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ふわふわ浮かせて


ふわふわ浮かせて



 僕はきょとんとして、彼女の言葉を聞く。思わず、淹れた紅茶をこぼしそうになった。

「私は君がいてくれるから、浮けるんだよ」

 にこにこと笑う。僕はやっぱり紅茶をこぼして、慌てて拭く。もったいないもったいない。

「浮くってどこに?」

 新しい研究なのかと思った。彼女はいつも難しい数式と取り組んでは、一部分だけ重力を軽くする方法について研究してるらしい。今は小さな小屋程度の場所で、月の重力への出力に挑戦していると言っていたのを思い出す。

 すごい、と思う。僕はお菓子しか作れない。

「君の場所に」

「君のとこに」

「君が感じられる場所に」

 まくしたてて、僕へダイヴする。今度はすかさず、紅茶をテーブルの上に置く。そして受け止める。まるで小犬のように僕にすりよる君を見ながら、いつも感じるのは天才科学者も人間なんだ、という事。

 そして僕は天才科学者じゃなくて、僕の紅茶とお菓子を食べてくれる女の子--------マキセ・ハルナという子が好きなんだ、という事を自覚している。

「でもね」

 君は真剣な顔で僕を見る。数式を睨んでいる時よりも真剣。本当に切りつけられたような視線で僕を射る。

「君がいなくなったら、私は沈んでしまうから」

「うん」

「本当に沈んでしまうから」

「うん」

 沈む、という意味がまだよく分からなかった。彼女は自分で命を潰すような人じゃない。ハルナは自分の存在の重さと研究をもしかしたら、世界で唯一導き出せる人間だということを自覚している。

 僕とは違う。

 僕は数あるお菓子の一つだ。ハルナが好きだと言ってくれたお菓子の一つ。いつか在庫に埋もれて、新しいお菓子に目がいって、僕の方が沈むだろう。でも、ハルナの沈むという意味はそういう意味じゃない。僕は自覚が足り無すぎた。

 


 ふわふわ浮かせて-------------

 


 ハルナは沈んだ。

 スイッチが切れた感じだ。何をしても受け付けない。理由は僕がお店で、お客さんの女子高生に「好きです」と言われている場面を目撃されたから。まんざらでもない僕の顔を見て、彼女は何を言うでもなく店を後にした。怒ってるふうでもなく、悲しんでるふうでもなく。

 そう思っていた僕は馬鹿だった。

 帰ると、ハルナは沈んでいた。虚ろな目で、ずっと一点を見ている。腫れた目で、僕を見る。でも、僕の事はまるで視界にはいらないように、別のものを見ている。

 沈んでいく。それが分かった。科学者のハルナにあるはずの強さがなかった。

 僕は言葉をかけた。

 彼女はそれを返さない。

 そんなの初めてで、僕は困惑した。

 科学者マキノ・ハルナは強い人だ。天才で、世界の財産で、きっと宇宙に飛び出す人類に貢献する偉大な人物として歴史に記される。一方の僕は単なるお菓子職人。本来なら釣り合いなんかとれるはずもない。僕はいつもそれを負い目に感じていた。

 だから、僕はお菓子の一つでいつか飽きたら、在庫の中に埋もれてしまう。

 沈んで沈んで、もうハルナは見つけてくれない。そう思っていた。

「・・・・・」

 なにかハルナが喋った。僕は聞き取れなくて、もう一回聞く。

「なに?」

「ゆ」

「え?」

「ゆるさない」

「は?」

「ゆるさない! 違う子にへらへらした顔が許せない」

「あの、ハルナさん・・・?」

「私・・・コウタ君に言ったよ。貴方がいないと沈むって。貴方がいてくれたら浮くって」

「うん、でもさ、あの子、高校生だよ? そんな本気で言ってるわけないし」

「私の言葉も本気じゃないと思ってたの?」

「え?」

「女の子が心の中も知らない人に好意を伝える事が、何でもない事だと思ってるの?」

「・・・・・・」

「コウタ君」

「はい」

「私を浮かせて」

「はい?」

「抱っこして、空へ浮かせて」

「あの・・・ハルナさん」

「何?」

「僕の非力さを覚えていると思いますが」

「私を月に連れていって」

「あの・・・無理でしょ、それは」

「無理じゃないよ。コウタ君が抱っこして、お外まで連れて行ってくれたら、今度は私が絶対、コウタ君を宇宙へ連れ出すもの」

 真顔でそう言う。科学者はそんな事言わない。甘い事は言わない。希望的観測は言わない。初めてお店で会ったとき、ハルナさんはそう言いましたよ? 

