銀桜
紅葉が散り行くあの日の事を。
月が銀に輝いたあの日の事を。
幼さが残るあの日の事を。
出会えた事を喜んだあの日の事を。
約束を交わしたあの日の事を。
秋が終わりかけて冬が歌いだしたあの日のことを。
雨が体をうったあの日のことを。
約束を交わしたあの日のことを。
全ては単なる想い出にしかならなかったあの日の事を?
少女はじっと、空を見上げた。
雲一つなく、あの時のように月が光り輝いている。それは淡い光だが、少女には眩しするほどに充分だった。
すっと木の一番天辺の枝に、臆することなく立つ。風が少女の白いスカートをなびかせる。夜よりも黒い瞳が、眼下に広がる、電気で装飾された町を儚げに見つめた。
時代は移りゆく。
そして 虚ろう。
少女の背後にある神社は、かつては多くの人々が神に祈りを捧げてきた場所であった。ここに数えきれないほどの歴史と物語があり、神木であるこの木はその全てを見つめ、全てを刻んできた。
少女は空ろな目で、町を見下ろす。
「お邪魔します」
少女の思考を中断させる声。
「お考え事ですか?」
別の声も割って入ってきた。少女は声の方は振り向かず、じっと町を見つめる。
「そうかも」
「人間どもは醜悪な光を好みますな」
「貴殿にしてはマシな意見を言うものだな」
「皮肉のつもりか?」
「いかにも」
と乾いた声で笑う。
「もっとも、某も貴殿の意見には同感だがな。月の光すら知らぬ人間が哀れだ」
「でも考えようによっては素敵な光だと思う」
少女は言った。その表情は穏やかにな微笑をたたえていた。
「ほぅ」
「いかにして、そうお思いになられるのですか?」
「人は人の手によって明かりを作る。例え浪費と言われようと、その明かりの分だけ生活がある。それはこの山の葉の一枚一枚に命が命の証であるのと、同じだと思わない?」
「面白い意見です」
「しかし、桜殿らしい。貴方が今まで見てきた人々の生き様のように、ですか?」
「そうね」
と優しく微笑む。その目は電気の灯火から、目を反らすことは無い。
「未だに信じておいでですか?」
「…………」
「桜殿」
言葉は紡げなかった。少女の目に浮かぶ雫に、彼らは口を閉じるしかなかった。
「夢、か」
と翔平は欠伸をしながら、顔を上げた。随分と懐かしい顔を思い出した気がする。授業はすっかりと終わっていた。日直当番が黒板の字をすでに消している。
しまった、と舌打ちする。ノートに一字も書いていない。ま、他の誰かに見せてもらえばいいか、と思った。
とクラスメートの楠舞香と目が合う。
舞香とは小学校から一緒だが、どうしても話す機会が無い。小学校五年生くらいまでは、彼女とよく一緒に遊んでいた記憶がある。が、そこで翔平の記憶は曖昧になる。多分、何か舞香と喧嘩をしたんだと思う。それっきりだ。舞香とはそれから、一言も話していない。
と舞香も少し眠そうだった。優等生の舞香が珍しい。
と、舞香は翔平の方へと近づいてきた。 翔平は目をパチクリとさせた。
「もしかして、翔平も夢を見た?」
唐突にそう聞いてくる。翔平は訳が分からなかった。
「…… 銀桜」
舞香はまるで言葉を大切に壊さないようにするかのように呟いた。
「ぎ、ぎんざくら……?」
怪訝な顔で聞く。
「な、なんたよ、それ?」
嘘。翔平の体内の細胞が警告した。翔平は知っている。その単語を。とても大切な言葉。さっき見た夢と重なる。 その言葉と少女の笑顔と白い桜の花弁と。
「憶えてないの?」
そう言う舞香の表情は今にも消えそうだった。
「何の事なんだか分からない」
「…………ば…………」
「え?」
「馬鹿!」
