07_5代目の勇者の話(前編)
「いやあ、今日も暑いね。まさに盛夏だ。」
今日も暑いから、と少年の母が彼に被せた手製の大きな麦わら帽子を当然のように強奪したエルは、そう口にすると満足そうな顔で口角を上げた。少年は森の木漏れ日の下、まだ涼しい場所を歩いているにも関わらずあれやこれやと好き勝手に取り留めのない言葉を紡ぐエルに、文句を言いたくなる気持ちをグッと堪える。が、エルの「歩くのってだるいなぁ。その馬、乗ってもいい?」というひとことには流石に怒った。怒って、少し歩くペースを速めた。彼の愛馬は困惑すると、エルと少年の顔とを交互に見遣った。
「なにをそんなに怒っているのさ。」
エルは首を傾げると足元の小石や枝に気をつけながら彼に駆け寄ると、その顔を覗き込んだ。その仕草に少年は一瞬息を詰まらせたあと、ふいと顔を背ける。「……キミのご主人様は、けちだなあ。」エルは綺麗な栗毛色の彼の愛馬にそう呼びかけると、美しい毛並みをそうっと撫でた。
少年が怒った理由は、ふたつあった。ひとつはなんとも単純で、単に生まれた時から彼が面倒を見てきたこの馬を、エルに取られそうな気がしたからだった。というのも、エーデルガルトという放浪人は瞬く間に村の人気者になってしまったからだった。熱心な女神様の信者のお年寄りなんて、毎朝有難いと言いながらエルを拝むほどだった。だからこそ、彼は単純に心配になった。生まれてきた時から面倒を見てきた愛馬さえも、彼女に夢中になったらどうしようかと本気で心配した。……決して馬にエルを取られそうになったわけではないと、またしても彼は誰に向けているわけでもない言葉を心の中で吐いた。
それから、ふたつめは少しだけ複雑で――それは何度不意打ちで勝負を仕掛けても、ある時はティーカップで。またある時はフォークで。そしてまたある時は、何かを仕掛ける前にあっさりと彼の渾身の不意打ちを受け流すエルの動じなさに、ほんの少しだけ苛立っていたからだった。父親は年季が違うのだから当たり前だと笑って少年を慰めたが、それにしたってそう言って慰めてくれている父親はこの村いちばんの剣士で、自分はその息子なのだ。少年が苛立ち、もとい嫉妬心を知るのに、それほど時間は掛からなかった。
「暑いからってそうカリカリするな、我が弟子。」
「………………別に。」
どう見ても拗ねている少年に、エルは思わず吹き出すと「子供だなあ」と笑った。少年は見た目だけならそっちの方がよっぽど子供だよ、と言い返したい気持ちをぐっと堪えると、無言で愛馬の手網を引いた。彼の愛馬は相変わらずエルと少年との顔を交互に見ては、困ったように視線を右往左往させている。エルはそんな彼の愛馬――彼に似つかない、美人な牝馬だ――のたてがみを撫でると、「大丈夫、大丈夫。」と言って笑った。
「……勝手におれの馬に触らないでよ。」
「どうせ泉で洗うんだからいいだろう?わたしの手垢くらい快く許してくれよ。」
「やだよ。どうせエル、手伝ってくれないんだろ?」
少年がエルを師匠と呼ばなかったのは、わざとだった。村に来たばかりの頃はごく自然に読んでいた名前を、今しがた彼は自分の意思ではっきりと口にした。それは自分から何もかもを掻っ攫っていくエルへのささやかな抵抗であり、反抗であり、甘えでもあった。
「……やれやれ、手間のかかる弟子だなあ。」
少年の青い気持ちには鈍感なくせにそういうところだけはやけに察しの良いエルは、呆れたように――けれど嬉しそうにそう呟くと、彼の頭に麦わら帽子を乱暴に被せた。もとい、返した。それから2歩、3歩先を歩くと、小さく狭い背中で語り出す。
「でもね。キミよりも手間のかかったキミもいたよ。」
エルは肩越しに少年を見遣ったのちに、にこりと笑った。年相応の笑顔に、少年の胸がどくりと拍動した。思わず足を止めた主人を、同じく足を止めた愛馬が不思議そうに見つめる。
「あれは、5代目のキミだったなぁ――。」
エルは木漏れ日の下、静かに語り始めた。耳にはすぐそこまで迫った目的地である泉から湧き出る水の音と、彼女の少しだけ低い少女然とした声だけが、静かに反響していた。




