55_彼とエルと軋轢の話(後編)
彼は痛みに霞む視界と聴覚の中、エルの魔法により強制的に睡眠状態に陥った自身を緊縛した後に刃物こそ用いはしなかったものの、口の中に血の味が広がる程度には痛めつけてきた人物――あの老翁が倒れるのを、どこか遠い世界の出来事のように見つめていた。まるで時間が止まってしまったかのようにゆっくりと倒れていくその背中と、次いで地面を揺らす衝撃に傷が痛むのを感じた。彼はそう近くはないはずなのに全身に負った傷のせいか、僅かな刺激にさえも鋭敏に思わず身体に思わず眉を顰める。それから口にするのもはばかられるような罵声と共にエルに襲い掛かる人々を霞む視界で捉えると、上手く開かない口で言葉にならない言葉を吐いた。
「黙れ!」
「……ッ、は…、ァ…っ……!!」
すると老翁から彼を受け取った若い女性――年齢的には彼と同じくらいか2、3歳歳上だろうか――は、鋭い目つきできっと彼を睨み付けた後に、力に任せて思い切りその頬を殴り付けた。続けて仲間が次々とエルの手によって倒されていく様に苛立っているのか、あるいは『これ以上仲間を殺したらどうなるのか教えてやる』ということなのか、とにかく間髪入れずに無抵抗の彼の腹に蹴りを入れた。
彼は脊髄にまで響かんばかりのあまりの痛みに、猿轡の隙間から血と唾液と胃液とが混ざった液体を吐き出す。が、猿轡を噛まされているが故に僅かな隙間しか空いていない唇から、全てを外に吐出するのは難しかった。そのため彼は口の中に広がる鉄の味だったり酸味を感じる味だったり、あるいは喉が焼けるような感覚に激しく咳き込む。そしてこのままでは窒息することを本能的に察すると、必死に口の中の液体を飲み込もうとした。けれどその間も少しも止むことのない拷問じみた暴力に、彼は呼吸すらままならない。満足に出来ない。それでも必死に目に涙を浮かべながら、喉が焼けるように痛むのを堪えて何とか嘔吐物を飲み込むと、女性はチッと舌打ちした。というのも、女性がそうして彼に鬱憤をぶつけている間も、彼女の仲間は果敢にエルに挑んでは容赦なく殺されていた。
ある者は極限まで鋭く尖らせた風の魔法に、心臓を射抜かれて死んだ。そしてまたある者は、そうやって死んだ仲間を間抜けだと笑うと、魔法使いには接近戦だろうとその死体を盾にしながら剣を抜くと、果敢にエルに挑んだ。けれどその意気込みはともかく、神代の魔法使いであると共に優秀な剣士でもあるエルにただの人間――それもきちんとした訓練を受けているわけでもない――が、適うはずがなかった。エルはこちらへ勢いよく突っ込んでくる男を確認した瞬間、地面に伏してはとうに息絶えている老翁の腕を思い切り踏んだ。するとその反動で老翁の手を離れ、空中を舞った長剣をエルはしっかりとキャッチすると、男が彼女の首や心臓に狙いをつけるよりも先にその切っ先を心臓目掛けて突き刺した。男は本来非力なはずの魔法使いであるエルの、あまりにも鮮やかな剣術に感動はおろか感心する間もなく息絶えた。エルは剣先を通じて男の心臓が止まったことを確認すると、あくまでも表情ひとつ変えずに流れるように脇目掛けて剣を引く。そうして男の心臓から脇に掛けて綺麗な横一文字を刻み込んだ後に、そのままその剣を自分目掛けて切り込もうとしてくる幼子に向けて投げ付けた。美しい円を描きながら宙を舞った長剣は、幼子に避ける時間すら与えずにその首と胴体とを綺麗に切り分ける。
――1拍の後、ぐしゃりとその首が落ちる音がした。続けて2拍の後、血が噴水のように勢いよく吹き出す音がした。そして3拍の後、その血がエルの頬をぴちゃりと濡らす音が喧騒に包まれた村の中にやけに静かに、けれど確かに染み渡った。
「……ば、化け物…!!」
慈悲ひとつ見せずに幼子を殺したエルに、おそらくは母親であろう女がそんな罵声を浴びせた。エルはその声にやはり表情ひとつ変えなかった。寧ろ心底うるさそうな、面倒臭そうな色をその瞳と顔に浮かべてから杖を構えると、宝玉の先に魔力を集める。そしてその女が我が子への哀れみやエルへの憎悪に囚われている最中――要するに、その意識が回避行動へと向く前に『爆発』の魔法を起動するとその脳天ごと吹き飛ばした。