「私は事実を事実として言ってます」

「事実って?」

「コウタ君が私を浮かせてくれるから」

 僕はため息をついて、ハルナさんを抱きしめる。彼女の体は標準的に見て軽いが、僕の体重は標準的に見て圧倒的に軽いので、彼女をお姫様抱っこした時、僕はついふらついてしまう。でも、彼女は落ちまいと僕にぎゅっと、掴まって、多分、僕が転んでもその手は離さないんだろう。

 笑顔が戻った。彼女は浮いた。僕は玄関を開けて、靴をはいて、外に出る。階段を降りる。ここで転んだら、二人で入院生活もありえる。僕なんか見た目からして、骨が脆そうだし。我思う。お菓子の砂糖は骨を溶かす。しかしその前に目の前の女の子が僕を溶かす。

「月、でてるね」

 ふらふらしながら、僕はなんとか彼女に言う。彼女は満面の笑顔で僕に頷き返す。

「宇宙船ってこんな感じかな」

「え?」

「ふわふわしてて。無重力になったら、こんな感じなのかなって」

「それはハルナさんの領分です。僕はお菓子しか作れないからね」

「じゃあ、宇宙でお菓子を作って」

「無茶言わないでください」

「私、最近思った」

「はい?」

 そろそろ手が痺れてきた。

「コウタ君のお菓子食べられない場所には行きたくない」

「また無茶を言って」

「だから旅行に行くのも、コウタ君と一緒じゃないのなら行かない」

「はいはい」

 僕は苦笑い。でも、彼女の目は笑ってない。

「君は私がいなくても平気?」

「・・・・・・平気じゃないです」

 声を絞り出す。それは本心。でも、足もよろけてきた。

「倒れてもいいよ」

「はい?」

「倒れても、私は離さない」

「あの、ハルナさん?」

「それくらいそれくらい、私が君の事を考えているって自覚してもらわないと」

「あの・・・・?」

「貴方の作るお菓子が好きじゃなくて、作ってくれている貴方が好きなのよ?」

「う・・ん」

「だから、君はお菓子の在庫なんかじゃないの」

 お見通し・・ですか。

「私がね、一生かけて大切に食べる、私だけのお菓子なんだから」

 僕は顔を真っ赤にしながら後ろに倒れた。思わず、彼女を強く抱きしめた。そのせいで、アスファルトにしたたかに、頭を打つ。一瞬、夜空が白く輝いた。

「大丈夫?」

 君がそういう事を言いますか?

「痛いの?」

 僕は素直に頷いた。彼女の手が僕の頭をそっと撫でる。

「痛い?」

 もう一度、聞く。今度は僕も声を出して「うん」と言った。彼女は嬉しそうに、もう一度、僕の頭を撫でる。

「私はもっと痛かった」

「え?」

「私を浮かせて」

 そう僕にまたがって言う彼女は本当に空へ浮いていくように見えた。

 空へ浮かんで、宇宙へ浮かんでいくように見えた。

 


 ふわふわ浮かせて----------

 


 ハルナの研究は現実段階になったらしい。彼女は満面の笑顔で僕にプロジェクトの説明をしてくれるが、概要だけでちんぷんかんぷんだ。要は国家規模宇宙ステーションの要となる重力機構の開発を担当する事になるらしい。確かに重力が無いのは不便だ。僕はしみじみとそう言うと、彼女は苦笑した。

