06_17代目の勇者の話(後編)
「ねえ、またこれ?」
旅の最中、何度目かも分からない野宿。パチパチと音を立てながら燃える焚き火を前に、エルはあからさまに嫌そうな顔をした。反対に、エルの向かい側に座る彼は一瞬眉間に皺を寄せた後、ごくごく冷静に言い放った。
「文句言うなら食べなくていいですよ。」
「じゃあ食べない。」
「後でお腹空いたって泣き出しても無視しますからね。」
「出来るものならしてみたまえ。」
――全く、これではどちらが歳上でどちらが歳下なのか。何故か威張って胸を張るエルとは対照的に、彼は深いため息をつくと焚き火に枝をくべた。…というか、本当に後で泣く気だったのかと彼はエルに疑わしい目を向けた。が、訝しげな視線とは反対に、エルは普段と変わらない読めない表情をしていた。とはいえ、エルの言わんとしていることも理解出来るだけに、彼は一瞬視線を泳がせた。
文明の証を囲むように並べられているのは、彼らの横を流れる川で釣った淡水魚たち。程よい大きさの枝を洗って口から突き刺しただけのそれらは、必要最低限の処理しかしていない。具体的には鱗を取っただけのそれは、確かに心から美味いと喜べるものではなかった。けれど近くに町もなければ村もない、こんな僻地では貴重な食料だ。どうにか我慢して貰えないかと彼は頭を捻る。
……と、そのうちに、あることに気が付いてしまった。口に出して良いものかと一瞬逡巡するも、気が付いてしまった以上は無視出来ない。彼は恐る恐る不満そうに唇を尖らせながら焚き火を睨みつけるエルへ、声を掛けた。
「……あの、師匠。」
「なに?」
「師匠って、神話の時代から生きてるんですよね?」
「そうだけど。」
「……なら、昔はこんな料理ばっかりだったんじゃ…?」
「……………………。」
名もない農村に生まれた彼には、歴史を語るほどの知恵はない。知識もない。けれどなんとなくだけれど感じたままを臆せず口にすると、エルは黙り込んだ。その姿に彼は流石に不味いことを言ってしまったかと内心焦るも、彼の焦燥とは反対にエルは黙り込んだ後にぷっと吹き出すと、腹を抱えて笑った。彼が笑う時のように腹の底から声を上げるわけでもなければ身を捩るわけでもない、静かな笑い声だった。けれどエルにしては珍しい、少女らしい笑い声だった。その声が、顔が、普段の賢者然としたエルとは対局に位置する瑞々しい笑い方で、思わず彼は見蕩れてしまう。声を失う。表情さえも、失ってしまった。が、ふと我に返ると軽く頭を振った。それからどうやら怒ってはいないらしいエルにほっとしたのも束の間、ならば何故今自分は笑われているのだろうかと首を傾げた。
女と男は違うとはよく言うものの、特にこの年齢不詳の師匠に関してはどの枠組みにも属ない特殊な例だ。一般的な女性に当てはめてなど考えられないし、考えたくもなかった。そんなことをしてしまったら、世界が滅ぶような気がした。だから彼はこれ以上余計なことは言うまいと心に決めると、今度は大人しく口を噤んではエルの返答を待った。
「――ふふっ。いや、悪いね。笑う気はなかったんだ。」
エルは一頻りくすくすと笑った後、膝を抱えて座るとじっと焚き火を見つめた。それから風にゆらゆらと揺れながら心地よい音を立てるそれに、目を細めた。次いで地面に突き刺した魚――程よく焼けた、否、ただ焼いただけの、塩もなにも振っていないそれをひとつ手に取ると、息のひとつも吹き掛けずにかぶりついた。
「わたしね、食べることが好きなんだ。」
なんの味もしない魚の背中が、少し欠ける。それを見つめながら、彼もまた程よく焼けた魚を手に取ると、彼女とは反対に腹にかぶりついた。魚の内臓の、なんとも言えない苦味に彼は顔を顰める。それから、これが好きだという人の気持ちは多分一生理解出来ないなと考えては、内心苦笑した。
顔を顰めた彼とは反対に、エルはなんの味もしない淡白な魚に表情ひとつ変えずにもう一度かぶりついてから、何度咀嚼しても味の変わらない食事にやれやれと肩を竦めた。竦めてから、荷物から塩に胡椒にマスタード、ケチャップと様々な調味料を取り出すと思うがままに魚に振りかけると、今度は大口を開けてかぶりついた。――ほんの少し味を加えただけで段違いの満足感にエルは心底幸せそうに微笑むと、言葉を続けた。
「わたしは死ねない。だから本来は睡眠も食事も必要ない。でもね、食べることだけは好きなんだ。」
「……まあ、それは見てれば分かりますよ。でも、どうしてですか?」
