夫は会社にお金がないと言って母を助けられなかったのに、愛人の娘に八百万も貯めていた
母の容体が急変した。残された治療法は保険適用外の先進医療で、高額療養費制度の対象外だった。自治体の助成制度も調べたが、申請から承認までに時間がかかり、母の状態はそれを待てなかった。結局、あと三百万円を自己負担で用意するしかなかった。
私は泣きながら、結婚して五年になる夫――神谷遼介に頼んだ。遼介はITベンチャーを経営していたが、その頃は会社の資金繰りが厳しいと何度も口にしていた。
「美月、ごめん。会社が今かなり厳しいんだ。本当に金がない」
私は信じた。
昼はフードデリバリー、夜は食品工場の夜勤に入り、借りられるところからは頭を下げて金を借りた。ただ母を助けたかった。
けれど、母は間に合わなかった。
母が亡くなった日、私は葬儀社へ死亡診断書を届ける途中で、遼介の会社の前を通りかかった。そこで、オフィスのドア越しに、二歳年上の従姉――藤原理奈の声を聞いた。
続いて、遼介の低い声がした。
「花音の教育資金なら、八百万円は別に取ってある」
「足りなくなったら、また言ってくれ」
私はその場に立ち尽くした。
手の中で、母の死亡診断書がゆっくりと皺になっていった。
遼介に金がなかったわけではない。
ただ、私の母の命に、その金を使う気がなかっただけだった。
1
その時、スマートフォンが震えた。
遼介からのLINEだった。
【無理しすぎるなよ。今を乗り切れば、全部うまくいくから】
画面の文字と、手の中の死亡診断書を交互に見た。笑うしかなかった。
もう、うまくいくことなんてない。
神谷遼介。
私たちにも、もう先はない。
私はオフィスのドアを開けなかった。
中から聞こえてくる声だけで、十分だった。
「美月、本当に限界みたい。昼は配達、夜は食品工場で働いてるんでしょ? 顔もずいぶん痩せたよ」
「妹みたいに育ってきた子だから、あそこまで苦労してるのを見ると、さすがに私も気になる」
理奈の声には、わずかな同情すら混じっていた。
少し間を置いて、遼介が答えた。
「美月のことは俺が分かってる」
「今はその話やめよう」
それ以上は聞かなかった。
ポケットの中で、再びスマートフォンが震えた。今度は病院からだった。
母はまだ柊木中央医療センターの霊安室にいる。葬儀社からも、通夜や葬儀、火葬の日程を決めてほしいと言われていた。
怒りより先に、もっと重い悲しみが押し寄せた。
私は何も言わず、その場を離れた。
病院から葬儀社へ行き、また病院へ戻る。一日中、死亡診断書や火葬許可の手続き、通夜と葬儀の日程調整に追われた。
母にほかの子供はいない。だから、全部私がやるしかなかった。
これまで私は、どんな時も最後には遼介がいると思っていた。
私たちは夫婦なのだから。
けれど、本当に一番つらい時になって初めて分かった。
「二人で背負う」という言葉を信じていたのは、私だけだった。
夜十一時近く。
朝霧町のマンションに戻ると、玄関を開けた途端、遼介がリビングから駆け寄ってきた。
「美月、やっと帰ってきた」
腕を広げて抱きしめようとする。
けれど、その前に強い香水の匂いが鼻をついた。
知っている匂いだった。
理奈がいつもつけている香水だ。
私は反射的に身体をずらした。
遼介は私が疲れているだけだと思ったらしく、それ以上気にしなかった。すぐにテーブルの上から綺麗な箱を取り上げる。
「いい知らせがある」
「新しい出資が決まった。会社の資金繰りも、ひとまず何とかなりそうだ」
嬉しそうに箱を開けた。
中には苺のショートケーキが入っていた。
「もう無理して働かなくていい」
「パティスリー・エクラの苺のショートケーキ、ずっと食べたがってただろ? 持って帰ってきた」
そのケーキを見た瞬間、胸の奥が痛くなった。
パティスリー・エクラは、柊木市でも有名な洋菓子店だった。
配達の仕事をしていた頃、何度も注文を取りに行った。小さな苺のショートケーキ一つで二千円以上するのを見て、最初は驚いたことを覚えている。
ある大雨の日、私はこの店の配達を受けた。
配達先は遠く、四十分近く雨の中を走った。気をつけていたつもりだったが、箱の端が少し濡れてしまった。
ドアを開けた客は、それを見た瞬間に顔をしかめた。
「こんなの食べられないでしょ」
箱を乱暴に押し返され、バランスを崩したケーキが私の服にぶつかった。
白いクリームが胸元や手にべったりとついた。
あの日、私は土砂降りの中で甘い苺の匂いを嗅ぎながら、いつか少し余裕ができたら、自分のために一つだけ買おうと思った。
