47_とある女と彼の話(後編)
気が触れているとしか思えない女性と別れてからというものの、彼の気は重かった。例えるならば鉛で出来た鉄球を腹に食らったかのように呼吸は苦しかったし、心臓は怒り狂ったヤギに頭突きをされた時くらい痛かった。けれど、彼はどうしてこんなにも心身共に痛いのかよく分からなかった。後悔しているのか、全くもって見当もつかなかった。誰がどう見ても真実ではない事柄を指摘出来なかったことを恥じているのか、もしくはそんな状態の若い女性から逃げるように再び王都の門をくぐったことを後悔しているのか、あるいは親切心や正義感では決して救えない『何か』があるとまざまざと教えられてしまったことに対する無力感なのか、少しも分からなかった。
――足取りは重く、気分は深く沈む。人で賑わう大通りを駆け抜けていく、春を告げるほんのりとあたたかく軽やかな風が頬を撫でても、彼の気持ちは少しも晴れなかった。台風が訪れる前の、強い雨風に晒されているかのようだった。そんな気持ちをどうにか切り替えたくて、吹き飛ばしたくて、彼はわざと何事もなかったかのように振る舞う世界――実際、世界にとってはなんてことのない事象なのだと知らしめるように人で賑わう大通りの真ん中で立ち尽くした。左右から聞こえてくる威勢の良い客引きの声に、大通りを抜けた先の広場にある噴水の水音。吟遊詩人の歌声に、それを背にお喋りに興じる人々の取り留めのない雑音。どれもが昨日までと同じで、そして明日も変わることのないであろう日常だった。今まで自分がのうのうと生きてきた、世界だった。それがなんだか無性に虚しくて、腹正しくて、けれど怒りのぶつけ先なんて少しも分からなくて。どうすれば良いか分からない彼は、ただ時折頭をガシガシと掻いては宛もなく人混みに紛れた。
けれど、飛び込んだ雑踏さえも意味もなく居心地が悪くて。彼は足早にそそくさと大通りを抜けると、厳冬期を超えて水が再び通された噴水の縁に腰掛けた。夏は避暑になると人気らしいその場所は、幾らあたたかくなってきたとはいえまだまだ寒さの残るこの季節では他に人の姿はなかった。王都に初めて足を踏み入れた際、噴水前を陣取っては声高らかに歌っていた吟遊詩人でさえも避けていた。彼は街中だというのに、ここだけが世界から取り残されたような場所で大きく息を着いてから視線を足元へと下げる。残雪と、泥とが付着した自身のブーツを眺めながらやるせない気持ちに浸る。
「……勇者様!」
――不意に、声を掛けられた。それはよく知っている声だった。彼はその声にほんの少しだけ視線を上げる。すると自身のブーツの先に、ぺたんこのパンプスが映った。それさ彼の気持ちは無関係に晴れ渡る空と同じ色をした、鮮やかな水色のパンプスだった。大きなレースがあしらわれたほんの少しだけ大人びているくせにどこか可愛らしさの残るそれの足首に巻かれているリボンは、やっぱりカレの感情とは無関係に澄んだ海の色をしていた。
彼はゆっくりと視線を上げる。すると、そこには右手にリンゴやらセロリやらといった生鮮食品をいっぱいに詰め込んだバスケットを下げた、仕立て屋の妖精――買い物帰りのホープがいた。彼女は偶然見掛けた彼に声を掛けると、いつもの通りに庇護欲を掻き立てられる無垢な笑みを浮かべた。……が、普段ならば同じように歳相応の少年らしい笑顔で返してくれる筈の彼の反応が鈍いこと、耳元で輝く魔法石のピアスの光がほんの少し鈍いことに目敏く気がつくと、敢えて何も言わずに彼の手を取った。そして「良ければ、寄っていきませんか?」と優しく声を掛けると、彼が何か言葉を発する前に彼女にしては強引にその手を引いた。彼はその背中にエルとはまた違う頼もしさ――まさに彼の師匠に欠けている、些細な感情の機敏を敏感に読み取る力に無性に頼りたくなってしまうと、静かに無言で頷いた。そして手を引かれるままに、彼女の店に向かって歩き出した。
――――――――
何日か振りかに訪れたホープの店の扉をくぐった瞬間、いつものように小人たちが物陰からひょっこりと顔を覗かせては客を歓迎する言葉を口々に吐こうとした。ホープは先にそれを「ごめんね。ちょっとだけ静かにしてて貰える?」と素早く、そしてゆるりと牽制した。すると案の定、我の強い小人たちは頬を膨らませると不満を口にしようとする――が、どうにも普段と様子の違う彼に気が付くや否や、各々自然と口元に手を当てては空気を読んで押し黙った。代わりに気落ちしている彼に「大変だ、大変だ!」と囁き合うと、どうにかして励ましてやろうと奔走し始めた。
