58_エーデルガルトの故郷の話(前編)
互いに無言のまま向かい合い、幾らかはましになったひよこ豆のスープをその日最初で最後の食事にすると、エルと彼とはとうに家人を失くした家の一室――但し普段とは違い、エルと彼とで一部屋ずつ――を借りることにした。そうしてまずはどの部屋を借りようかと蝋燭片手に家中を見て回った結果、どうやらこの家は夫婦と小さな子供、それもまだ生まれて精々1年か2年くらいの幼子の3人家族だったらしいということがそれとなく判明した。きっとさぞかし多くの希望に満ち溢れていたことだろうとエルと彼とは胸を痛める。そして夫婦にとって大切だったであろう幼い子供の部屋と夫婦の寝室には入らずに、代わりに夫妻それぞれの自室に今晩だけお邪魔することにした。きっと本が好きな人だったのだろう。部屋中が本に塗れている妻の自室には、同じく本好きの彼が。そして反対に狩りが趣味だったのか、はたまた生業だったのだろうか。様々な弓矢や投擲武器が所狭しと並べられている夫の部屋には、エルが泊まることとなった。
そうやって泊まる部屋を決めると、エルはさっさと休んで明日にでもここを出ようと口にした。彼はそう提案するエルに対して相変わらず無言な上に目も合わせないけれど、小さく頷いた。そしてやはり無言のまま扉を開けると、普段何気なく口にしている「おやすみ」の代わりなのだろうか。開け放った扉を軽くこん、こん、こん、と。3回ノックすると、相変わらずエルに対してなんと声を掛ければ良いのか分からない我が身を恥じるように眉を下げた。エルはそんな彼に笑いかけると、何も詮索せずにただ「おやすみ。また明日、ね。」と言って手を振った。それは彼女は彼の何十倍、何百倍も生きているが故に、その心中に渦巻く形容しがたい感情――恐れだとか、哀れみだとか、それでも信じたい気持ちだとかが、手に取るように理解出来たからだった。だからエルは余計なことは口にせず、その代わりに努めて普段と変わりない調子で『明日』を約束した。
――その晩は、エルも彼も少しは眠れた。実際には遠くで遠吠えをする狼の声だとか風の音だとかで、平時よりかは眠れなかった。それでも互いに一睡も出来なかった昨晩に比べれば、まだ幾らかはましだと笑えるくらいには眠れたのだ。それでもやはりと言うべきか眠りは浅く、夢さえも見なかった。が、互いにほんの少しでも身体と心を休めることが出来た。それはもしかしたらこの家に仄かに漂っている幸せの残り香のせいかもしれないなと、エルは朝を告げる小鳥の声にゆっくりと目を開いた瞬間に、ふとそんなことを考えたのだ。
――――――
「仕方がない、お前も連れて行くしかないな。」
寝る前に洗濯した血濡れの旅装束――彼が密かに「せっかくホープに仕立てて貰ったばっかりなのに…。」と気に病んでいたそれは、彼の感情とは反対にシミひとつ残すことなく綺麗に乾いていた。信じられないといった様子で目を丸くする彼に、エルは「妖精の仕立てた服ともなれば、そんじょそこらへんの市販品とは違うからね。」と口にしながら洗濯物を畳むと、馬車の中に放り込んだ。それからその馬車を引くこととなる肝心の愛馬――本来ならばこの村に置いていくつもりだった――の顔を見遣った後に、肩を竦めるとそんな言葉を口にした。愛馬はそんなエルに「やれやれ、何を言っているんだか。」と言いたげにブルルンと鼻を鳴らす。それから「自分はどこまでも着いていく気ですけど?」と言わんばかりに大きく首を傾げては、普段の調子でエルの髪を食んだ。
エルはほんの一瞬ですっかり唾液でベタベタになってしまった髪の毛に眉を顰めると、愛馬の頬をぺちぺちと叩いた。そして「こら。また風呂に入らせる気か。」と文句を口にしながらも、不可抗力とはいえ厳しい砂漠に同行させる覚悟を決めるとハーネスを取り出した。そして彼の愛馬に装着しようと手をかける。すると愛馬は昨日とは違い、依然として空気は重苦しいものの甘えれば甘えた分だけ構ってくれるエルに心底嬉しそうに頭を揺らしては、前脚で地面をかく。そうやって本人に自覚はないものの、暴れるものだから小柄なエルは少々、もといかなり手こずる。それでもなんとか馬車を牽引するためのハーネスを付けようと奮闘する様に、漸く彼は到底実現不可能であろうことをさも当然のように口にしたエルの言葉を理解すると、流石に慌てた様子で声を上げた。
「ちょ、平気なの?!砂漠って、砂しかないんだよね!?」
「ああ、そうだ。たまに草が生えてることもあるけど、基本は砂しかない。」
「そんなところに馬なんて…!」
「普通は無理だな。普通は。」
エルは何か言いたげにそう口にした後、彼を見つめると少々無理してにやりと笑った。それから一向に大人しく装着させる気がないらしい愛馬に、渋々ハーネスを退けるとぽいと彼投げて彼に手渡す。そうして自由になった両手で馬房の壁に立て掛けていた杖を手に取ると、なんとも悲しい自嘲を口にした。