今、そのケーキが目の前にある。
それなのに、少しも食べたいと思わなかった。
「いらない」
遼介が目を瞬いた。
「前はあんなに食べたがってたじゃないか」
私は静かに彼を見た。
一時間ほど前、理奈がInstagramを更新していた。
ブランドバッグやジュエリー、高級レストランで受け取ったらしい贈り物。その中央には、大きなオーダーメイドのデコレーションケーキが置かれていた。
ケーキの上には、大人二人と小さな女の子が並んだ飾りまで載っている。
投稿にはこう書かれていた。
【今日もいっぱい甘やかしてもらった♡】
写真の隅には、今私の目の前にあるものと同じ、パティスリー・エクラの紙袋が写っていた。
ようやく分かった。
遼介が「私のために持って帰ってきた」と言ったケーキは、理奈のところから持ち帰った残り物だったのだ。
私は小さく笑った。
「ケーキの話はもういい」
「遼介。どうしてあなたから、理奈の香水の匂いがするの?」
2
リビングの空気が止まった。
遼介の笑顔が一瞬だけ強張る。しかしすぐにケーキの箱を玄関脇の棚へ置き、袖口に鼻を近づけた。
「今日、百貨店で香水を見てたんだ」
「俺は香りとか分からないから、前に理奈が使ってたのを思い出して、同じものを美月に買おうと思って。試した時についたんじゃないか?」
あまりにも自然な口調だった。
数時間前にあの光景を見ていなければ、また信じていたかもしれない。
「じゃあ、理奈は?」
「今も会社にいるの?」
遼介の眉が寄った。
「何が言いたいんだ?」
「俺を疑ってるのか?」
思わず笑った。
「疑ってないよ」
「見たから」
遼介の顔が変わった。
「あなたと理奈がオフィスで何をしてたのか、私は全部見た」
妻に不倫を見られたのだ。
少しくらいは慌てるか、恥じるかと思った。
けれど数秒後、遼介の顔に浮かんだのは、罪悪感ではなく苛立ちだった。
「美月、あれはお前が考えてるほど大げさなことじゃない」
「このところずっと、お義母さんのことで大変だっただろ。余計なことまで抱えさせたくなかったんだ」
耳を疑った。
「だから、私の従姉と寝たの?」
「私に負担をかけないために?」
遼介の顔が険しくなる。
「俺だって男だよ」
「お前は毎日朝から晩まで働いて、帰ってきたら話をする体力もない。外で知らない女と面倒なことになるより、理奈なら素性も分かってる」
胃の奥から吐き気が込み上げた。
人はここまで自分に都合よく裏切りを正当化できるのか。
「じゃあ、私は感謝した方がいいの?」
「浮気相手までわざわざ身内から選んでくれて、ありがとうって?」
「言い方が悪すぎるだろ」
遼介は完全に苛立っていた。
「理奈に恋愛感情なんてない」
「たまに身体の関係があっただけだ」
私は彼から目を逸らさなかった。
「恋愛感情もない相手との間に、子供がいるの?」
遼介の顔から血の気が引いた。
今度はすぐに答えなかった。
「花音のことは……事故みたいなものだった」
「当時、理奈はまだ前の夫と完全に別れてなかった。俺もかなり酔ってて、あの夜のことは曖昧だった」
「そのあと妊娠が分かって、時期が重なってた」
耳鳴りがした。
「それだけで、自分の子供だと思ったの?」
「理奈が、俺の子供の可能性が高いって言ったんだ」
遼介は息を吐いた。
「理奈は昔から身体が弱かった。あの時も、中絶したら今後妊娠が難しくなるかもしれないって言ってた」
「俺だって、無理やり産むなとは言えないだろ」
そこでようやく、オフィスで聞いた「教育資金」の意味を理解した。
八百万円。
親戚の子供に渡した金ではない。
遼介は、四歳の花音を自分の娘だと思っていたのだ。
「私の母は、治療のために三百万円を必要としてた」
「あなたは私に、数十万円すら出せないって言った」
「なのに理奈の子供には、八百万円も用意してたの?」
遼介の目に一瞬だけ動揺が走った。
「同じ話じゃない」
「八百万円は、花音の将来のために前から残してた金だ。俺はそこから使おうとは思わなかった」
「それに、お義母さんがそこまで危険な状態だとは、本当に知らなかった」
胸の中がゆっくり冷えていった。
知らなかったのではない。
知ろうとしなかっただけだ。
遼介はまだ取り戻せると思っているのか、私に一歩近づいた。
「美月。理奈や花音のことがどうであっても、妻はお前だ」
「一生一緒にいたいと思ってるのも、お前だけだ」
「俺たちだって、これから自分たちの子供を作れる」
そして何事もなかったように、もう一度ケーキを手に取った。