と舞香は怒鳴っていた。周囲のクラスメートの事など気にせず。翔平は目を点にした。舞香はかまわず、激昂する。
「馬鹿、翔平の馬鹿!」
「お、おい?」
「大嫌い!」
そう言うや、駆けるように教室を飛び出していく。
クラスの誰もが翔平に、非難の視線を浴びせていた。理由はともかく、誰の目から見ても翔平は悪役だ。特に男子は、舞香に惚れているヤツが多い。舞香は高校に入ってから、とても綺麗になったと思う。同じ小学校の連中は誰か好きな人ができたんじゃない? と話す。が、特に浮きだった噂もなく、誰もが好機を狙っていたのだ。
それが今の一瞬で崩壊した。すでに男子からも女子からも、無言の敵意が送られている気分だ。────が、翔平は舞香が言い残した言葉を何度も反芻していた。
「銀桜……」
その単語を呟くたび、翔平の心臓が跳ね上がる。
舞香の目に滲んだものに、翔平は体がちぎられた思いがした。
舞香と一緒に笑う少女の顔を思い出す。少しずつ、色褪せた記憶が色を付けていく。が、配色は完全じゃない。だが、舞香の言った意味を理解するのには、それだけで充分だった。
次の瞬間、翔平も、教室を飛び出していた。
あの日のように、雨が降っていた。
学校を飛び出し、ただ舞香の後を追う。追ってどうする? そう本能が嘲笑う。が、それを否定するのは本能よりも奥底で朧げにたたずむ断片。パズルが少しずつ、噛み合う。
制服が雨を吸って重い。
それでも翔平は走ることを止めなかった。
舞香がドコに行ったのか、多分、分かる。否定する本能と肯定する本能が、翔平をあの場所に導いた。
今まで行く事を忘れていたあの場所を。
今まで思い出す事も忘れていたあの場所を。
今まで怖くて行けなかったあの場所を。
夢だと思い込んでいたあの場所を。
翔平は全速力で今は廃屋となった神社の階段を駆け上がる。舞香の後ろ姿が見えた。舞香の名前を呼ぶ。舞香は振り向かない。翔平は走る。舞香に追いついたのと、神社についたのとは同時だった。────そして、二人は絶句する。
あの時、力強く立ち続けていた木が、今はすっかりと老い枯れかけていた。
その木を見上げるように、白いワンピースを着た少女が立ち尽くしていた。
振り向く。
二人を見て、優しく笑った。
「ずっと待ってたんだよ?」
少女は嬉しそうに笑った。
雨は降りやまない。翔平は目を疑った。あの時の少女があの時のままの姿でいる?
いや、違う。そうじゃない。彼女はあのままだ。俺達が少し変わっただけなんだ。ただそれだけなんだ、と呟く。舞香の顔を見た。今にも泣きそうな顔で、翔平を見る。
今は朽ちかけた神木に、幼い二人が彫った名前が見えた。
〈翔平〉
〈舞香〉
〈桜〉
風が冷たく吹く。
仲良しの翔平と舞香の秘密。二人が見つけた、町外れの廃屋の神社。二人だけしか知らない二人だけの秘密。そこに現れた、3人目の秘密。少女は桜と名乗った。それ以外の事は何も知らなかったけど、三人は毎日、夢中になって遊んだ。
神木の桜の花弁が、抱きしめるように舞い散った。そんな記憶の中の映像も、今の神木を見ると嘘のようだ。
じっ、と桜は翔平を見つめた。【桜】はあの時のままの背で、あの時のままの表情で、あの時のままの笑顔で翔平に微笑んだ。優しい笑み。いつも喧嘩する翔平と舞香を一瞬で止めてしまう、魔法の微笑み。あの時と変わらない微笑みで────桜は翔平の腹に拳を叩き付けた。
「痛っ」
と腹を抱える。顔を上げると、桜の表情が怒っていた。が、その表情は忘れていた事に対して怒っていたんじゃない、と思う。もっと何か、違う事で怒っている……?
