62_エーデルガルトの話(3)
「ほら、なんでも好きな物頼め。」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
とある学校終わりの午後。昼は喫茶店、夜は酒場として賑わう店の片隅にて、兄に連れ出されたエルはそう言われるなり嬉々としてメニュー表を取った。そしてどれを注文しようかとうんうんと唸っては右に左に、目移りする。そんなエルをギュンターはリオポルダの影響か、同世代の子供と比べて少々大人びたところのある末の妹のなんとも子供らしい所作に目を細めた。それから頬杖をつくと、難しい顔をする妹にケラケラと笑いながら一足先にウェイトレスを呼び付けると、ビールを頼んだ。
顔馴染みのウェイトレスは実に3ヶ月となるギュンターに「昼間は酒類の提供していないんですけど?」と呆れたように苦笑してから裏に引っ込む。そして先程までの言葉とは反対に、店でいちばん大きなジョッキに並々と注いだビールを轟音と衝撃とを響かせながら彼の前に置くと、ぱちんとウインクした。
「今回だけよ?」
「3ヶ月振りの『今回だけ』、助かる。ありがとな。」
「討伐隊隊長の機嫌を損ねるようなことがあっては大変ですから。」
ウェイトレス――この店のオーナーの娘でもある彼女は半分は冗談で。そしてもう半分は3ヶ月という決して長くはない遠征を終えたギュンターを労う気持ちを茶化すように、わざとらしく敬語を使ってみせる。それから近くの空いている席から椅子を持ってくると、ごくごく自然にエルと兄とのテーブルに入り込んできた。そしてふたりの会話が耳に入らない程に真剣に何を頼もうかと悩んでいるエルを頬杖をつきながら見遣ると、にこりと笑った。
「エルちゃん〜?お金の心配はしなくていいから、なんでも好きなの頼んでね〜?」
「……おい。どうしてお前が俺の台詞を取るんだ。」
「看板娘のお姉さんのオススメは、この時期ぴったりのバニラアイス!そのまま食べてもいいし、パンケーキとのセットにしても最高よ〜?」
「おい、無視するな!!」
「お財布係は黙っててくださ〜い!!」
ウェイトレスは本来兄が発するべき言葉をまるで息をするように奪っては、くすくすと笑う。次いでエルが眺めているメニュー表の真ん中、真っ先に目に入る位置にででんと大きく載っている『アイスクリーム』の文字とイラストを指差すと、こてんと小首を傾げた。エルは水仕事に少し荒れている指先と、鼻腔を擽るウェイトレスの纏う甘いいい香りにようやくメニューから顔を上げるとどうにも困った様子の兄と、そんな兄と自分とを交互に見つめては心底楽しげに笑う彼女とに気がついた。そしてグロスクロイツ家行きつけの喫茶店の看板娘たる、仕事熱心な彼女が言うなら、とアイスクリームとパンケーキのセットを注文した。自身のオススメが採用されたウェイトレスは再度ニコニコと笑った後に、エルの頭を軽く撫でてから席を立つと厨房に居る店主兼父親に向けて「アイスクリームとパンケーキのセット!」と大きな声を上げた。
――その瞬間、窓から吹き込んできた爽やかな初夏の風が揺らした彼女のスカートとエプロンに、兄が思わず眉を顰めながら鼻からため息を漏らしたのを、エルは見逃さなかった。そして見逃さないと共に、とうとう『貰い遅れ』の兄にも春が来たかと期待にこもった目を向けた。
「お兄ちゃん、お姉さんのこと、好きなの?」
平日の昼間、学生は学校終わりであるものの家で宿題をするか外で遊ぶか、はたまた中心街でショッピングでもしながら青春を謳歌しているであろう時間帯。反対に多くの大人はまだ訪れない終業時間にため息を吐きながらそれぞれの役割――仕事だったり、家事だったりに精を出しているであろう、午後3時。真昼から飲むビールの美味さと優越感に浸りながらジョッキを傾けていたギュンターは、不意に投げ付けられた妹からの容赦のない言葉に思わずむせ返った。それから一体何を言い出すんだと動揺のままに大きな声を上げてはテーブルをバンと力任せに叩いた。平穏な午後に似つかわしい行為だった。同時に本来ならば他の客からの苦情と、店からの出禁を食らうような、そんな品も行儀も余裕もない行為だった。逆を言うならば、その余裕のなさが不意に投げかけた質問の答え――要は図星だということを幼いながらに知っているエルは、兄を真似て頬杖をつくとニヤニヤとした笑顔で彼を見遣る。すると兄は苦虫を噛み潰したような顔をしながらもう一度テーブルをバンと叩いては力強く否定、もとい肯定した。