ある者は戸棚を開けて、秘蔵のシロップを取り出した。またある者は、本棚の奥で熟成させておいた高級なチーズを引っ張り出した。そしてまたある者はそれを盛りつける皿とチーズを切り分けるナイフとフォークとを小脇に抱えると、エッホエッホと走り出した。彼らは紅茶を淹れようとキッチンに立つホープを尻目に見事なチームワークであっという間に彼をもてなす準備を整えると、各々手に食器やチーズ、シロップをしっかりと握り締めてからテーブルの脚元の近くに設置された小さなトランポリンに飛び乗った。小人たちは何度か軽くぴょんぴょんと跳ねて勢いをつけてから、トランポリンへぐっと思い切り体重を押し付ける。すると狙い通り大きくジャンプすると共に、美しい関数の形を描きながらテーブルの上に着地した。小人たちは尻もちをついたり、あるいはテーブルの上に置かれたままの読みかけの本の角に激突したりしながらも全員がテーブル上に乗ったのを互いに確認すると、間髪入れずに彼の前に皿を置いた。そして高級なチーズをどんと丸々一個載せると、秘蔵のシロップをまるまるひと瓶分かけた。皿から溢れんばかりの特製シロップに小人たちはじゅるりと口から唾液を垂らしながらも「美味しいよ。食べて食べて!」「食べて元気だそう?」と彼の手にナイフとフォークを押し付け、握らせた。
彼は普段とはあまりにも異なる、なんとも気が利くもとい対応に困る対応に戸惑うも、紅茶を運んできたホープの「どうぞ食べてやってくださいな。」という優しい声と微笑みに絆されると、手にしていたナイフとフォークでチーズを切り分ける。そしてシロップに絡めてから口に運んだ。
「………美味い。」
彼は思わず、ぽつりとそう漏らした。するとその言葉を聞いた小人たちはそれぞれ嬉しそうに破顔しつつ、ハイタッチをしたり腕を組んだりした後に誰からともなく踊り出した。そうして「ほらほら、やっぱりね!しんどい時、落ち込んだ時、つらい時は美味しいものなのさ!」と、普段の通りに騒ぎ出した。ホープはあっという間にいつも通りの賑やかさを取り戻してしまった小人たちを叱ろうとするも、彼は首を左右に振ると「いいんだ。」と言って彼女を窘めた。それからご機嫌でダンスに励む小人たちに「ありがとな。」と告げると、チーズをもうひと口食べた。雑味や塩味が少なく、舌触りの滑らかなチーズとほのかに花の匂いの香る甘いシロップの食べ合わせは、まるでスイーツを食べているかのようだった。優しい味だった。そしてそれを流し込む無糖の紅茶もまた、優しい味がして。彼はわけも分からないまま緊張しては凝り固まっていた心が解れていくのを感じると、軽く目を閉じてこの心地よい温度に浸った。
そうしてシロップのかかったチーズと紅茶を口にする音だけが、暫し続いた。10分か15分くらいだろうか。皿の上のチーズが半分減って、紅茶はカップの底3分の1ほどが残っていた。彼は徐にフォークとナイフとを置くと、重い口を開いた。そしてつい先程あったこと――平原を丸腰で歩く若い女性がいたこと、恐らく彼女は気が触れていること、そんな彼女に自分は何もしてやれなかったことを、洗いざらい告白した。
語る言葉はぐちゃぐちゃで、少しも整頓されていなかった。けれど逆に、それが彼がいかに心を痛めているかを如実に伝えているものだから、ホープは敢えて指摘しなかった。その代わりに小さく頷きながら話を聞いた。否定も肯定もせずに、ただただ小さく頷きながら――そうして時折相槌を打ちながら、静かに彼の話を聞いた。少年が初めて遭遇した、どうしようもない理不尽さとそれを対する想いを受け止めた。
「――勇者様は、お優しいですね。」
彼が言葉を切った後、訪れた沈黙をホープの声が破った。その声と言葉と微笑みをもって、彼女はその誰かの代わりに彼を許した。けれどそう言われた側である彼は、女性にも再三言われたその言葉にどうにも納得がいかなくて。だからつい反射的に「でも…。」と、半ば寝ぐずりにも近いような言葉を口にしようとした。それをホープはすかさず、ゆるく首を振って否定する。反論の余地も与えないほどに確固たる意志を持った瞳と共に彼を封殺する。ぴりりとした、なんとも言えない空気が場を支配する。