フォークで苺とクリームをすくい、私の口元へ差し出す。
「少し食べろよ」
「最近、本当に痩せただろ」
昔なら、ずっと食べたかったケーキだった。
私はその手を払った。
フォークが床に落ち、ケーキの箱も傾いた。白いクリームと赤い苺が床に散らばる。
遼介はそれを見下ろした。
最後に残っていた我慢まで切れたらしい。
「水野美月、お前はいったいどうしたいんだよ?」
3
その言葉が終わるのとほぼ同時に、玄関の鍵が開く音がした。
顔を上げる。
藤原理奈がいくつもの紙袋を持ち、まるで自分の家のように入ってきた。
最初に見たのは遼介だった。
「うちじゃもう置ききれないから、使ってないもの少し持ってきた」
「それと、この前ここに置いていった服、また駄目にしたでしょ。今度ちゃんと弁償してよ」
そこでようやく私に気づいたように足を止めた。
驚いた様子はほとんどない。
袋から香水を一本取り出し、テーブルに置いた。
「美月、今日は早かったのね」
「これ、私が使ってる香水。遼介が前に聞いてきたのよ。あなたに買ってあげたいって」
以前のように私の腕へ手を回そうとする。
「最近ずっと働き詰めでしょう? 本当に疲れた顔してる」
「夫婦でずっとすれ違ってたら、関係だって悪くなるよ」
私は一歩下がった。
重い香水の匂いで頭が痛くなる。
昔から私は、こういう強い香りが苦手だった。
遼介が本当に私のことを知っているなら、分からないはずがない。
その時、もっとおかしなことに気づいた。
理奈は少し間を置いてから、わざとらしくバッグから鍵を取り出して見せた。
理奈は笑った。
「美月がほとんど家にいないから、遼介に頼まれてたの」
「掃除したり、日用品を買っておいたり。親戚なんだから、別におかしくないでしょ?」
遼介もすぐに続けた。
「理奈は他人じゃないだろ」
「お前が最近ずっと家のことまで手が回らなかったから、手伝ってもらってただけだ」
それ以上聞く気になれなかった。
寝室へ向かい、クローゼットからスーツケースを出した。
自分のものは驚くほど少なかった。数着の服と身分証明書、母の診療記録、それから病院でもらった書類。
遼介が追ってきた。
荷物を詰めている私を見るなり、顔を険しくする。
「どこへ行くんだ?」
「もう私の代わりにあなたの世話をしてくれる人がいるみたいだから」
「私がここにいる方が邪魔でしょ」
遼介は私の手首をつかんだ。
「いい加減にしろよ」
「理奈と花音のことが気に入らないんだろ?」
焦りが声に滲んでいた。
「それが不公平だって言うなら、俺たちにも子供を作ればいい」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
次の瞬間、遼介は寝室のドアを閉め、無理やり私を抱き寄せようとした。
「俺たちにも子供ができれば、また普通に暮らせる」
その瞬間、今日一日押し殺していた悲しみも怒りも、すべて一気に噴き出した。
力いっぱい彼を突き放す。
そして頬を叩いた。
「神谷遼介。本当に気持ち悪い」
遼介の顔が横を向いた。
数秒後、ゆっくりこちらを見る。
目が冷たくなっていた。
「分かったよ」
「お前が嫌なら、受け入れてくれる人はほかにいる」
ドアを開けて出ていく。
理奈はすぐ外にいた。
遼介は私の目の前で、彼女の腰を抱いた。
理奈は一度こちらを見てから、わざと遼介に身体を寄せる。
もう怒る気力すらなかった。
ただ、疲れていた。
私はスーツケースを持ち上げ、母の死亡診断書と関連書類を胸に抱えた。
二人の間を通り抜ける。
背後から理奈の声がした。
「美月。本気でこんなことで離婚するつもり?」
振り返らなかった。
玄関のドアが閉まった時、ようやく決めた。
この家には、もう二度と戻らない。
4
外はいつの間にか雨になっていた。
スーツケースを引いたままマンションの前に立ち、初めて、自分には行く場所がないことに気づいた。
迷った末に、久世直人へ電話をかけた。
二度目の呼び出し音でつながった。
「美月?」
その声を聞いた瞬間、一日中張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
「直人……今夜だけ、そっちに行ってもいい?」
理由は聞かなかった。
「位置情報送って」
二十分ほどで車が来た。
直人は傘を差して走ってきたが、ずぶ濡れになった私を見た途端、顔色を変えた。
自分のジャケットを肩にかけてくれる。
「とにかく乗って」
母の入院中から、直人には何度も助けてもらっていた。