こんなにも外で騒ぎ立てているギュンターだが、幸いなことに平日の中途半端な時間ということもあって喫茶店の客はエルと彼以外居なかった。さらに幸いなことに、通りに面している窓側の席でこそあったものの、初夏にしては暑い今日この頃のおかげか、通りを歩いている人はいなかった。そしてさらに幸いなことに、客の入りが少ない故に暇を持て余している看板娘は、今は厨房で彼女の父親と仲良くふかふかのパンケーキを焼くことに夢中だった。つまりは、外だというのに兄妹だけの秘密の会話だったのだ。
この状況に調子を良くしたエルは、お冷の代わりに件の看板娘がサービスとして出してくれたグレープジュースに口をつけながらニヤニヤ、ニタニタとした笑みを浮かべては兄の返答を待つ。ギュンターはどうにかして話題を逸らせないものかと試行錯誤するも、どうにも単純な頭の作りをしているが故にエルがさらに喜びそうな話題など持ち合わせていなかった。というよりかはそもそもこの3ヶ月、血なまぐさい戦場に身を置いていた男が20も下の妹が今夢中になっているものなど知る由もないのだ。ギュンターはそのことに気が付くと、参ったとばかりに早々に白旗を上げる。それから改めてビールを飲みながら「そのしたり顔、リオポルダそっくりだぞ。」と苦言を呈すると、厨房の方をちらりと見遣る。そしてまだパンケーキに時間がかかりそうなことをしっかりとその眼で確かめてから、声の大きな兄にしては小声――それでも、一般人の普通くらいの大きさはある声で、エルにこそりと告げた。
「そんなこと言えるわけないだろう。あいつと俺は顔馴染みだぞ?タチの悪いジョークだと思われるのが関の山だ。」
「でも、言わなくちゃ伝わらないこともあるって、お母さんはいつも言ってるよね?」
「…………いいんだ、伝わらなくて。」
「どうして?お姉さんもお兄ちゃんのこと、きっと好きだよ?」
「だからだよ。」
ギュンターは子供らしく母親の言いつけと、好意というのは伝え合い、通じ合うからこそ素晴らしいものだという幼い考えを真正面から受け止めた後、いつも子供の心を忘れない兄には少々そぐわない大人の表情を浮かべた。そしてまずは1枚、綺麗に焼きあがったパンケーキに歓喜しつつホイップクリームとチョコレートソース、それとトッピングの荒く砕いたナッツとの準備を嬉々として始める彼女を遠い目で見つめながらぽつりと呟いた。
エルは遅くとも来秋にまでは結婚する予定の姉と、その婚約者との心底幸せそうな様子――日夜互いの未来を語り合っては、とても満たされた顔をしている姉と義理の兄とを知っているだけに、その言葉の意味が分からずに首を傾げた。すると兄は「まだエルには早いかなあ、」と零すと、喉を鳴らしながらビールを一気に半分ほど飲んだ。次いで窓の外のなんでもない日常を送る人々を見遣りながら、兄らしからぬ弱々しい声でぽつりと呟いた。
「同じように戦場に身を置く剣士や魔法使いなら兎も角、あいつはただの町娘だぞ。――もしかしたら自分の知らないところで旦那が死んでいるかもしれない恐怖と戦わせるなんて、可哀想だろ。」
「……………………。」
「それに、結婚したからって遠征がなくなるわけじゃない。隊長の任を解かれるわけでもない。新婚なのに旦那の居ない家だって、笑われて哀れまれるのはあいつの方だ。…………そんなの、あんまりじゃないか。」
「…………………………。」
「――――なんて。エルにはまだちょっと難しい話だよな。……ごめんなあ、変な話して。今の話、あいつには勿論父さん母さん、リオポルダにも内緒だぞ?内緒にする代わりにケーキとプリンも頼んでいいから。……な?」
それは、エルにとっては初めて見た兄の顔だった。知っているはずなのに知らない誰かだった。切なさに胸を痛める、恋をしている男の顔だった。故にエルは今眼前に居るのは常に勇ましく先頭を切って走り続けている討伐隊隊長でもなければ自分を溺愛してくれるちょっとしつこくてウザったい兄でもなく、ただの男の顔をした誰かなのだと幼心なりにそれとなく悟ると口を噤んだ。何も言えなかった。――エルは知らなかったのだ。まさか世の中に恋が叶い、愛になった結果、生まれる代償があるなど想像すらしなかった。世の中の恋は、物語は、皆最後にはハッピーエンドで終わると思っていたのだ。だからこそエルは自身の軽率な言動を大いに恥じると、追加注文を勧める兄に向かってゆるゆると首を横に振った。それから「……ごめんね。」とだけ消え入りそうな声で呟くと、恥ずかしさのあまり下を向いた。そして能天気に見える兄もこうして悩むことがあるのだと知ると、言葉に出来ない気まずさと自分の幼さに唇を噛んだ。