小人たちはテーブルの隅から、あるいは作業台の上から、はたまた本棚の上から一体どうなってしまうのかとヒヤヒヤしながら彼と店主とのやり取りを見つめる。根っからの能天気で気楽な生き物である彼らにしては珍しく、心臓をバクバクとさせた。
「大丈夫ですよ。今はまだ、少し、混乱しているだけですから。」
ホープはそう言って微笑む。子の成長を喜ぶ母親のように。あるいは弟の成長を喜ぶ姉のように。それでいて、恋人の優しさを誇るかのように、目を細めた。綺麗な群青色の瞳を細めて、弧を描いた。口元には僅かな微笑みを浮かべつつ、テーブルの上で固く握られた彼の拳に彼女の小さく柔らかな手を、そうっと重ねた。そうしてまだ若い少年が初めてぶつかった自分の力だけではどうしようもない現実と、どうすれば良かったのかと未だに悩み続ける彼に、彼女なりの答え――同じ年長者でありながらも人の気持ちにはどうにも鈍感なエルとは異なる、本来繊細でか弱い存在である妖精のくせに。なのに『希望』の名を持つものらしくどうにも希望に満ち溢れた答えを、あくまでも押し付けがましくなく。あくまでもそうっとそうっと、まるでシルクの布の中に羽毛と綿花とを混ぜ込んでからアップルミントの香水をひと吹きして、最後に丁寧に丁寧にリボンを結んでメッセージカードを添えた上で、さもプレゼントするかのように彼に差し出した。
「あなたは今、自分が差し出した極めて純粋な優しさが、時に刃にもなりうることを知っただけです。そしてその刃がたまたま、自分の胸に刺さっただけ。
――痛いですよね。苦しいですよね。でも、大丈夫。だいじょうぶですよ。なんにも、心配は要りませんから。」
ホープはそう告げると優しく微笑む。春に咲く花のように、柔く笑う。そうして固く結ばれた拳の隙間に繊細な指先を差し込むと、春のぬくもりが氷を溶かすように。その固く凝り固まった指の1本1本を優しく解いていく。けれど尚も拳を握ろうとするその掌に困ったように眉を下げると代わりにテーブルの上の小さなカゴの中でこちらを見ていた、口に放り込むだけであっという間に溶けてしまうキャラメルをそうっと握らせた。
かさり、包装紙の音がして。次いでぐにゃりと、固体のような液体のような感覚が指から脳に伝わると、彼はじいっとテーブルの上を見つめていた視線を、自身の手のひらの中へと向けた。それから、不意に差し出されたキャラメルにわけも分からずに顔を上げると向かいに座るホープを見た。ホープはようやく絡んだ視線に上まつ毛と下まつげをキスさせると、子供のようにくしゃりと微笑んだ。そして身長不足を補おうと腰を浮かせると、背筋と腕とを精一杯に伸ばして少しくすんだ茶髪混じりの金の髪をくちゃくちゃになるまで撫で回した。そうやって撫で回す度に指の間を抜けていく柔らかな髪の感触の心地良さに頬を緩ませながら、エルがいつも彼に言う言葉――なのにまるで異なる本質を含んだ言葉を、やはりエルとはとても違う表情と共に放った。
「大丈夫ですよ。あなたは、まだ、若いだけですから。」
「――――――――。」
ホープはそう言って微笑むと、言葉を続ける。まるで母親のような優しい目で、年の離れた弟の成長を喜ぶ姉のような顔で、宛ら恋人のような態度で、彼を包み込む。
「若いからこそ、自分の無力さが許せないんですよね?苦しいんですよね?つらいんですよね?でも、大丈夫。だいじょうぶですからね。それはなんにも不思議なことでも、誰かに責められることでもありません。そして自分で自分を責めることでも、ありません。
ただ、『こういうこと』もあるんだなあって口いっぱいに頬張って、必死に噛み砕いて、やっとの思いで飲み込むのに必要な、大切な罪の意識です。――でも、無罪ですからね。安心してくださいね。」
「……でも、おれ、どうしていいか分からなかったよ。」
「いいんです、それで。だって、正解なんてものはないんですから。」
ホープはそう告げると正解がないと聞いて驚く彼の手に、もうひとつキャラメルを握らせる。そして本来悪戯好きな妖精らしい、なんとも無邪気でそのくせ計算された無垢さを孕んだ笑みを浮かべると、彼の手の中のキャラメルごとその小さな手で包み込んだ。
「世の中には、正解がない問題ばかりです。わたしたちはいつもその中から『今』、正解だと思うものを選んでいるに過ぎません。つまりは、10年後20年後――時間が経てば経つほどに、本当にその選択が正しかったかどうかを、後の世の人に問われます。そして笑われます。貶されます。『ばかだなあ』って。『何考えてたんだよ、当時の人』って。」
