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夜闇に囁く独奏曲


 夜。みんなが寝静まる頃に、明日香は2階の窓を開ける。


 ためらわない。


 窓に接吻するように建っている桜の木に飛び移る。動作は軽い。慣れた手つきで、ゆっくりと木から降りる。あとは迷わず、急ぐわけでもなく、歩き出す。夢遊病というわけでもない。明日香は起きている。意思を持って。


 多分、自分の行動を親は信じられないかもしれない。信じる? 彼女は唇に冷たい笑みを浮かべる。信じてもらう必要なんて無い。自分のことが目にすら入っていない。私は人形。そう呟く。


 だから毎夜、彼に気持ちを焦がす。


 埋没している昼間という自分の時間。目覚める夜という時間。


 彼は優しく笑う。その笑いはもしかすると、偽物かもしれない。それでも明日香はその笑顔と逢える瞬間を待ち焦がれていた。


 偽物。昼間の人間の定規で見れば。


 彼女は足を止めた。


 外灯すら無い道の行き止まりに、その洋館は銀月に照らされて存在していた。


 廃屋。

 昼間という時間から見れば。

 彼女は扉を開ける。

 明日香の時間が始まる。

 きーきー悲鳴を上げながら、扉は明日香の後ろで閉まった。


 


 


 


 冷たくなった暖炉の間で、明日香は籐で作られた椅子に身を沈める。


 少年────と言ってもいい外見の男が、黒の礼服に身を包み、ヴァイオリンを奏でる。その曲に陶酔しながら、銀の目で明日香を見つめる。明日香はにっこりと笑った。


「また来たんだね?」


 少年は演奏を止めた。


 明日香はコクリとうなずく。彼の目で小さく笑っていた。その思考を知ることもできない。ただ、彼と一緒にいると安らぎを得られる。誰よりきっと、その体温を感じられるヒト。それは間違いない。明日香は昼間の無気力さとは正反対の笑顔を彼にむけた。


 彼の名前は知らない────教えてくれない。


 それを知ることは彼を殺すことにも繋がる。そう彼は楽しそうに笑って言った。灰にしたければ、僕の名前を探せばいい。彼は楽しそうに笑う。


 世間一般で言うところの吸血鬼。


 明日香にとっては、誰よりも大切と言える人。

 彼を起こしたのは明日香だから。


 


 


 


 


 彼が埃をかぶってベットに死んだように横になっていたのを発見したのは、高校に入学する前だった。


 他の子のように笑えない明日香が唯一、安らげる時間。人間という同種のはずなのに、同種でないようなそんな紙一重の壁をいつも感じながら。夜を彷徨うのは、明日香にとって日課のようなものだった。


 いつもと違う道を歩いた。月に導かれるように。そして、この場所に辿り着いた。


 明日香はベットに横たわる彼の頬に触れた。

 ガラス細工のようだ、と思った。

 綺麗、と思った。


 その手を握る。かすかに冷たく、かすかに暖かさを感じた。


 その手が、明日香の髪を撫でた。明日香は抵抗しなかった。むしろ、そうされていたい、と思った。彼の目がゆっくりと開いた。明日香はその銀色の月のような双眸に吸い込まれた。


 彼は彼女の唇を奪った。


 明日香は呼吸を止めて、その些細な体温を感じた。

 首筋を這う彼の唇が牙をむき、明日香の喉に食い込んだのは、その直後だった。


 


 


 


 


 


 あの時のように彼は明日香の首筋に牙をたてた。明日香はにっこりと笑って、贄となった。彼は唇で明日香の首筋に優しく接吻すると、痛みは一瞬で消える。


 彼は愛しそうに明日香を眺めた。そして不思議そうに、明日香を見つめた。


「どうして君は僕の奴隷にならないのかな?」


 吸血鬼に噛まれた人間はその支配下におかれ、半吸血鬼化が進む。多くの人間はその前に発狂する。一部の人間は奴隷になる。限られた人間が吸血鬼となる。だが、明日香はそのどれでもなかった。ただ人間として、彼と同じ空気を吸っている。


「私は貴方が どうして受け入れてくれるのか不思議よ」


「君に興味があるからだよ」


 彼はヴァイオリンを手に名前も知れない曲を紡いだ。


 明日香はその曲に合わせて、今日一日の学校の出来事を無造作に語る。夜がふけて、彼が眠る時間になると、母親が小さな子供にするように、彼の額に接吻をした。彼は静かに沈み込むように、ベットに倒れる。柔らかい朝日が二人の時間の終わりを告げていた。