「一番はエネルギー炉の安全の為なのよ」

 高出力のエネルギーを凝縮している訳だからその扱いは慎重になる。まして実験段階ではない、人の生活する場所として長期的視野で見たら、重力システムは必然だ。人間の体に作用する重力がもたらす精神安定に関する論文もハルナは書いている。機械だけじゃなく、人にも重力は影響する。そして磁場をコントロールする事で、小彗星からの衝突を防衛する防御壁ともなる。まさに命のパイプなのかもしれない。

「ふーん」

 と僕は紅茶をすすりながら、聞いている。

 彼女は浮こうとしている。青空をぬけて。でも、そこには僕はいない。今、ハルナに僕は必要無い。お菓子を食べる時間も忘れて、数字とにらめっこ。技術者とメールのやりとり。電話の鳴らない日は無い。僕はそんなハルナをただ見つめている。彼女がいつか、お菓子を「いらない」と言う日を。

 その声が届く日に怯えていて。でも覚悟していて。

「チームはアメリカで結成するらしいんだ」

 にこにこ笑顔の彼女を見て、僕は悟った。ああ、そうか今日がその日なんだ。

 彼女が一人で浮く日。

 僕は在庫の一つになってしまう日。

「そこで」

「はい?」

「アメリカ国家予算をつぎ込んで、君を私の専属のパティシエにしました」

「あの・・・ハルナさん?」

 国家予算の使い方、間違ってません? しかもアメリカの予算じゃないですか。僕ら日本人だし。

「研究費の一環よ」

「いや、一環とかじゃなくて、使い方を間違ってます」

「私は君のお菓子を食べたい」

「食べられますよ、いつだって」

「食べられない。君は私を遠ざけようとしている」

 それもお見通しですか。

「私は君がいないと浮けない」

「いや、それとこれは別問題で---------」

 しかし彼女はじっと僕を見つめるのみ。そしておもむろに電話へと向かって歩く。

 受話器を取り、プッシュを押す。

 彼女はもう一度、僕の顔を見る。コールがきっと彼女の耳で鳴り響いている。

 相手が出たらしい。

「教授」

 と彼女は英語で言った。彼女はわざと僕に聞こえるように、スピーカーを電話に接続していた。

「ハルナ、どうした?」

 気むずかしい声。厳しく、威厳のある声。僕にも和訳するぐらいのヒアリング能力はある。とはいえ、これも彼女との生活で培われた能力だ。僕の知らない男と何を話していたのか--------英語を必死に勉強した結果の答えは、意味も分からない数式のみ。心配するだけ損というヤツだった。

「今回のプロジェクト、私、降ります」

「は?」

 相手も彼女の言っていた意味が分からない様子。クエスチョンマークをスピーカーから僕に飛ばしてくる。僕はなおさら、唖然として彼女を見つめている。その彼女の目が揺れていた。

 彼女は沈んでいる。

「ハルナ、君の力なくして宇宙ステーションの開発はありえない。戯れ言はよせ」

 もっともです。それがもっともな助言です。なんとか説得してやってください。

 ハルナは僕を見てる。

 浮かせて---------

 そんなに弱い女の子だったんだろうか? 天才と学界では騒がれ、25歳で今の地位にある。学識の華とすら言われて、去年はノーベル賞も貰った人だ。この年齢での獲得は前代未聞だと言う。それだけハルナの導き出した答えは、人類を宇宙へ出向かせる確実な一歩になっている。

 僕は彼女を強い人だと思っていた。

 浮かせて--------

 もう浮いているのに? 君は君の力で、その足で。

 私は君がいないと沈んでしまうから---------。

 本気でそう言ってたんですか?

「パティシェ!」

「は?」

 いきなり声は僕に向けられる。怒気をさらにはらんで。

「説得しろ、これは人類の損失だ!」

「あの・・・?」

 ハルナさん? 君って人はもしかして、全部、裏工作していたんですか?

「教授、コウタ君のいない場所なら、どんな栄光も名誉も私は欲しいとは思いません」

「ミスター・コウタっ! 貴様、アメリカの国家総予算一年分組んでも、条件は飲めないというのか!」

「はい?」

 あのハルナさん、一年分って・・・・滅茶苦茶、横暴じゃないですか!