「……………………。」
「でもね、変わらないことだってあるんです。どれだけ時間が経って、どんな捻くれ者の歴史学者さんがあなたの選択を研究したとしても。決して罵れない、変わらないことだってあるんです。なんだか分かりますか?」
「…………分からない。分かるわけないじゃん、そんなの――。」
「ふふ。そうですよね。ちょっと難しかったですよね、ごめんなさい。」
「………………なんでホープが謝るんだよ……。」
「うーん、なんとなく…ですかね?」
ホープは反抗期らしい素っ気ない彼の言葉に笑う。笑ってから、小さなてのひらの更に小さな指の腹で、彼の手の甲を撫でる。
擽るように、そうっと。慈しむように、優しく。次いで悩める若者の背中を励ますように、とんとん、と。撫でて、軽く叩いて、それからもう一度ぎゅうと力いっぱい、けれど優しく握り締めると、彼の碧眼を真っ直ぐに見つめながら口を開いた。
「それはですね。たとえ、適切な行為や言葉じゃなかったとしても。不完全で、覚束無いものだったとしても。――誰かのために真心を差し出した上で、それが本当に正しかったのか悩むことが出来る『優しさ』と『勇気』ですよ。」
ホープは続ける。エルとはまた違った立場から歴代の勇者を見つめてきた者として、今の勇者である彼と向き合う。恐れることなく真っ直ぐにその碧眼を見つめながら、どんな姿かたちをしていようと決してぶれることのない彼の魂そのものに問い掛ける。
「――あなたは。たった1度の失敗や躓きで、他人に手を差し伸べることをやめてしまう人ですか?」
「…………。」
彼はその問いかけに息を飲む。呼吸を、一瞬止める。そして、考える。もし仮に、またあの女性に出会うことがあったとして。その時自分はどうするだろう、どうしたいだろうと、必死に考える。――答えは、悩むまでもなく直ぐに出た。
ホープは彼の瞳に明確な意志が宿ったことを悟るともう1度目をすうっと細めてから、実に妖精らしい意地悪な問いかけをひとつ、投げかけた。
「自分にはどうにもならないと知りながらも、『誰か』のために手を差し伸べてしまう。足掻いてまう。助けてしまう。……あなたは、そういう人ですよね?」
意地悪なくせに、エルのそれとは違って少しも意地悪ではない質問に、彼はようやく口元に笑みを浮かべる。そしてちっとも意地悪ではないホープの質問に、エル譲りのとんでもなく意地悪で皮肉が効いた言葉を返した。
「――――あぁ、そうだな…。」
彼は思う。ホープの言葉を聞いても尚、あれで良かったのかと悩むことに変わりはないだろう。ほんの一瞬でも、気が触れている人間だと心のどこかで軽蔑して、差別して、逃げるように背を向けたことを、許せる日なんて来ないだろう。胸に刺さった刃が抜ける日なんて、もしかしたら来ないかもしれない。
――でも、それでも、きっと次にあの女性に出会うことがあるならば、きっと自分は血反吐を吐きながらも今日みたいに手を差し伸べるのだろう。それこそ、いつかの自分が何もかもを諦めていたホープに手を差し伸べて、彼女のヒーローになったように、何度でも何度でも勝手に自分で自分を傷付けて。それでも、何度だって救おうとするのだろう。だってそれが自分という人間で、自分の考える『勇者』なのだからと彼は思うと、まだぎこちないものの二カリと笑った。そして、ホープに笑いかけた。
「じゃなきゃホープ、今頃ここにはいないだろ?」
「――はい、そうです。大正解です。」
ホープはそう言った彼に心底嬉しそうな表情を浮かべると、まるで巣立っていく子供の背中を見送る母親のように、ほんの少しの名残惜しさを覚えながらゆっくりと彼の手を包み込んでいた両手を離した。そしてそのまま手持ち無沙汰になった手でティーポットを手に取ると、彼のカップに熱い紅茶を注いだ。彼は混ざり合っていく古い冷めた紅茶と新しい熱い紅茶を見つめながら、エルとはまた違った方法で生きるための術を教えてくれるホープの頭へと手を伸ばす。名目上は子供扱いしたお返しとして、けれど実際は感謝を照れくささで割った感情に基づいて、その髪がぐしゃぐしゃになるまで撫でた。それから、少し不器用で不格好だっただけで、自分はなんにも間違ってはいなかったことを我ながら誇らしげに感じると、彼は今日いちばんの明朗な笑い声を響かせながらすっかり乱れた頭のホープを笑った。