彼は外資系医療機器メーカーで事業開発を担当している。母の治療について知ると、治療先や医療費の相談窓口まで調べてくれた。
葬儀費用で一時的に現金が足りなくなった時も、黙って立て替えてくれた。
その恩は忘れていない。
直人の家に着いてから、私は今日起きたことを最初から最後まで話した。
話が進むにつれ、直人の顔が険しくなる。
最後にはソファの肘掛けを拳で叩いた。
「お義母さんを助ける金はないって言っておいて、理奈の子供には八百万円?」
「しかも、その子が自分の子供かもしれないって?」
私は頷いた。
直人はしばらく黙っていた。
「美月」
「離婚する?」
「する」
迷いはなかった。
直人も頷く。
「じゃあ、明日弁護士を紹介する」
「不貞行為、慰謝料、財産分与。それから今日されたことも、全部専門家に整理してもらおう」
「ほかのことまで、一人で抱えなくていい」
翌日の昼、直人と静かなレストランで食事をすることになった。
席について間もなく、見たくない顔が入ってきた。
神谷遼介と藤原理奈。
その隣には、四歳の花音がいた。
遼介はすぐに私を見つけた。
早足でこちらへ来る。
「どうして久世と一緒にいる?」
「昨日、こいつのところに泊まったのか?」
呆れて言葉が出なかった。
「あなたは理奈と寝ていいのに」
「私は友達に一晩泊めてもらうことすら駄目なの?」
遼介の顔が暗くなる。
今度は直人を見る。
「昨日、美月に何をした?」
「お前たち、前から――」
「神谷遼介」
私は途中で遮った。
「自分と同じ物差しで、ほかの人まで見ないで」
その時、理奈が遼介の腕にそっと手を絡めた。
「美月と直人は昔から仲がいいものね」
「もし何かあったとしても、わざわざ周りには言わないでしょうし」
私は彼女を見た。
「そういうこと、理奈は詳しいものね」
「人の夫と隠れて関係を持つのは、もう慣れてるでしょうから」
理奈の顔色が変わった。
すぐに目を潤ませる。
「美月、私は心配して言ってるだけなのに」
「どうしてそんな言い方するの?」
遼介が私の手首をつかんだ。
「理奈に謝れ」
直人がすぐに立ち上がり、その手を外した。
「神谷さん、手を離してください」
遼介は私を庇う直人を睨んだ。
「これは俺たち夫婦の問題だ」
「だったらなおさら、まず本人の意思を尊重してください」
空気が張り詰める。
その時、理奈が口を開いた。
「美月。少し二人で話さない?」
「少なくとも花音の前で、これ以上喧嘩したくない」
私も、今後は弁護士を通して遼介と話すつもりだと伝えたかった。
立ち上がり、理奈と店の奥の通路へ向かう。
花音も一緒だった。
角を曲がった直後だった。
理奈が突然、花音の肩を押した。
小さな身体がよろける。
額がテーブルの角にぶつかった。
花音が大声で泣き出す。
私は何が起きたのか理解できず、その場に立ち尽くした。
理奈はもう娘を抱き上げていた。
「遼介!」
額から血が滲んでいる。
遼介が駆けてきた時、そこにいたのは、泣く花音を抱く理奈と、その横に立つ私だった。
理奈は涙を浮かべた。
「私はただ話をしようとしただけなの」
「私のことが嫌いでも、子供にまで当たるなんて……」
「私じゃない」
説明しようとした瞬間。
「もういい!」
遼介が怒鳴った。
私を見る目に、嫌悪すら浮かんでいる。
「お前がこんなことする人間だとは思わなかった」
「子供は何も知らないだろ。よくこんなことができるな」
胸の奥が冷たくなった。
そして、遼介は最悪の言葉を口にした。
「お義母さんだって、俺たちのことを信じてくれてただろ」
「今のお前を見たら、どれだけ悲しむと思ってる?」
母という言葉が、最後に残っていた傷口を切り開いた。
身体が固まった。
次の瞬間、涙が落ちた。
「あなたに、母のことを言う資格なんてない」
遼介が止まる。
「亡くなったよ」
「私が三百万円を貸してって頼んだ時、母はもう最後の治療を待ってた」
「その頃あなたは、藤原理奈と不倫してた」
5
遼介の怒りが消えた。
言葉の意味を理解できていないような顔で、私を見た。
「何を……言ってる?」
「お義母さんが、亡くなった?」
笑いそうになった。
五年間一緒に暮らした夫なのに、妻の母親が亡くなったことさえ知らない。
「私がお金を頼んだ時、医師からはっきり言われてた」
「残された治療を受けるなら、急いで準備しないといけないって」
「それなのにあなたは、会社も厳しい、自分にも借金がある、何も出せないって言った」
遼介を見つめた。
「私は昼に配達をして、夜は食品工場で働いた」