「私は」

 彼女は受話器を持つ手をぶらりと下げて、絞り出すように言う。

「君が浮かせてくれる。気持ちも未来も、私自身も。君がいないのなら、未来なんかいらない」

「でもね、ハルナさん!」

「全部、沈んでしまえばいい。君のいない世界なんて」

「・・・・僕はお店で働いているんですよ? クビになるじゃないですか」

 なんて陳腐な反論だ。店と彼女、どちらが大切なんだと罵倒されそうだ。でも、彼女は小さく笑った。微笑んで、僕を溶かすようなそんな感触。彼女は笑みで、僕の言い訳を全て叩き壊してしまう。

「沈んじゃえ。コウタ君のいない世界なんか」

 僕は頭を掻く。本心でそう思っているのが分かるから。多分、不器用なんだ。そんな事は分かっている。で、僕は多分、器用すぎる。彼女の気持ちを分かっていて、どうしたら彼女を前に前に押してあげられるかを考える。それを彼女は望んでいないのに。

 住む世界が違うのは悲しい。君がとても大きくて僕はとても小さいものに思えてしまうから。

 できるなら普通に恋をして、普通にお菓子を好きな普通の人を好きになりたかった。

 どうして天才科学者なのか、と思う。

 どうして君なんだろう、と思う。

「国家予算なんかいりません」

 僕の結論。彼女の表情が翳る。沈んで沈んで沈んでいくのが分かる。

 でも次の言葉で、僕はきっと彼女を浮かせる事ができる。確信がある。

「欲しいのは、ハルナさんです」

 もう後戻りできない。彼女の笑顔が--------表情に色が灯るのが分かる。

 お菓子作りは面倒だ。それより面倒な世界で一番厄介な恋に翻弄されている。初対面から何気ないふりをしてきたけど、直感は一番正直だった。一緒に生活して、肌でひりひりと感じてきた。

 僕は彼女を浮かせるより先に彼女に浮かされている。

 彼女は言葉にするより早く、僕に抱きついてきた。

 僕はハルナさんを抱き返す。

 電話のむこうえで、教授がハッピーウェディングを口ずさむ。糞食らえ。でも、と僕は多分、君を偽れない。君が僕を不必要ならその選択を受け入れるだろうけど、僕が彼女を放り出すなんて事は有り得ない。ある意味では、天才と言われた彼女を生かすための悪あがき。難しい単語ばかり並べている彼女を見るのは嫌いじゃない。その為ならブラウン管から眺めるだけでもいいと思ってた。

 あの人が世界を変える瞬間を見たい。

 邪魔なら僕はいつでも消えよう。常にそう考えていたから----------

「許さない」

「え?」

「私の目の前から勝手に消えたら許さない」

「誰もそんなこと」

「コウタ君はいつも、そう考えていた」

 それも、お見通しですか。

「私はそんな事許さない。でもコウタ君が傍に居てくれたら、世界なんかいくらでも変えてあげる」

「いなかったら?」

「世界を叩き壊す」

 魔王か、君は?

「魔王でも悪魔でもなれる。コウタ君が私の傍で笑ってくれるならどんな事でもする。この地球を一瞬で木っ端微塵にする爆弾だって作ってやる」

 真剣に真面目に彼女はそう一気に言葉を吐き出す。彼女なら不可能じゃないと思うから、自分の頬に冷や汗が流れるのを感じる。彼女は本気だから、本気でそう言っているから。

 僕は答えるかわりに力強く抱きしめた。それを彼女が望んでいることを知っているから。

「私を浮かせて」

 

 *


 ふわふわ浮かせて----------

 

 *

 

「目を開けちゃダメなんですか?」

「ダメ」

 彼女は強く言う。冷凍睡眠カプセルに強引に押し込められ、世界で初めて冷凍睡眠を体験し時間を停止させられて、今度は目を閉じることを強要されている。でも、僕は彼女の言うことを忠実に従っている。彼女は何をしようとしいてるんだろうか? 分からない。ただ、妙に子どものようにドキドキと期待が入り交じっている。

