやっぱりあの時も僕の逃げた目を追いかけてくる。

「先輩」

 いつもの場所で、いつも通りに。何も変わらなく、何も進展もせず。ただ彼女は遠慮無く僕の領域を侵して。それが当り前かのように、距離を詰めて。詰めて。詰めて。

「賭けは私の勝ちですよね?」

 ニッと笑って言う。嬉しそうに。無邪気というかなんというか。

 僕らは賭けをした。期末試験で、彼女がトップ50に入るかどうかで。ちなみに彼女の成績は100位以下というが大抵。僕は30位程度。秀才とまではいかないという何とも中途半端な感じが、何とも昔から僕であった。

 そんな彼女が見事に50位の壁を打ち破った。

 その結果は僕も見た。

 無理だ、と僕自身が決めつけていたのに。

 賭けは僕の進展しない現状維持で終わるはずだった。

 だから、結果を掲示板で見た時は呼吸が止まる感じだった。

 覆した。彼女が全力で。例え、49位というギリギリの立ち位置であったとしても。彼女の記録を、彼女自身が打破したのは違いない。だから彼女が言う通り、賭けは間違いなく彼女の勝ちで、現状維持しかできない僕の大幅な負けだった。

 彼女は僕が屈する姿を見たかったんだろうか。勝利に酔って------とまで考えてバカらしくなった。それは単なる妬みだ。単純に僕は彼女を排斥しようとした。すればいい、できるなら。答えは決まっている。できる訳がない。だから僕は諦めの息をついた。

「で、何をリクエストしたいの?」

「いいんですか?」

「だって、その為に頑張ってたんでしょ?」

 僕は軽く肩をすくめて。彼女はさらにその表情に笑顔を彩っていく。

「先輩は優しいから好きです」

 直球ストレート。最近ようやくわかりかけてきたが、ファッションに反比例してこの子には邪気がない。ピアスは相変わらずなんだが、それすら彼女の一部に思えてきたから不思議だ。達観した事実として、僕は頭が固い。単純にそうなんだな、と。

「名前で呼んでください」

 僕は固まった。どんな無理難題がくるかと思ったが、まさかソレとは------。

「だって先輩、『君』しか言ってくれないし」

「なら君も僕のこと名前で呼べよ」

「いいんですか?」

 しまった、と思った。彼女の目は躊躇ない。

「雅紀先輩、んー、これは普通。まさのり! これじゃ私が尻に敷いてるみたいでイヤだなぁ。雅紀君、これも普通」

「あ、あのもしもし?」

「まー坊! 違うなぁ。まーちゃん、これ可愛いい。あ、でもすごく嫌そうな顔してる。これはダメかぁ」

「おーい、もしもし!?」

「はい? もしもし?」

 聞いてないのかと思っていたら聞いてた。なら聞けよ、と思うのだが、不毛なやりとりになって疲労感ばかり募るので大人の僕はぐっと飲み込む。

「なら聞けよ、って顔してる」

 そこまで読むなよ。そしてまた不毛なやりとりが勃発する訳で。

 僕は小さく息をついた。

「それは、僕をからかいたくて?」

 彼女はぽかんとした顔で僕を見る。言っている意味が分からなかったらしい。

「だから、名前で呼ぶってのは、僕をさらにおもちゃに------」

 したいのか、という嘆きは言葉にならなかった。彼女の真剣な目に呑まれた、それが正解か。僕はこの時から抜け作だった。普通に考えれば分かる事だ。成績を塗り替える事は容易じゃない。某通信添削塾の広報漫画のような突然、成績が好転する事は有り得ない。結局センスや才能、好き好きが土台にあったとしても、泥臭い努力の積み重ねが成果になる。その事を僕は痛感していた。追い越そうと思っても追い越せないのは、トップを走る彼ら彼女らの努力は累積し蓄積した結果、循環し、さらに力を得た故だ。

 だから、彼女の努力も並大抵ではなかったというのは肌でも感じる。

 これは侮辱だ、言ってみたら。さすがにこの子だって、ここまで言われたら僕に愛想を尽かす、殴られても罵倒されても文句は言えない。あの時の僕はそう思って、それを覚悟で目を閉じた。

「決めた------」

 彼女は絞り出すような声で、ぐいっと僕のーー両方の耳朶をぐいっと引っ張る。る?  僕は自分でも目を白黒させているのが分かるくらい動揺していた。

「先輩、よく聞いてくださいね」

 と彼女はさらに耳朶に力をこめる。多分、よく耳の穴を広げて聞けの意なんだろうが、両耳される意味がわからない。かくいう当時の僕は痛さ云々より、彼女の真剣さに呑まれて、悲鳴すらでなかった。

「私は先輩をまー君と呼びます。だから先輩も私を千沙ってちゃんとよんでください」

 宣言する。

 僕はコクコク頷く。

「名前で呼ばれて、なんかスタートできる気がするので」

 彼女はにっこり笑って言った。その顔が少し上気している感じがしたのは、きっと彼女自身が精一杯、頑張りを見せていた証拠なのか。

 まー君で、千沙か。

 僕らが言うのか?