一方でギュンターは恐らく1から10まで全てを理解しているわけではないものの、恐らく賢いが故に5か6くらいは理解しているであろうエルに、幾ら子供相手とはいえこんなことを口にするべきではなかったなと眉を下げた。何よりも3ヶ月の兄妹水入らずの時間なのだ、可愛い妹には暗い顔ではなく会えなかった時間の分まで笑顔を見せて欲しいと思うのが道理というものではなかろうか。とはいえ普段戦場にしか居場所のない自分は、やはりどれだけ考えても妹が今好きなものなど少しも分からない。ギュンターはこんなことになるならリオポルダと両親が休みの日に合わせて、家族全員で来ればよかったと心底後悔しては頭を抱えた。
「お待たせいたしました、パンケーキとアイスクリームのセットとサービスのソーセージです…って、何この空気?」
「ああ、どうも。……まあ、ちょっとな。」
「ちょっとって…まさかギュンター、あなたまたデリカシーのないことでも言ったんじゃないでしょうね?!」
「あだだだだ、違う!違うってば!お前にならともかく、可愛い妹に女デリカシーのない言葉など女神様に誓って口にしてないぞ、俺は!!」
「はあ?!あなた、私にはデリカシーのないことを言ってもいいと思ってるわけ!?サイッテー!!」
「いや違う!それも違う……いや違わないけど!!とにかく俺は悪くないからな?!?」
そんな時だった。分厚いふわふわのパンケーキが2枚重なったパンケーキに、濃厚なミルクと卵の味が売りのアイスクリームにたっぷりのチョコレートソースとホイップクリーム、それから荒く砕いたナッツをふんだんにトッピングした特製セットと、彼女からのサービスであるビールによく合う少し辛めのソーセージが運ばれてきた。が、彼女は先程とは一転してどうにも梅雨前の空のようにずっしりと重い空気に驚くと咄嗟にギュンターに詰め寄った。
というのも、子供の頃からギュンターがどうにもデリカシーに欠けている言動を繰り返している常習犯であることを知っている彼女は、どうせまた相手の気持ちを考えないで発した軽い言葉――例えばお洒落をすれば「似合わない」、髪を切れば「ブスが増した」、恋人が出来たと聞けば「物好きも居るんだな」、その恋人と別れたと聞けば「お前は独り身の方が似合ってる」――と、とにかく過去約25年に渡って彼女の神経を逆撫でしてきた数々の言葉を思い出しながら、鼻息荒く彼を責めた。若干、否、大いに私怨も入っている攻撃を受けつつ、ギュンターは再度大声で叫んで彼女を怯ませると一気に残りのビールを仰ぐ。そして彼女の前に空になったグラスを突きつけては、どうにも上手くいかない人生に対するヤケ酒だと言わんばかりに「お代わり!」と告げた。彼女はそんなギュンターに対してやれやれと肩を竦めた後に、せっかくだから顔馴染みとその妹の歓談に混ぜてもらおうと持ってきた自分用のグラス――オレンジジュースの入ったそれを渡すと、冷たく言い放った。
「それで我慢なさい、この呑んだくれ。」
「…………可愛くね〜奴……。」
「あら。じゃあこのソーセージは要らないのね?」
「――――要ります!!!!!」
相変わらず大きな声の兄に、エルは視線を上げる。そして互いに決して好きだとも愛しているとは言わないものの両者ともに満たされた顔をしている若い男女を目にすると、姉とその婚約者や世間一般における『好き』や『愛している』とはまた違う好意の形に気がつくと、大人は難しいなと目を丸くした。それから愛を伝え合った後に結婚するのとはまた違う愛の形もあることに人間というのはなんと面倒臭く、けれど美しいのだろうと幼心なりに感心すると目を細める。次いでカトラリーを手に取ると、分厚いパンケーキ目掛けてナイフを下ろした。
その間もやいのやいのとああでもない、こうでもないと激しい言葉の応酬を繰り返すふたりに、エルは小さく笑った後にアイスクリームをフォークで掬ってからパンケーキに乗せると、大口を開けて食らいつく。その瞬間に口の中に広がる冷たさと熱さとのマリアージュと脳が蕩けるくらいの甘さとに鼻からため息を漏らすと、エルはついニコニコと笑った。それから同じく甘ったるくて仕方がない眼前のふたりを笑顔で見つめると、今にも落ちそうな頬を押さえた。