「どうして舞香を悲しませたの?」
「え?」
「どうして?」
じっと翔平を見つめる。どうして舞香と喧嘩を? その部分の記憶にも少しずつ、色が塗られていく。喧嘩────なんかじゃ、なかった。
男友達に後ろ指をさされたのが、理由だった。
子供特有の悪意の無い悪意。男の癖に女と遊んでるのか? と男友達に笑われたのが、悔しかった。だから約束を破って、神社には行かなかった。でも、彼らと遊んでいても何も楽しくなかった。後になって、神社へと向かったが勿論誰もいなかった。
誰も────。
あの時も雨が降っていたのを憶えている。
あの時も?
最後に約束をしたのを思い出した。
────私が咲くのを見に来てくれる?
────咲く?
────うん! 最後にね、私は咲くの。
────最後?
────綺麗に咲くから。私を見に来てね。
桜が満面の笑みをたたえたあの日の事を。
春のなのに花すら咲かせなかったこの木の事を。
最後なんて無いよ、と力強く言ったあの日の事を。
でも本当は全てを知っていたあの日の事を。
「桜……」
「来てくれて、有り難う」
桜は笑った。その笑顔が翔平は痛かった。
「我も、心より感謝の意を示す」
と声がした。振り向く、白い猫が桜を見て、優しく微笑んでいた。
羽音。神社の屋根に鴉が一羽、止まっていた。鴉とは思えないほど、優雅な声で言葉を紡ぐ。
「人間もあながち捨てたものではないな」
言葉はなげやりたが、口調は愛情にあふれていた。
だが、翔平も舞香も驚かなかった。
知っている。この二匹を翔平は知っている。
「憶えているか、少年?」
ニヤリと鴉は笑った。
「我が喋って、たいそう仰天していた顔を今でも思い出すぞ?」
意地悪く笑む。
翔平はコクリとうなずいた。鴉は満足そうに、翔平の肩へと下りてきた。 降りしきる雨を、鴉も猫も意に介していない。ただ桜に親愛の姿勢を示している。桜は空を見上げていた。
降りしきる雨。夜のようにどんよりとした雲。 あの時と同じ。
翔平は目を閉じる。思い出す。
大地が揺れたあの日の事を。
土砂が崩れて翔平を襲ったあの日の事を。
舞香の悲鳴が聞こえて、次に待っていたのは静寂のみだったあの日の事を。
呼吸が止まる瞬間を体感した気がしたあの日の事を。
舞香の祈りが聞こえた気がしたあの日の事を。
桜の花弁が舞い降ったあの日の事を。
目覚める事ができたあの日の事を。
桜が優しく笑って、舞香が翔平を強く抱きしめたあの日のことを────。
「某は只の物の怪ゆえ、主の孤独を癒すことは叶わん」
猫は自嘲気味に言った。が、諦めたような表情でもある。
「だから、主殿が貴殿らを助ける事を強く拒否した。それは主殿の命を削ることにも他ならぬからな」
息をつく。翔平はじっと猫の言葉を待った。
「しかし我ら、たかだか五百年の生。貴殿らは百にも満たない。しかし主殿は千をゆうに越え、歴史を刻んできた。その差も埋めることも叶わん。しかし、奇跡を起こしてきた銀桜が、今だけは奇跡を願うのも一興とは思わんか?」
翔平は舞香を見た。舞香は泣くのをこらえるように、唇を噛んでいる。
「少女よ」
と鴉が言った。
「何度も、此処に足を運んでくれた事には感謝する。しかし主は頑固ゆえ、信念を曲げようとしなかった。我々はずっと見守っていたが、声をかけることも禁じられていたのだ。許せ」
「え?」
舞香は目をパチクリとさせて、桜を見る。桜は舞香を見て、にこっと笑った。嬉しそうに、心底嬉しそうに微笑む。
「だってね」
クスクス笑う。
「私は二人が大好きなんだもん」
あの時のまま、そのままの無垢な目でそう言う。
「二人が一緒じゃなきゃ、嫌だったんだよ?」
悪戯っ子な表情で舞香を見た。