 


 







「八代はまた授業中に寝ているのか?」


 先生の呆れた声が聞こえた。明日香は浅い眠りの中で、彼と夜にまた逢う夢を見ていた。どうしてそんなに逢いたいのだろう? そんな事も分からずに。


 


 


 





 彼もまた夢を見ていた。


 吸血鬼になる以前の夢。初恋の少女。その牙。流れた血。永遠とも思える無駄な時間。そして少女の死。少女の笑顔と明日香の笑顔が重なる。なるほど、そうか。そういうことか。フローネ、君は僕を殺しにきたのかい? 意思の底で盲目に眠る羅列を操作して。それもいいかもしれないね、フローネ。


 


 


 


 



 彼はいつものように、ヴァイオリンを奏でた。


 明日香はそれに耳を傾ける。小さな欠伸。曲が終わる。欠伸に優しく彼は接吻した。


「明日香、今の曲────僕が今まで弾いていた曲の作者は誰だか分かる?」


「え?」


 明日香はきょとんとする。そして、首を横に振った。


「だろうね」


 と彼は笑う。


「リチャード・ヘルロス」


「……リチャード・ヘルロス……知らない……」


「知っているはずがないよ。無名の作曲家だからね。時代の奥底に沈んで、その楽譜すら残っていない」


「残ってないのに、どうして演奏できるの?」


 明日香の不思議そうな顔に、彼は楽しそうに笑った。


「当然だよ。その曲を作ったのは、僕だからね」


 時間が止まったように、明日香の表情は凍りついた。


「明日香、これで君は僕の名前を知った。いつでも灰にすることができる。僕の名前を唱えて、朝日を呼べばいい。君は僕を殺すことができるんだよ」


 それでいいだろ? フローネ。


「リチャード……」


 明日香の唇が開く。


「呼べばいい。読んで、僕を灰にするんだ」


 そうだろ? フローネ。僕が殺した僕の最愛の人────。


「イヤ」


 強く首を振った。


「イヤ」


「え?」


 彼は信じられない目で、明日香を見た。明日香は何もかも理性を失ったように、泣き崩れる。


「イヤ」

「明日香?」


「イヤ」

「フローネ?」


「イヤ」


 明日香の後ろにフローネがいた。僕が殺した僕の最愛の人。


「フローネ」


 明日香の後ろで、彼女は寂しそうに笑った。


 


 


 


 


 


 君を開放してあげる。そして朝日を呼んだ。悠久の時の中、彷徨い続けた彼女が救われたその表情は、嬉しさ半分、悲しさ半分だった。 愛しあった二人にその選択は遅すぎた。血を失った彼に、自分を殺すことはできなかった。そのフローネが残したわずかな救いは、フローネの遺伝子との巡り合い。そして出会った。万事はうまくいくはずだった。フローネ。どうして? 泣く明日香を呆然と見つめながら、フローネは真っすぐに彼を見つめていた。


 キジョハ、アナタヲ、ヒツヨウト、シテイル。


 声にならない声で彼女はそう言って、 姿を消そうとした。蒸気のように、フローネの姿が消えていく。


 アナタモ、キジョヲ、ヒツヨウト、シテイル。


 最後の最後、フローネはにっこりと笑って、そして消えた。

 彼の胸の中では、ただ泣きじゃくる明日香の姿があった。


 


 


 


 



 夜に明日香が眠るのは久しぶりかもしれない。夢すら見ず、眠りの底に落ちていた。


 彼は彼女の記憶から自分の名前を取りだした。じっと、彼は明日香の寝顔を見た。


 何もかもなくした自分と、何もかも始めからない明日香は似ている。その弱さを守りたいほど愛しいと、彼はいつの間にか思っているのに気付いて、驚いた。そして苦笑いを浮かべる。


 彼はヴァイオリンを紡ぐ。音色が物悲しく、夜に響く。


 明日香の手が、無意識に彼の手を握った。彼もまた、明日香の手を握る。音色が一瞬、止まる。


 


 


 



 最愛の少女に殺されることを夢見て、吸血鬼は再び音を紡いだ。


 



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