派手な爆発音の後に、土煙が舞う。続けて肉片が飛び散るなんとも形容しがたい音と、大量の血液が溢れ出しては地面を濡らす音とが周囲を包む。そのあまりにも容赦のない攻撃に、流石の狂信者たちといえども声を失った。そして誰もが固唾を飲んで、じいっと土煙の向こうを見つめた。エルはというと、そんな彼らとは反対に至近距離で爆発の魔法を起動したが故に、頭から爪先まで女の血と肉片まみれになっていたにも関わらず、やはり何にも感じていないような平常通りの顔をしていた。そして頭から血を被っているにも関わらず、それを拭うこともしなければそもそも気にする素振りも見せないままに、口を開いた。
「そうだよ。わたしは化け物だ。」
エルは普段と変わらない声のトーンで淡々とそう告げる。次いで彼を虐げている若い女とその取り巻きとを血に濡れたまま真っ直ぐに見つめると、鋭い声を響かせた。
「――だから、今すぐその薄汚い手を離せ。」
「……嫌だと言ったら?」
女は仲間の大多数がエルに倒される、もとい大虐殺されてもなお気丈に反抗する。それどころかエルを挑発するように、左手で彼の前髪を乱暴に掴むと力任せに引き上げた。そして右手に装備した鉤爪を彼の頬から喉元にかけてのラインに宛てがうと、目の前の女への恐怖とそれでも捨てきれない魔王への忠誠心に震えながら強がった。彼は女が震える度に皮膚に突き刺さる鉤爪の先とそこから流れ出る血液の感覚と、身体中を襲う継続的な痛みとにとうとう意識が朦朧としてくる。が、それでも必死に潰れてしまった喉から声を絞り出そうともがく。「おれのことはいいから逃げて」と、なんとか言葉にしようと足掻く。それはエルにこれ以上人殺しをさせないための言葉であると共に、彼女のことを理解したような気になっていた自分を守るための言葉でもあった。
けれど、胃酸に焼けた喉では上手く声が出てこなくて。彼の喉からはカエルが潰された時のような不格好な声がポツポツと漏れ出しては、その度に自身の命を握っている女を苛立たせるだけだった。女は彼に「黙れと言っているだろう!!」と強い口調と共に、喉元に鉤爪を食い込ませる。僅かに肉が裂かれる感覚と鋭い痛みに、彼は目を見開いた後に眉を顰めては呻き声を上げる。エルは痛みに悶える彼に能面のような顔にほんの少しだけ不快を露わにすると、愛用している杖から手を離した。そして、告げた。
「ならば、お前の信じる魔王の信じる『神』に殺されるといい。」
恐ろしいほど平坦かつ静かな声の中に確かな怒りと狂気を滲ませて、エルはそう口にする。そして杖が重力に従って倒れるよりも先に、頭上高くに浮かぶ月が放つ逆光でその顔と表情とを隠した。そうやって彼らがエルの顔を認識出来なくなった瞬間に、彼女はゆっくりと口を開くとその呪文を口にした。
「|深淵はお前の眼前に在り《えぃびす ふぉる でぃる》。|其れはすぐ其処に在る《えす いすと だ どりゅぶん》。|『隆盛の晩餐』だ《ざいね 『ぶるーへんでん げりひて』》。」
「な、ッ…!その呪文、は――!」
それは、初めて聞く発音の言葉だった。彼の16年の人生において、初めて理解出来ないと感じたものだった。加えて無意識に背筋が凍り、鳥肌が立ち、不快感が由来の吐き気さえも催すほどにおぞましいものだった。一方で、そんな彼とは反対に女はエルの口にした呪文に聞き覚えがあるのか酷く動揺した様子だった。明らかに狼狽えると、エルに向かって「貴様…!そのような愚弄…!!」と食って掛かろうとした。
が、それは叶わなかった。エルの唱えた呪文が魔法として発動したからではない。――否、魔法は発動した。確かにその効力を持って、この世界に降り立った。けれどそれは炎だったり水だったり風だったりといった無機物ではなく、明確な意志を持ってエーデルガルトという人間に喚ばれた。喚ばれてしまったのだ。そして『それ』は、応えたのだ。応えてしまったのだ。それも「なんともまあ、楽しそうな状況だろう!」と嬉々としながらあの月明かりが生んだ影の中から這い出ては、女の眼前にゆらりと立ちはだかったのだ。
「…………ぁ、あぁ……。」