「借りられる人には全部頭を下げた。売れるものも売った」
「でも、間に合わなかった」
遼介の唇が白くなっていく。
「母が亡くなった日、私は死亡診断書を持ってあなたの会社へ行った」
「そこで聞いた」
「花音の教育資金に八百万円を用意したって」
「私の母に必要だったのは三百万円」
「あなたの“娘”には八百万円」
遼介は何も言えなくなった。
理奈の顔色も変わった。
花音を抱いたまま、急いで口を挟む。
「美月、怒ってるからって全部遼介のせいにしないで」
「美月のお母さん、前から身体は弱かったけど、定期的に診てもらってたでしょう? そんな急に悪くなるなんて誰にも分からないわよ」
私は理奈を睨んだ。
「母の死を使って嘘なんてつかない」
理奈がさらに何か言おうとした時、遼介がその腕を止めた。
「もういい」
そして私を見る。
ようやく本当の動揺が顔に出ていた。
「美月。どうしてもっとはっきり言わなかった?」
「命に関わるほどだって分かってたら、俺だって何とかした」
そこで、心の中に残っていた最後のものまで消えた。
「言ったよ」
「母が急いで治療を受けなきゃいけないって」
「あなたが聞かなかっただけ」
遼介が固まった。
「私には金がないって嘘をついた」
「その一方で、理奈と花音には八百万円を残してた」
「だから、もうあなたの金はいらない」
私は直人の腕に手を添えた。
「二人で好きに使えばいい」
背を向ける。
遼介が追ってきた。
「美月」
「待ってくれ」
「説明する。謝るから」
振り払った。
「謝る?」
「謝ったら母は戻ってくるの?」
「私が夜勤をし続けた日々も消える?」
「あなたのオフィスの前で見たことも、全部なかったことになる?」
遼介の顔は真っ白だった。
私はゆっくり息を吸った。
「弁護士に離婚協議書を作ってもらう」
「離婚届も用意する」
「神谷遼介。もう終わりにしよう」
6
「離婚なんて認めない」
遼介が目の前に立ちはだかった。
両腕を広げ、本気で通さないつもりらしい。
「お義母さんのことは俺が悪かった」
「状況をちゃんと理解してなかった。優先順位を間違えた」
「いくらでも埋め合わせる。だから一度だけチャンスをくれ」
聞けば聞くほど、皮肉だった。
「またお金?」
「数字を大きくすれば、全部やり直せると思ってる?」
「そういう意味じゃない」
「美月、頼む」
私は横を通ろうとした。
「チャンスはもうないよ」
遼介がまた腕を伸ばす。
その手首を、直人が先に押さえた。
「神谷さん」
「彼女はもう十分、意思を伝えています」
「これ以上ここで止めるなら、困るのはあなたですよ」
周囲の客がこちらを見ていた。
遼介の手がようやく下がった。
その時、花音の泣き声が一段と大きくなった。
額の傷からまだ血が滲んでいる。
理奈が慌てて抱き直した。
「遼介、先に病院へ行こう」
「花音の傷を診てもらわないと」
遼介は花音を見た。
明らかに迷っている。
理奈がすぐ腕を引いた。
「お願い。先に行こう」
最終的に、遼介は理奈についていった。
店を出る直前、もう一度振り返る。
「美月」
「花音を病院に連れていったら、必ず戻ってくる。全部ちゃんと話そう」
私は返事をしなかった。
二人がいなくなってから、初めて周囲の視線に気づいた。
張りつめていた糸が切れ、急に全身から力が抜けた。
直人は何も言わなかった。
会計を済ませ、私のコートを持つ。
「行こう」
車に乗った。
そのまま家へ帰るのだと思っていた。
けれど、着いたのはパティスリー・エクラだった。
「ここで何するの?」
「ケーキ買う」
「どうして?」
直人が振り返った。
「ずっと食べたかったんだろ?」
店内は暖かな照明に包まれていた。
直人が選んだのは、大げさなデコレーションケーキではなく、一番定番の苺のショートケーキだった。
以前、雨の中で返品されたものとよく似ている。
目の前に置かれた瞬間、濡れた箱も、クリームで汚れた服も、店の外からショーケースだけ眺めていた自分も思い出した。
鼻の奥が痛くなった。
直人は私の目が赤くなったのを見て、小さく笑った。
「先に言っとくけど」
「このケーキ、結構高いから」
「今度おごってもらうからね」
思わず笑った。
同時に涙が落ちた。
「本当にケチ」
「仕方ないだろ。葬儀代もまだ貸してる」
フォークを渡してくる。
「ゆっくり返せばいいよ」
一口食べた。
クリームは軽く、苺は少しだけ酸っぱい。
その時初めて思った。
ああ。
このケーキは、本当はただ甘かったんだ。
7