 無理というか、悲壮感というか。何回目かの息をつく。妙な緊張感を残して。彼女は満面の笑みで返してみせた。






「でも、結局、名前で呼んでくれなかったんですよね、まー君は」

 彼女が僕のとなりに座っていう。その前に、置いた二組のコーヒーカップの一組に手を延ばし、そっと口をつけた。

 さり気ない、というのか彼女の仕草にはぴったりだ。この近すぎる距離を適度に保つ。

「だけど、とことん追い詰めたよな」

 僕の一言に千沙は意地悪く笑った。

「契約不履行をする方がひどいと思いませんか?」

「やり口がなおひどい」

「でも私はまー君にああやって呼ばれるの、好きです」

 この期に及んで何を言うのか。

「今思うけど、ちーは計算高い」

「まー君が分かりやすいんです」

 さらっと言ってくれる。

 僕はため息をついた。

 どうしてもあの時、僕は千沙の名前をよんであげられななかった。今考えてみるとヒドイ話で、約束を徹底破棄したいるのだから、侮辱以上のモノだと思うのだが、千沙の執念はそれを上回っていて、僕に『ちー』と呼ばせる事で結論づけた。これ以上、拒否権が無い事は千沙の目が物語っていたが、さらに冷静に考えると、普通に名前で呼んだ方が、周囲の視線を思うとまだマシだったんじゃないか、と思う。

 案の定------





「まー君!」

 大音量とはこの事か。僕は購買でアンパンと、その他惣菜パンとコーラを買い込んで読書に没頭するつもりだった。さっと食料を購入したらいつもの場所に移動、というスケジュールが、千沙のおかげで、全て台無しだったりする。

 沸く人の壁に人の壁。多感な高校生達は、だれがだれと付き合った云々は甘味以上に魅力的なメニューに違いない。

「本多、お前、いつから!」

「奴が裏切りやがった!」

「あの子、一年の高橋さん?」

「高橋さんと本多、なんか意外?」

「千沙、本当なの?」

「なんか、本多が照れてる。あいつ、そんな顔するんだね」

 何から何まで余計なお世話だ。が、千沙はニコニコして、僕を見返すのみで一歩も動かない。何かを要求しようとしているのは目に見えて確かなのだが------要求してるな。最近、千沙の行動の一つ一つの意味がわかるようになってきた気がする。

 無視していこうとするも、千沙ががっちりと僕の腕を掴んで離さない。

「なんだよ?」

 千沙はニコニコ笑うばかり。周囲も怪訝な顔で僕らの様子を伺っている。公開処刑か、これは。

 僕は小さく息をついて、覚悟を決めた。

「行くぞ、ち、ちー」

 どもってしまった。いいように千沙に踊らされている気もするが、千沙も周囲もそんな事は気にしていなかった。

「うん」

 満面の笑顔の千沙と、周囲のどよめきと。

 駆け足で逃げ出すように、この場を去るしか無い。千沙は弁当持参だから、購買に来る必要も無いのだが、間違いなく計画的犯行と言わざるえない。

「ちー、お前なぁ」

 ため息を一つ。千沙は嬉しそうに笑うのみだ。どう考えても、からかわれているようにしか思えないのだが、千沙から悪意を感じないので、結局拒絶できない僕がいて。

 むしろ千沙が僕ををぐいぐい引っ張って疾走していく。僕は息を切らしながら、彼女についていくのに必死だった。

「まー君は楽しいね」

 ボソリと言う。

「意味がわからな、い」

 句読点の間は、息切れである。

「なんていうか、人付き合い悪いのに、嫌いじゃないんだね」

「嫌いだよ」

 面倒くさいとも言う。

「本当に嫌いだったら、私を拒絶してると思う」

「た、確かにね。ちーが良い性格してるんだと思う」

「まー君の事をもっと知りたいだけです」

「もっとおもちゃにして遊ぶのか?」

 また言ってはいけない事を口にする自分がいる。なんでこんなに僕は擦れてるんだろうか。正直に受け入れられない自分がいて。開きかけた扉を閉じてしまいたい、そんな衝動すらあって。

「そうだなぁ。私だけのオモチャにしたいという欲求はあるかも」

 その目が真剣そのものなので僕はたじろぐ。分からない、こんな男の何に興味をもっているのか、が。

「まー君は、嘘が少ないから」

「は?」

「着飾った嘘をつかない。嫌と好きがはっきりしてる。私から見たら坊ちゃん育ちだけど、隔てなく接してくれたから」

「そりゃウソだ。僕は隔ててたぞ? ちーみたいな人達は僕は苦手だったから」

 二人の足が自然と止まる。

 千沙は無造作に耳のピアスに手をを触れる。僕は小さくコクリと頷いた。

「このピアスを外したらまー君はもっと私の名前を呼んでくれますか?」

 より真剣に千沙は言葉を重ねる。千沙の求めているものは、僕なんのには理解ができない深淵のような気がして。そこに手を触れたら後戻りはできない気がして。そこまで思うが、僕は迷いなく首を横に振った。