――そして。女は『それ』と、目が合ってしまった。無論、女は逸らそうとした。魔王を信仰するものの1人として、彼が信仰する宗教について聞き齧っていた女は、それがいかに危険な存在か知っていた。故に必死に目を逸らそうとした。だが、無理だった。一説によれば千の貌を持つとも、千の化身を持つとも言われている『それ』は、自身から目を逸らそうとする女の視界いっぱいに幾つもの自分を並べては、逸らす時間も空間も猶予も慈悲も何ひとつ与えずに、女の顔を覗き込むと目を合わせた。それ以外は何もしなかった。ただただ、じいっと女の目を見つめた。すると女は泣いたような笑ったような声を上げながら、最後に残ったひと欠片の正気でエーデルガルトという女を敵に回してしまった不幸と浅はかさを嘆いてから狂うと、彼から手を離した。そしてその代わりに大きな声で笑いながら先程まで彼に向けていた鉤爪を自分の喉元に宛てがうと、そのままなんの躊躇もなく突き刺した。けれどただ1度突き刺しただけでは死ねなかったのか、女は絶命する瞬間まで狂ったように――否、実際に狂っていたのだろう。けたたましい笑い声を上げながら、何度も何度も自身の喉元に鉤爪を突き刺しては引き抜き、突き刺しては引き抜き、最後にはゴポゴポと気管から空気を泡立たせながら死んでいった。その顔は耳をつんざくような笑い声とは対照的に、絶望に打ちひしがれていた。
それを目にした残りの狂信者たち――と言っても、最早10人も居ない――は、我先にその場から逃げ出そうとする。が、『それ』は逃げ出すことを許さなかった。但し、特別なこともしなかった。幾つもの化身で彼らひとりひとりを取り囲んだ後に、先程女にしたようにただ目を合わせるだけだった。だというのに、彼らはたったそれだけの行為に一寸の狂いもなく気を狂わせると、女同様自決した。ある者は脳天に短剣を突き刺し、ある者は心臓を槍で貫した。そしてまたある者は剣で自身の腹を裂いた後に腸を引き摺り出しては、縄跳びを始めた。かと思えば速やかに絶命した。
――それは、間違いなく異様な光景だった。けれど幸いなことに彼はあまりの痛みにとうとう目を開くのは勿論、意識を保つことすら難しくなったいたために、その光景を直視しないで済んだ。それは気の触れた女に半ば地面に投げ付けられるように突き放されたことに加えて、酷く痛めつけられたが故に最早顔を上げる体力さえ残されていなかったがためだった。そのため、エルが喚んだ『何か』は、彼を見逃した。それはエルに喚ばれたからではなく、今の彼相手では『楽しめない』ことを悟っていたからだった。――要するに、却って瀕死になるまで痛めつけられたことが不幸中の幸いになったのだ。そしてエルが喚んだ『何か』は、残党をくまなく狂わせては自死させた後に最早自身が楽しめる余地がないことを悟ると、幾つにも折り重なった影の中に潜り込んでは消えていった。
エルはそれをしっかりと見届けた後にふう、と大きな吐息を吐き出す。女神の魔法ではない、外なる神の魔法――それも『神』本人を呼び出して使役するなんていう規格外の魔法に流石に体力と魔力を消費した様子で額の汗を拭ってから、誰かが自死に使った短剣を拾い上げると彼へ寄って行った。そしてキツく縛られている手足の縄と猿轡とを切って外すと、そうっと彼をその場に寝かせると簡単な触診を始めた。明らかに朦朧としている意識と不明瞭な発声、それと紫色に変色した腕に肩に一体どれほど痛めつけられたのだろうと、エルは心を痛めた。そして能面のような表情からようやく人間らしい表情――心配と慈愛に満ちた、先程までなんの躊躇もなく人間を殺していたとは思えない表情と共に手のひらに魔力を集めると、彼の全身にくまなく宛てがった。
そうやって魔力を直接流し込んでは内部の傷を癒す傍ら、『治療』の魔法で表面上の傷を癒すこと約10分。なんとか折られたであろう変色した箇所や損傷のあまり腫れていた喉が落ち着き、彼が意識を保つのに生命力を消費しないで済むようになった頃。エルはまだぼんやりとこそしているものの、目に見えて苦しそうな様子ではなくなった彼に心底安心すると顔を歪ませた。そして目を細めては目尻に薄らと涙を浮かべ、感情のままに彼を抱き締めてはその背中を撫でる。
「……良かった…。本当に、良かった……。」
その声も、ぬくもりも、いつものエーデルガルトだった。彼が好きになった、エーデルガルトだった。故に彼は彼女に「心配かけてごめん。」と謝らなくちゃと考えるとまだ傷の残る口を開きつつ、どうにも気怠い両腕でそうっと抱き締め返そうとした。