「コウタ君は」

 僕の手を引きながら、言う。

「はい?」

「今、どこにいるか分かる?」

「研究所じゃないんですか?」

「違います」

「じゃ、どこ?」

「当てて」

 目隠しされて分かるか! と反論したいのをこらえて僕は冷静に考える。

「ホワイトハウス」

 各国の要人が秘密裏に会合をしているのかもしれない。今回のプロジェクトの事で。だから冷凍保存までして、こうやって僕に時間と位置の感覚を失わせたのかもしれない。僕は知っている。 彼女の住む世界と僕の住んでいる世界は違う。彼女の一言で、科学は革新し、政治はそれに食いつき、何千億ドルもの金がいとも簡単に動いている。

「違います」

 と彼女は微苦笑する。「あんなつまらない人とコウタ君を会わせるのは時間の無駄」

 あっさりと言い捨てる。

「じゃあ?」

「それを教えたらクイズにならない」

「ヒントをください」

「コウタ君に私が見せたかったモノです」

 思考を巡らせる。彼女が僕に見せたかっものは一つしかない。それは宇宙だ。でも、それはとっくの昔に見せてもらっている。宇宙にちりばめられた宝石達、それは遙か何億年も前の星のシグナル。生きた証拠。今でこそ宇宙ステーションは各国の研究観察施設でしかないが、そこへの移民計画も動き出してる。

「また宇宙? それとも月?」

「違う」

「じゃあ?」

「教えて欲しい?」

「うん」

「じゃあ、約束できる?」

「なにを、ですか?」

「私たちを一生、幸せにして」

「え?」

「約束して」

 ぎゅっと、僕を握る手に力がこもる。僕は戸惑う。私たち・・? だけど僕が思うより早く、彼女は僕の目隠しを外していた。そこにあったのは、光り輝く星でも、水の無い月でも、機械で組み込まれた宇宙ステーションでも無かった。

 ベットの上ですやすや寝ている乳児が、そこにいた。髪の毛が産毛程度で、お猿さんみたいな赤ちゃんがそこに。彼女は僕を見てにこにこ笑う。僕は呑まれてしまったように、次の言葉が出ない。

「どうして?」

「コウタ君と私の子どもです」

「いや・・・え・・・でも?」

「コウタ君がいなくなりそうな気がしたから、いなくならないようにしたの」

 反論できない。確かに僕は彼女の邪魔にならないように、色々と思考を巡らせていた。一部の科学者達は、学識の華が、ただ一人の男にうつつを抜かして、研究に集中してないという陰口をしている事を耳に挟んでいる。わざと僕に聞こえるように言ってるのは間違いない。だから--------秘密裏に懇意の科学者や政治家に話しを通して、僕の特権を剥奪してくれるように頼んだ。

 僕にはあまりにも大きすぎる特権だ。ただのお菓子職人が。抱きしめている彼女の存在はそれよりなお大きい。時々、僕は潰されてしまいそうになるから、なおさらこんな決断を下した。僕はただのお菓子職人で、彼女は偉大な科学者で、歴史に名を残す。僕はその邪魔をしている。それを感じるから、科学者達が言うまでもなく身を引こうと思う。

 でも彼女はそれを許さない、と言う。

「何回も言う。コウタ君は私を浮かせてくれるの」

「うん」

「科学者の私を好きになってくれたの? それとも私を好きになってくれたの?」

「マキノ・ハルナさんを好きになりました」

「それなら、どうして私から離れようとするの?」

 今にも泣きそうな目で僕を見る。冷凍保存なんて言うトップシークレットの技術まで使って言いたかった事はつまり、これなのだ。純粋に素直にまっすぐに彼女は僕に気持ちをぶつけてくる。躊躇無く、臆さず。もう何度も感じていることだ。この小さな科学者は名誉よりも栄光よりも、僕なんかを選んでしまう。それは何よりも犯してはいけないミスなのに。

「じゃあ、逆の事を聞くけどいい?」

「え?」

「私の幸せは何だと思うの?」

 言葉に詰まる。彼女が幸せに思う事----------僕は、彼女が科学に革新をもたらして、歴史に名前を残すことが彼女にとっての幸せになると信じていた。でも、彼女は小さく笑んで首を横に振る。