「そのままで」

「え?」

「千沙はそのままでいい」

 千沙は固まったように僕をみる。

「------名前」

「え?」

「まー君が名前を呼んでくれ、た」

 絞り出すように。小さな感情がやがて波紋を、波状が波となって、小さな津波が、蓄積した感情を炙り出して。

 慟哭を。

 名前すら呼べなかった僕が、その慟哭を体で受け止める。

 後に知るのは、千沙には名前を読んでくれる相手がいなかった事実が一つ。

 千沙が生まれてから本当に一人ぼっちだった、という事。

 この時はそんな事知るよしもない。

 恥ずかしげもなく、ただ千沙を抱き締めて。

 ただ何かが変わる気がして。








 コーヒーを飲み干しながら、僕は千沙を見る。変わらないようで変わって。僕は店を始めた。千沙は千沙で自分の仕事をもって。子どもも授かって。だけど、あれからここまで一緒に歩んできて。一緒にいる事が当たり前になって。また、名前を呼ばなくなって。名前をよばなくても、通じている気がして。

 と、千沙も僕のことを見ていた。いつもなら、目を逸らしてしまう所だが、今は千沙の視線を受け止める。

「何を考えていたんです?」

「千沙なら分かると思うんだけど?」

 少し驚いた顔をして、でも嬉しそうに言葉を続ける。そうか、僕は無意識に名前を呼んでいたのか。

「私はまー君が思ってる程、まー君の事分かってないんですよ? こんなに一緒にいるのに」

 少し歪んだ表情で。もっと知りたいのに分からない。そう言いたそうで。こんなに一緒に歩んでいるのに。まだまだ足りない、と。

「ちーと出会った時の事を、ね」

「え?」

「事細かに思い出していた」

 僕は微苦笑を浮かべて------千沙は耳まで真っ赤にして。僕は怪訝そうな顔をしていたんだろう。千沙は必死の弁明を試みてきた。

「だって、だって、あれは私、すごく勇気をだして!だしてだして! 頑張って頑張って」

 さっきまで一緒に思い出していたじゃないかと思ったが、事細かに回想しているとは思わなかったんだろう。ただ僕視点で感じていた事と、千沙の想いは違ったようで面白い。

「僕はちーが、動じてないのかと思ったよ」

「そ、そんな訳ないじゃないですか!」

 俯きながら、吐き出す。そうだよな、と思う。一緒にいて分かったことは千沙の弱さや、しまいこんでいた感情が随分と圧縮されていた事。妊娠の時、それがかなり顕著だった。そして愚かにも僕は、その事すらもすっかり忘却していた事だ。

「なんで僕だったんだ?」

「まー君は私じゃ不服ですか?」

 この言葉の裏返し。僕は、いつも千沙に翻弄されつつ隠されてしまう。

 千沙は核弾頭級の言い方で、言葉を修正------という名のトドメを刺しにきた。

「私がまー君が良かった、と以前も言いましたよ」

 あっさりと。

「僕は、千沙がいてくれて良かったよ」

 言えた。千沙は言葉を失って、僕を見ている。言えたんだ、気取らず、意識せず、ただ君の名前を。言いたかったんだ、と思う。気恥ずかしさや建前なんていう愚かなもので、僕はそれを隠してきた。

「ズルいです、今まで呼んでくれてなかったのに、交互にたくさん呼んでくれるなんて」

 俯き、僕の手をぎゅっと握る千沙がいて。握り返す僕の手は、まるで10代の頃の僕らを彷彿させるように、脈を跳ね上がらせていた。

「まー君」

「ん?」

「本当は、あの時リクエストしたい事は別だったんです。今、リクエストしていいですか?」

「今?」

「今------」

 千沙はそっと、僕の耳元で言葉を囁く。

 躊躇するが、その弱虫加減をぐっと飲み込む。

 千沙は目を閉じて待つ。

 本当は。

 本当は。

 こうされたかったんです。

 今まで、された事はなかったから。

 一緒に走ったあの日、してもらったようなものだから。叶ったと自分では諦めたけど。自分の口で、好きな人にワガママを聞いて欲しくて。

 渋い顔をしていても、まー君は、きっと聞いてくれると信じていたから。

 ワガママ一杯に抱き締めてもらいたかったんです。

 僕は迷わない。一瞬、覚悟が必要だったけど。

 千沙の想いの通り、ただ抱き締めて。

 40歳を越えた少年少女がいてもいいじゃないか。僕ら、これだけの回り道をしても足りないくらい、まだ分かり合えてない。でも、ここに一緒に生きる奇跡は感じている。

 だから------。



 それに付け加えて。僕は何度も何度も君の名前を呼んでみた。


アラフォー夫婦をテーマに書いてみたらこうなった感じで。

書き上げたい作品の前にこれができあがったあたりが苦笑もの(笑)

プロット的には掘り下げたいネタはたくさんあったのですが、まぁまた精進します。ここまで読んでくれた皆さん、お疲れ様でした。

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