が、彼の意志とは関係なく脳裏を過ぎる先程の光景――容赦なく人間を殺すエルの冷たい表情だとか無慈悲な声だとか、冷酷さだとか。あるいはそれを迷うことなく決断した冷静さに、彼は無意識にその肩を押すと初めてエルを拒絶した。そしてほんの少しの怯えと恐怖と、それからひとつまみの軽蔑とが混ざった眼差しをエルに向けた。
「――――ああ、そっか。」
エルは彼に拒まれると、その瞳を大きく見開いて驚く。けれどすぐに彼の瞳に宿った本能的な感情と、深い紺色のドレスが変色しているほどに血を浴びている自分とに気が付くと寂しそうに眉を下げて笑った。そして彼に「怖がらせてごめんね。」と心底困った表情と共に謝罪すると、そうっと立ち上がった。次いでこれ以上弟子を怯えさせまいと素早く背中を向けると、努めて普段と変わらない声で告げた。
「先に宿、戻ってるから。……落ち着いたら帰っておいで。」
「…………………………。」
彼は初めて見る、月光に照らされたエルの寂しそうな背中に息を詰まらせる。それから過程や結果はどうであれ自分を助けようとしてくれた人になんてことを、とすぐさま悔いるとまだ微かに痛む身体に鞭打って無理やり立ち上がった。そしてまだ混乱気味の頭に手を当てると、必死に冷静になれと言い聞かせた。
――自分が見てきたエーデルガルトという女性は、ただの殺人鬼じゃない。時に揶揄いながらも真剣に、そして遊びや茶化しを交えながらも歴代の勇者の話を語って聞かせる傍ら、自分を鍛えてくれた人じゃないかと何度も何度も反復する。それどころか時間を見つけては複雑な文字の読み書きや計算に魔法の仕組みを教えてくれたことだってあっただろうと、血でべったりと濡れた前髪を掻き毟る。続けて少々強引かつ荒療治ではあったものの魔物との戦い方や奪った命を無駄にしない方法、他者の命を明日に繋げる意味、勇者としての役目を終えたあとの人生等々、村でただヤギやヒツジを追い掛けているだけじゃ考えすらしなかった思考や世界を教えてくれたのは他の誰でもないエルだろうと、歯を食いしばった。そしてふらつきながらも歩を進めると、エルの背中に向かって手を伸ばした。そんなものは全部、ほんの一時の迷い――エルのように表現するならば『若さ故の動揺』であり、本心ではないのだと伝えようと、必死に悲鳴を上げる身体で彼女を追い掛けようとした。
「――違う。違うんだ。師匠、おれ…!」
「うん、大丈夫。分かってるから。」
エルは振り返らずに相槌を打つと、その言葉の続きを口にする。
「――――化け物なのは、自分がいちばんよく分かってるから。」
「――――――――!!」
エルのその言葉に、彼は今はきっと何を言っても通じないことを悟るとその場に膝をついた。そしてそれが自分の態度のせいであることに心底腹が立つと、ぎりりと奥歯を噛み締めた。エルはやはり彼の方を振り返りもしなければそれ以上言葉をかけることもなく、ただ逃げるようにその場を後にすると宿屋の扉を開けた。そして誰もいないロビーを通り過ぎ、やけに静かな階段を登り、そうしてすっかり屋根も壁も吹き飛ばしてしまった左手の突き当たりの203号室に足を踏み入れるとちっとも雨風を凌げないことなんて少しも気にせずに、否、気にする余裕がないほどに気落ちした様子でベッドに腰掛けた。それから血だらけのドレスを着替えようとするも、なんだかそれさえも酷く面倒なうえに馬鹿らしく感じるとそのままレンガの乗ったベッドの上に寝転んだ。そして満天の星空を眺めながら、一睡もせずに彼の帰りを待った。
――けれど、案の定というべきか。あるいは当然と言うべきか。夜が深まり、そして明けて、新しい日の朝を迎えても、彼は帰って来なかった。エルは「本当に失敗したなあ…。」と無表情で呟いてから、気持ちが良いほどに快晴の空を見上げた。続けて身動ぎする度にドレスからパラパラと落ちてくる乾いた血に嘲笑すると朝の澄んだ空気の中にぽつり、おそらくは愛馬と共に居るであろう彼に向けて、決して届かない言葉を放った。
「…………わたしが馬小屋に行くべきだったな。」
エルはそう告げると繊維の1本1本にまで血の染み込んだドレスの袖で目元を覆いながら、唇をきゅっと結んだ。