「どうしてだと思う?」
問い掛けたはずが、逆に問い返されると彼は再び頭を捻る。捻って捻って考える。そして暫しの沈黙の後、当初の反応と大きな街のレストランでの反応――無論、後者の方は目をキラキラと輝かせていたのは言うまでもない――を思い出すと、その際に彼女が口にしていた言葉――「……美味しいものは幸せな気持ちになるから…?」と、おずおずと口にした。エルはその回答に頷くと、「半分正解。」と口にした。
半分。半分とは一体どういう意味なのだろうかと、彼は首を捻る。不器用故に思わず考え込みすぎたせいか、気が付くと焚き火を囲んでいた魚たちは片面がすっかり焦げていた。エルは慌てて引き上げる彼をくすくす笑うも、手伝う素振りは見せない。彼女曰く、「師匠とは、常にどーんと構えている存在だからね。」ということらしい。彼はそれが意地でも手伝わないこととどう繋がるのかと問い詰めたこともあったが、いつもはぐらかされてしまうことに気が付けばほとほと懲りてしまった。故に、彼はもう敢えて口にはしない。エーデルガルトという少女はそういう師匠なのだと、割り切る方が早いことに気が付いたからだった。
「食事だけが、いつの時代も変化しているからだよ。」
エルがぽつり、必要最低限だけの言葉を口にする。――それ以上の言葉は、もう、お互いに必要なかった。
「……この旅が終わったら。おれ、料理人になろうかな。」
彼はエルの顔をじっと見つめる。……こうして正面から見つめる彼女は、ただの年頃の少女だ。けれどその実、彼女は数え切れないくらいの人間を送ってきた。その心の内を推し量ることは出来ても、完全に理解することは出来ないことを、彼は知っていた。知った上で、それでも理解しようと努めた。口からついて出た言葉は、その証左だった。
「いいんじゃない?――お肉とスイーツ、たくさん置いてね。それと白いパンも。」
「残念でした、魚料理をメインにします。…おれ、釣りが上手いからさ。国中の魚を釣り尽くして、料理し尽くして、研究し尽くして――絶対に師匠に美味しいって言わせてみせますから。」
「そ。……楽しみにしてるよ。」
エルは小さく笑ってから、「でも、まずは魚の処理から学ばないとね。」と口にした。ぐうの音も出ない正論に彼は思わず下を向くと黙り込んだ。エルはそんな彼にもう一度くすくすと笑った後に、「教えてあげるよ。」と言った。彼は意外すぎる言葉に顔を上げると、目を瞬かせる。それはまさかエルが剣と魔法以外も教えられると知らなかったが故の驚きであると共に、この旅の終わり――魔王を封印したその後も、まだ一緒に居てくれるという約束にも思えたからだった。それに何より、勇者としての役割を終えた後の人生なんて、今の今まで考えたことがなかったからだった。
「死ぬまで師匠の面倒見ますよ。」
「そ、ありがとう。」
――本当は。何度も何度も、勇者としての役目を終えたあとの人生について、考えていた。夜空の月と星とを眺めながら、風の音と焚き火の音に耳を澄ませて、ずっと考えていた。けれど考えても考えでも少しも出てこない答えに、少し焦っていた。もしかしたら自分は空っぽなんじゃないか、なんて正当な理由もない不安に苛まれて、胸を痛めて、目尻に涙を浮かべたことも少なくなかった。それくらい、何をしたいかなんて、少しも思い浮かばなかった。だから、先程口をついて出た言葉も、半分以上は本心なんかじゃなかった。ただの冗談で、戯れて、不安を誤魔化すための嘘だった。
けれど。なんの躊躇も恐れも疑いも抱くことなく、平然と『その後』も一緒に居てくれると、彼の師たる彼女は口にしてくれた。その瞬間に、口をついて出た虚は彼の中で本当の感情になった。『そうして勇者は魔王を打ち倒した後、いつまでもいつまでもしあわせに暮らしました』――いずれそう記されるかもしれない、曖昧な御伽噺の、誰もが見落としている英雄のその後に、彼女だけが言及してくれた。
「なら、美味しい魚料理を、もう魚なんて嫌いって言っちゃうくらい、おなかいっぱい食べさせてね。」
「はい。……はい、任せてください。」
すっかり黒焦げになった焼き魚を前に、彼は何度も頷いた。そうして齧った魚は、ほんの少しだけ苦い味がした。なのに、その苦さは少しも不快じゃなくて。寧ろもう少し味わっていたい、心地よい苦さで。「……不味いけど、美味しい。」と呟いた彼に、エルは無言でマスタードの入った瓶を差し出した。