「わたしは、神代の魔法使いだぞ?」
彼はその言葉に何も返せなかった。ただ、心はいつだって違うと言いたかった。叫びたかった。けれど果たしてそれが本当にエルの望んでいる言葉なのだろうかとか、どうであれ彼女を拒絶してしまった自分にそんな言葉を口にする権利があるのだろうかとか、そもそもそれを口にした本人はどういう反応を求めてそんな言葉を吐いたのだろうかとか、そういう余計なことばかりを気にしてしまった結果、思考が真っ白になってしまって。言葉というものを無くしてしまって。だから、何も言えなかった。エルの痛々しい自傷行為にも似た言葉に、ただ押し黙ることしか出来なかった。それでも、どうにかそうやって悲しそうに笑う彼女を否定したい気持ちだけは紛うことなく本物だったから、彼は言葉を探す代わりに皮膚が裂けてしまうのではないかと思えるほどにきつく手を握ると拳を作った。それからやっとの思いで首を横に振った。けれどまだ、勇者なんて大それた称号に相応しい勇気なんてものは少しも出なかったから、彼女の目を見つめることは叶わなかった。
一方でエルは心底苦しそうな顔をした後に、暫しの逡巡を経てゆっくりと首を横に振った彼に目を瞬かせた。それからどうして彼がそんな苦悶に満ちた表情をするのかが理解出来なくて、少し困惑した。けれど心の底にあるのが恐れであれ軽蔑であれ、建前上だけだとしてもいまだに弟子として振る舞おうとしてくれる彼に申し訳なさと切なさとが同居しているような色を瞳に宿すと、感情を押し殺すような声で「……ありがとうね。」と口にした。彼はやはりそんなエルに何も言えなかった。だから代わりに、興奮気味の愛馬を窘めると素早くハーネスを装着させると共に馬車に繋いだ。エルはそれを「流石は飼い主。鮮やかな手腕だね。」と小さく拍手しながら褒めた。そして褒めるのもそこそこに、次いで鞍も着けるように言い放った。彼はその言葉を受けると、無言で今度は鞍を装着させる。なんとも皮肉なことに、この場面だけを切り取れば、そこに居るのはいつも通りのふたりだった。
「――砂漠といえども、元は街があった場所だ。つまり、整備された街道がある。そこだけを選んで通れば、恐らくそこまで馬体に負担はかからない筈だ。
加えて、蹄には念の為『浮遊』を。それから『風』と『水』の複合魔法を展開して、身体全体を覆う。これで少なくとも陽射しと熱砂からは身を守れるだろう。」
田舎の地方の村とはいえ、女神信仰のメッカとしてそれなりに訪れる人が多いからだろうか。村民の家とそこから推察出来る人口に対してやたらと大きく広い村を、ふたりは自分たちが入ってきた門とは反対の門――要するに出口にあたるそれを目指して、村を横切る。その最中、エルは再び黙り込んでしまった彼に向けて馬上から自身の考える馬を連れての砂漠横断改め帰郷のプランを口にした。
とはいえコツコツと勉強を続けてはいるものの彼の知識と理解度を遥かに上回るエルの発言に、彼は壮大な置いてけぼりを食らう。加えて相変わらず何を言っているかさっぱり分からないエルに「はあ」だの「へえ」だの、気の抜けたような返事とも相槌とも区別がつかない言葉を漏らしては内心首を傾げた。とはいえエルが他の誰でもない自分のために、恐らくは到底常人には思いつかない上に実行不可能な無茶を口にしているであろうことを彼は何となく悟ると、途端にぽかぽかとしてきた胸のあたりをぎゅうっと握り締めた。そして、誰がなんと言おうが。そしてこれから先、自分が何を見ようが、知ろうが、聞こうが。エーデルガルトという女性の本質は間違いなくこういうところにあるんだよなと悟ると、あまりの恋しさと愛おしさと哀しさと、それを上手く表現出来ない自分の不甲斐なさとに一瞬呼吸を止めた。それから切なげに眉を顰めると、何度も何度も心の中で呟いた。
(……はやく、謝らないと。それから、助けてくれてありがとうって言わないと。あと、愛馬のことも、ちゃんと仲間としてカウントしてくれてありがとうって。気遣ってくれてありがとうって。おれ、そんな師匠のこと、尊敬してるし凄く好きだって伝えなきゃ。怖くないって言うのはまるきり嘘じゃないけど、あれはほんの反射的な行動であって、本心じゃないって……本当はすっごく好きだって、多分これが愛なんだって、伝えなきゃ。生きているうちに、たくさん、たくさん言わなきゃ。言葉にしなきゃ。なのに、なのに――。)