一方、遼介は理奈と花音を連れて柊木中央医療センターの救急外来へ向かった。
幸い、花音の額の傷はそれほど深くなかった。
診察を待っている最中、理奈のスマートフォンが何度も鳴った。画面には、離婚した元夫――藤崎修司の名前が表示されている。
理奈は苛立った様子で電話に出た。
「今は無理。花音が怪我して、柊木中央医療センターにいるの」
「お金の話ならあとにして」
そう言って一方的に切った。
ところが、花音の処置が終わる頃。
廊下の向こうから、酒の匂いをさせた男が現れた。片腕には包帯が巻かれている。
理奈の顔色が変わった。
藤崎修司だった。
「理奈?」
修司はすぐに遼介にも気づいた。
口元に嫌な笑みを浮かべる。
「へえ。これが今の金持ち男?」
理奈は花音を連れて一歩下がった。
「酔ってるなら帰って。ここで騒がないで」
修司は道を塞いだ。
「俺も怪我してんだよ。治療代くらい出せ」
「昔、子供連れて金持って出ていったんだから、それくらいできるだろ」
遼介が前へ出た。
「離せ」
修司は遼介を上から下まで眺めた。
やがて鼻で笑う。
「お前が、ずっとあいつの子供に金出してる男?」
遼介の顔が険しくなる。
修司は何かに気づいたように笑みを深めた。
「ちょっと待てよ」
「まさか、花音がお前の子供だと思ってるのか?」
廊下の空気が止まった。
遼介が理奈を見る。
「どういう意味だ?」
理奈の顔は真っ白だった。
「聞かないで。酔っ払いの言うことよ」
修司は冷たく笑った。
「妊娠した頃、俺たちはまだ完全には切れてなかった」
「誰の子かなんて、本人が一番分かってるだろ」
「遼介!」
理奈が遼介の腕をつかんだ。
「修司はお金が欲しいだけ」
「こうやって何でも嘘をつく人なの」
だが、遼介はもう彼女を見ていなかった。
これまで深く考えなかったことが、次々と頭をよぎる。
理奈は当時、「妊娠した時期から考えると、あなたの子供の可能性が高い」としか言っていなかった。
遼介自身も、泥酔して記憶が途切れていた夜があったため、その言葉を受け入れた。
DNA鑑定をしたことは一度もない。
それでも理奈が「あなたの子供かもしれない」と言っただけで、花音の生活費や教育費を出し続けた。
八百万円まで別に用意した。
遼介は四歳の花音を見た。
初めて、本当に自分の子供なのかと疑った。
その日のうちに、遼介は民間のDNA鑑定機関へ問い合わせた。
理奈は強く反対した。
「私のこと、そんなに信用できないの?」
遼介が返したのは一言だけだった。
「信用しすぎたからだよ」
数日後。
鑑定結果が届いた。
報告書には、神谷遼介と藤原花音の間に、生物学的父子関係を支持する結果は認められないとはっきり記載されていた。
遼介は長い間、動けなかった。
理奈は必死に説明した。
自分も当時は分からなかった。
遼介の援助を失うのが怖かった。
花音にとっても、遼介はずっと大切な存在だった。
何を言われても、遼介にはもう届かなかった。
自分の娘ですらなかった子供に、八百万円を用意した。
その一方で、妻が泣きながら三百万円を求めた時には、「金がない」と言った。
そこでようやく、自分が何を失ったのかを思い知った。
さらに、私側の弁護士が、あの日の状況確認のためにレストランへ防犯カメラ映像の保全を依頼した。
店側が確認すると、理奈と花音が通路へ入った一部始終が残っていた。
映像には、はっきり映っていた。
花音の肩を押したのは、理奈自身だった。
そして娘がテーブルにぶつかった直後、理奈は遼介を呼んでいる。
映像を見た遼介は、それ以降、理奈に何も言わなかった。
8
理奈は完全に追い詰められた。
遼介からの援助を失い、防犯カメラの映像まで残っている。
さらに修司まで金を要求し続けた。
理奈は何度も遼介へ電話をかけ、自分はただ彼を失うのが怖かっただけだと泣いた。
遼介は一度も出なかった。
数日後。
遼介はパティスリー・エクラまで私を探しに来た。
その日、私は直人と窓際の席に座っていた。
ようやく一人で一切れの苺のショートケーキを、何の苦味も感じずに食べられるようになっていた。
ドアが開く。
入ってきた遼介は、数日で何年も老けたように見えた。
私たちのテーブルまで歩いてくる。
DNA鑑定の結果。
防犯カメラの映像。
理奈がこれまで自分についた嘘。
すべて話した。
最後には声が掠れていた。
「美月」
「全部分かった」
「花音は俺の子供じゃなかった」
「レストランのことも、理奈が自分でやった」
私はフォークを持ったまま彼を見る。
「それで?」