「好きだから、翔平を待っていたんでしょ?」
「え……」
言葉をつまらせる。桜は翔平を見た。
「好きだから忘れようとしたんでしょ?」
「……」
翔平は二の句を告げれなかった。桜の言う通りだったから。
「嬉しい。もう駄目だと思ってた」
桜はまた空を見上げた。雲は黒く、まるで夜空のようだ。
風がぴたりと止んだ。
雨が弱くなる。桜はくるっと回って、二人の目を覗き込んだ。
「奇跡って私には無いと思っていたの」
「桜……」
「私は奇跡を与える存在で、奇跡を貰える存在じゃないと思っていたの」
「桜!」
「有り難う、翔平。思い出してくれて。有り難う、舞香。憶えていてくれて」
「桜!」
翔平は桜の名前を何度も呼んだ。それすら意味の無い事を、翔平は知っていた。舞香は必死にこらえ、桜の表情を自分の脳裏に刻みつけるように、見つめた。
「私、綺麗に咲くね?」
風が優しく、二人の頬を撫でた。
砂がかすかに、舞う。
その刹那、桜の笑顔がノイズのように、ぶれた。また風が吹く。それで、桜の姿はゆっくりと消えていく。
桜の花弁が舞った。
顔を上げる。
二人の頭上で、枯れていたはずの神木が力強く、葉を広げていった。葉は蕾を作り。蕾は優しい風に目覚めを与えられ、ゆっくりと開いていく。
桜の花弁がゆっくりゆっくりと舞った。
舞香の目に、涙があふれる。その手が自然に、すがるように翔平の手を握りしめた。
「少女よ」
哀願するように猫が言った。
「頼む、笑って主を送ってくれ。主もそれを望んでおる」
「酷な事を言っているのは、分かっている」
鴉も身を切るような声を搾り出す。
「だか、頼む。主が咲く姿を笑って見てあげてくれ。最後の花弁の一枚まで。葉が散るその瞬間まで」
「もしも貴殿らが命尽きるその時まで、主の事を断片でも想っていてくれたなら、それは記憶ではなく歴史になるのだ。後生だ、笑ってくれ。某、一生の願いだ、聞き入れてくれ」
花弁が舞う。
ゆっくり。
ゆっくり、と。
花弁に白く冷たい雪が混じっていた。
翔平は花弁も葉も蕾も雪も一つ一つ、見逃さないように、じっと見つめていた。舞香の手は離さずに。
紅葉が散り行くあの日の事を。
月が銀に輝いたあの日の事を。
幼さが残るあの日の事を。
出会えた事を喜んだあの日の事を。
約束を交わしたあの日の事を。
秋が終わりかけて冬が歌いだしたあの日のことを。
雨が体をうったあの日のことを。
約束を交わしたあの日のことを。
全ては単なる想い出にしかならなかったあの日の事を?
呟く。
風が吹き荒れる。
花が葉が散っていく。
雪に埋まっていく。
その瞬間まで、翔平は瞬きすら忘れて、見つめていた。
最後の花弁が、散った────のと、翔平が舞香を抱きしめたのは同時だった。舞香の目を覆い隠すように、強く抱きしめた。
大地が揺れた。
ゆっくり、と。
ゆっくり、と。
大地が悲鳴を上げるように陥没していく。
奇跡を紡ぎ、人々に忘れられていった銀桜と言う名の木が、静かに音をたてて、崩れていった。
後には取り残された少年と少女が、静かに泣いていた。
嘘だと信じたかったあの日の事を。
花弁が散ったあの日の事を。
夢だと言って欲しかったあの日の事を。
明日またあの笑顔が見れると信じたあの日の事を。
春にはまた花が咲くと信じたかったあの日の事を。
「嘘だよ」と言って欲しかったあの日の事を。
白い雪が全てを埋めたあの日の事を。
記憶が歴史になる事を信じたあの日の事を。
少年と少女はお互いがお互いにすがりつくように、まるで子供のように泣きじゃくった。
過去作より。詩を強く意識して書いた気がします。色々ツッコミ所もありますが、今は書けない、当時だから書けた、そんなお気に入りでした。