彼は胸のあたりを抑えている手はそのまま、ぐっと握り込む。思考が堂々巡りする度に苦しくなる呼吸と胸と、どうにも痛む頭とに眉間に皺を寄せながらも思考は止めない。ただただどうやってきっかけを作ろうだとか、作ったとてどんな言葉ならば彼女の心の奥深くにまで届くだろうだとか、手綱を引きながらそんなことばかりを考える。その度にどこからともなくぽつりと生まれてきては心に根を張ろうとする、嫌な『もしも』――そもそも咄嗟とはいえ拒絶してしまった以上、相手はとっくに自分のことを弟子とは思っていないだとか。こうやって押し黙っているうちに、どんどん愛想を尽かされているだとか。若さ故の根拠のない被害妄想が頭と心の片隅でむくむくと頭をもたげては、誰に頼まれたわけでもなく自分自身を追い詰めていく。エルとはまた違った自傷行為として、彼自身の心を抉っていく。
その結果、また無言になる。居心地の悪い静寂の中、ふたりと1頭は無人になった村――廃村とは言いたくなかった――を、出た。
「……砂漠には魔物の類は居ない筈だから、安心して。」
村を出て暫くした頃、静寂に耐えかねたのかエルが口を開いた。それは昨晩も寝る前に少しは治療したとはいえ、まだ本調子ではない彼を気遣って言ったのか。それとも女神信仰が色濃く残る地故に満ち溢れる神秘に、常時よりも魔力の回復が早いとはいえ外なる神由来の魔法を使用した反動がある以上、あまり無理はさせるなという警告なのか。――恐らくはエルの性格上、単に彼とその愛馬を気遣っての言葉だと思いたいものの、どうしても自分というものに対して自信を失っている彼はつい勘繰ってしまう。……が、それじゃあダメだろうと何とか頭を勢いよく振って正気と言うべきか、あるいはいつもの調子と言うべきか、とにかく彼らしい前向きかつ思慮深い思考を呼び戻すと、彼は声を絞り出した。
「…………それ、何百年前の話だよ。」
少しくすんだ金の髪を左右に振りかざしながら、漸く普段のような軽口を叩き始めた彼に愛馬は喜ぶとヒヒンといななく。果たして主人の奇行に喜んだのか、はたまたようやくぎこちなくも戻りつつある日常に喜んでいるのか。いずれにしろ些細ながらも確実に訪れた変化を愛馬は誰よりも喜ぶと、ふんすふんすと鼻を鳴らした。
「――――――少なくとも300年は前かな。」
エルはまだ視線がかち合うことこそないものの、だいぶ普段の調子になってきた彼に静かに胸を撫で下ろすと一見してジョークのような、けれどそのくせ少しもジョークではない言葉を紡いだ。彼はその言葉に小さく笑うと、「そっか。」とだけ返した。
そうやってぽつりぽつりとではあるものの、会話をしながらどうであれ平地だった村を出て5分と経たないに、砂漠に呑まれつつある激しい渓谷――本来ならば川があったであろう箇所にまで侵襲していている流砂に、エルは眉を顰めると馬から降りた。そしてあまりにも早すぎるというべきか、勢いがありすぎるというべきか。とっくに枯れてしまった川と予想以上に渓谷を侵食する砂とに、大きくため息を吐いてから彼と愛馬に向き直ると今まさに通ってきた道を指差しながら言った。
「帰るならまだ間に合うけど?」
それはエルなりの最大限の優しさにして、彼女らしからぬ臆病さの表れでもあった。どこまでも幸せだった過去と今尚目を背けたくて堪らない真実とが眠る場所で、過去の自分と真正面から向き合う恐怖が、どうにか逃避してくれないかと吐かせた言葉だった。加えて朽ちていくのを見るのが怖くてつい何百年も逃げ続けた結果、そこにかつて人が住んでいた痕跡――つまりはただただしあわせだった少女時代なんて本当はなかったんじゃないかと突きつけられたら、と怯える心が紡がせた精一杯の自己防衛だった。
けれどそれら全てとはいかなくとも、彼は2割か3割程度にはエルの気持ちを推察出来ていた。もとい、理解出来ていた。というのも彼自身、仮に勇者としての役目を終えた時、もしかしたらもうあの故郷に自分の居場所なんてものはないのかもしれないと、繊細な性格故に気が弱った時にはふとそんなことを考えてしまうことが少なくないからだった。故に抱えている時間の差こそ埋まらないものの、よく見知った場所が知らない場所になっていたら……という想像が、彼には痛いほどわかった。けれど彼はその痛みと郷愁とで形成された恐怖心を充分に理解した上で、砂に覆い尽くされている渓谷へ足を1歩踏み入れると、真っ直ぐに前を見据えたまま言った。
「…………ここまで来ておいて帰るのはさ。なんか、寝覚めが悪いじゃん。」
エルはその言葉に目を丸くする。それから、相変わらず目は合わないものの、代わりにいつの間にか随分と逞しくなった背中を見遣ると、ふっと鼻で笑ってから愛馬の足元に『浮遊』、身体全体を覆うように『風』と『水』との複合魔法を用いて保護膜を形成すると、彼の代わりに手網を引きながら口を開いた。
「―――――――ああ。全くもってそうだな、我が弟子。」
エルはほんの少しの強がりで、恐怖心に蓋をするとざくりと砂の中へ足を1歩踏み入れた。――どう少なく見積もっても300年振りの里帰りが、始まった。