遼介が言葉を失った。
「俺が悪かった」
「理奈に騙されてたのは事実だけど、決めたのは俺だ」
「もう一度だけ、やり直すチャンスをくれないか?」
私はバッグから、弁護士が準備してくれた書類を取り出した。
離婚協議書。
そして離婚届。
遼介の前に置いた。
「署名して」
遼介は二枚の紙を見下ろしたまま、長い間動かなかった。
「美月」
「本当に、ここまでしないと駄目なのか?」
「もうここまで来たんだよ」
目が赤くなっていく。
突然、遼介はテーブルの横で膝を折った。
「頼む」
「もう一度だけ俺を見てくれ」
直人が立った。
私と遼介の間に静かに入る。
「神谷さん」
「今になって許してほしいと言うなら、美月のお母さんが亡くなった時、あなたはどこにいたんですか?」
遼介の身体が固まった。
直人は声を荒らげなかった。
「美月が昼に配達をして、夜に食品工場で働いていた時は?」
「一人で通夜も葬儀も火葬もやっていた時は?」
「夫が必要だった時、あなたが彼女に残したものは嘘だけでしょう」
遼介は俯いた。
しばらくして、小さな声を出す。
「俺は……理奈に、美月のことも見てやってくれって頼んでた」
「金も渡してた」
私は顔を上げた。
そこで、また一つ分かった。
「あなたの言う“私の面倒を見る”って、理奈にお金を渡すことだったの?」
遼介が止まる。
「理奈は、美月のために使うって……」
笑いそうになった。
「私は一円も受け取ってない」
遼介の顔から完全に血の気が消えた。
「遅すぎるよ」
「あなたが私を騙すことを選んだ時から、そのあと何をしても、もう元には戻らない」
今度こそ、遼介は何も言えなかった。
長い沈黙のあと、ペンを取った。
手が震えている。
まず離婚協議書に署名した。
次に、離婚届。
私は書類を回収した。
もう彼を見なかった。
その後、離婚届に必要な成人二名の証人署名もそろえた。
数日後。
私たちは柊木市役所へ離婚届を提出した。
受理された瞬間、私はもう神谷美月ではなくなった。
水野美月に戻った。
9
母の四十九日が来た。
通夜と葬儀、火葬を終えたあと、遺骨はしばらく私の手元に置いていた。
離婚手続きもすべて終わり、直人と一緒に瑞穂やすらぎ霊園へ向かった。
その日はよく晴れていた。
私は母の遺骨を墓へ納めた。
直人はずっと少し離れたところに立ち、何も急かさなかった。
花を供え終えると、ようやく近くへ来る。
「これで、お母さんも少し落ち着けるかな」
私は頷いた。
葬儀の日のように泣き崩れることはなかった。
ただ、長い間そこに立っていた。
遼介はどこかから納骨の日を聞いたらしい。
彼も来ていた。
墓の近くには来ず、霊園の入口で待っていた。
手には銀行関係の書類を持っている。
私が出てくると、ようやく近づいた。
「美月」
「お義母さんのために、何かさせてほしい」
書類を一度だけ見た。
「いらない」
「三千万でも五千万でも、もう意味はないよ」
遼介はその場に立ち尽くした。
最後まで何も言わなかった。
私は直人と一緒に帰った。
振り返らなかった。
その頃、藤原理奈の生活も崩れ始めていた。
借金を抱えた修司が何度も金を要求し、理奈につきまとうようになった。
やがて修司は、結婚していた頃に撮影した私的な性的画像を、理奈の同意なくインターネットへ投稿した。
理奈は警察へ相談した。
捜査が始まり、各プラットフォームでも画像の削除対応が進められた。修司自身も、私的な性的画像を無断で拡散した行為について責任を追及されることになった。
さらにレストランの防犯カメラ映像から、理奈が故意に花音を傷つけたことも隠せなくなった。
児童相談所も事情を確認することになった。
理奈にはもう、私を追いかけ回す余裕などなかった。
遼介も最初のうちは、完全には諦めていなかった。
花を送ってきた。
ブランド品まで届いた。
以前私が借りた金も、全部代わりに返すと言ってきた。
私はすべて送り返した。
その後、弁護士から、今後は直接連絡をしないよう正式に伝えてもらった。
それ以降、遼介が私の前に現れることはほとんどなくなった。
少しずつ、生活は普通に戻っていった。
ある日、直人から求人情報が送られてきた。
NEXORA JAPANという外資系企業が、プロジェクト推進担当を募集していた。
「応募してみたら?」
最初は首を振った。
「こんな仕事、やったことないよ」
「配達だって、最初はやったことなかっただろ」
直人は私を見た。
「でも覚えた」
結局、私は自分で応募した。
書類選考。
適性検査。
一次面接。