「コウタ君がいなくなったら」

 冷えた声で、でも僕から目を反らさずに呟くように言う。まるでナイフのように研ぎ澄まされた痛みがヒリヒリと感じる声音で、僕の心を突き刺してくれる。

「私、もう多分、ダメ」

 小さく笑う。

「浮けない、浮けないよ。コウタ君という重力に縛られてるの。寝ても覚めてもコウタ君なの。コウタ君がいないと重力に縛られて、押し潰されそうなの。でもコウタ君が居てくれると心配は無くなるから、頭に数字がどんどん浮かんでくるの」

 僕はじっと彼女の言葉を聞いている。

「もしもね」

 彼女は穏やかな笑みを僕に向ける。痛みじゃない。まるで花束を放り投げたような、そんな綺麗な微笑を彼女は浮かべて。何より誰より綺麗だと不覚にも思う。

「私が本当に人類の財産だと言い切ってくれるなら、一人では浮けない私を浮かしてくれるコウタ君も人類の財産なんだよ。だって-------」

 一滴、頬を伝わり流れた水滴が床に落ちる。それでも彼女は精一杯の笑顔を咲かせて、僕を見つめ続けている。

「君がいなくなる事を考えると苦しいの。何もできないの。そんな事は考えられないの。君はね、決して在庫なんかじゃないし、私を浮かせてくれるのは君だけなの。君しか私を浮かせられないの。もしも君がここでいなくなったら、私は永遠にサトウ・コウタっていう重力に縛られて、押し潰されて死んじゃう」

 ベットで赤ちゃんがいきなり大声をあげて、泣き出す。

「いなくならないで」

 彼女はまるで子どものように言う。

「私たちをふわふわ浮かせて」

 僕は彼女を力一杯抱きしめた。その頬に手を触れる。とめどなく流れる雫を拭い、そっと唇に唇を重ねて、僕は考える。僕がもしも彼女をふわふわ浮かせているなら、彼女も僕をふわふわ浮かせてくれている。そんな当たり前の事に気付かなかった。自己犠牲はある意味では英雄のようだ。でも、そんなの意味無い。

 彼女から離れて、僕達の子どもを抱きしめた。

 僕達の子どもは、今にも壊れてしまいそうなくらい柔らかい。潰さないように、壊さないように。僕は優しく優しく抱きしめる。何もこんな回りくどい手を使わなくても、と思う。でも、彼女なりに考えて考えた末だったと思う。僕が眠らされてから産むまで彼女は一人で戦った。多分、学者達からの不平不満があったに違いない。それでも、彼女は迷わず産んだ。僕はなんて弱い父親なんだ、と思ってしまう。

「一人じゃない」

「え?」

「君が傍にいてくれる、って思ったから。この子が生まれたら、きっと君はどこにも行かなくなると信じてたから。君は優しいから」

 確信犯。彼女はにっこりと笑んだ。その目にこめられた感情は決して押しつけじゃない。でも、揺らがない物を信じている。どうでもいいか、と僕は思った。天才科学者とかお菓子職人だとか、そんなのどうでもいいじゃないかと思う。

 僕達の子どもが、小さく、ほんの微かに微笑みを浮かべたように見えた。どうでもいいよパパ、と僕にそう呟いてくれたような気がした。

 そう、どうでもいいんだ。

 浮くんだ、僕達はふわふわ。ふわふわと。

 僕はその小さな体をベットへ戻して、躊躇無く彼女を抱きしめた。

 彼女は目を点にして--------そして、抱きしめ返してくれた。

 この瞬間、僕らは確かに空へふわふわ浮いているように、そんな錯覚に陥ったんだ。

 


浮くんだ僕達はふわふわと、あの月の向こう側よりも高く高く

ふわふわと-------------


 

過去作でお茶濁し第三弾(笑)

まぁ、甘いお話は好きです。甘いお菓子はもっと好きです。そんな感じで、この前食べたショートケーキと、チーズケーキは至福でした。

いや、それはどうでもいい。

次の更新こそ新作をアップしたい。うん。がんばるぞー。

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