最終面接。
一つずつ、自分の力で進んだ。
採用通知のメールが届いた日、私はしばらく画面を見つめていた。
誰かに会社へ入れてもらったのではない。
これは、自分で取った仕事だった。
NEXORA JAPANに入社してから、直人が助けてくれたことは確かに多かった。
けれど、彼は一度も私の代わりに答えを出さなかった。
分からない業務があれば、資料の場所を教える。
難しい顧客なら、交渉で注意すべき点だけを教える。
あとは、私自身に任せた。
一年後。
私は一人で海外プロジェクトを担当できるようになっていた。
その年、チームを率いていくつかの大型案件を受注した。
ある会議で、顧客から言われた。
「次の案件も、水野さんにお願いしたいです」
その言葉を聞いた時。
私はふと気づいた。
神谷遼介のことを思い出さない日が、いつの間にか当たり前になっていた。
10
さらに一年が過ぎた。
ある日の残業終わり、直人が「行きたい店がある」と言った。
車が停まったのは、パティスリー・エクラの前だった。
看板を見て笑う。
「またここ?」
「借金の取り立て」
直人は真顔で言った。
「二年前のケーキ代、まだ返してもらってない」
あの日と同じ席へ案内された。
テーブルの上には、小さなオーダーメイドケーキが置いてある。
派手な装飾はない。
苺と白いクリーム。
そして、短い言葉だけ。
【これからも、隣にいてください。】
私は動けなくなった。
顔を上げる。
直人が立っていた。
手には指輪がある。
すぐに膝をついたりはしなかった。
ただ、まっすぐ私を見ていた。
「美月」
「ずっと前から好きだった」
「昔、美月が神谷を選んだ時は、美月が幸せなら邪魔する資格はないと思ってた」
「そのあと、一番つらい時に俺のところへ来た。でも、弱ってる時にこんなことを言うのは嫌だった」
少し間を置く。
「だから今日まで待った」
鼻の奥が熱くなった。
直人が笑う。
「昔貸した金は、これからもゆっくり返して」
「ケーキ代だけはもういい」
「これから甘いものが食べたくなった時は、一緒に買いに行けばいいから」
涙が落ちた。
それなのに笑ってしまう。
「久世直人。求婚なのに、全然格好よくない」
「じゃあ、答えは?」
私は手を差し出した。
「お願いします」
結婚式は半年後に決まった。
求婚の日、店にいた客が偶然短い動画を撮っていたらしい。
それがいつの間にかSNSに投稿され、たくさんの祝福コメントがついていた。
私は途中で見るのをやめた。
今度は、知らない人に自分の選択が正しいと証明してもらう必要なんてなかった。
結婚式の数日前。
遼介が最後に一度だけ、NEXORA JAPANの近くで私を待っていた。
以前よりずっと静かな顔をしていた。
「本当に、久世と結婚するんだな」
左手を見せた。
薬指に指輪がある。
「うん」
「招待状は送らないね」
遼介は俯いて、少しだけ苦く笑った。
「その方がいい」
それが、私たちが最後に会った日になった。
結婚式当日。
遼介は来なかった。
結婚式の数日前、彼の代理人だという弁護士から封筒が届いた。
中に入っていたのは会社の株でも、不動産でもない。
五千万円を私へ贈与したいという提案書だった。
短い手紙も入っている。
【結婚おめでとう。ごめん】
私はしばらく眺めてから、書類を弁護士へ返した。
「受け取りません」
弁護士が頷く。
少し考えてから続けた。
「もし神谷さんが本当にこのお金を出したいなら、寄付に変えてください」
「母――水野千春を偲ぶ寄付として、高額な治療費で困っている家族を支援する団体に使ってほしい、と伝えてください」
隣にいた直人が静かに尋ねる。
「本当に、一円も残さなくていい?」
私は頷いた。
「昔、私は母の治療費が足りなくて、本当にどうしていいか分からなかった」
「この遅すぎたお金で、あの時の私と同じように追い詰められている誰かが、一度でも絶望せずに済むなら、それでいい」
式の音楽が流れ始めた。
私は直人の腕に手を添え、チャペルへ入った。
窓から差し込む光が、床の上に長く伸びている。
祭壇の前まで歩くと、直人がそっと私の手を握った。
雨の夜も。
病院も。
葬儀も。
嘘も、裏切りも。
記憶から消えたわけではない。
けれど、もうそれらが私のこれからを決めることはない。
母を失った時、私は自分には何も残っていないと思った。
でも、違った。
間違った人生を終わらせることは、残りの人生まで失うことではない。
ようやく、自分の余生を自分の手に取り戻しただけだった。




