04_21代目の勇者の話(後編)
21代目の勇者だった彼は、とても臆病な青年だった。エーデルガルトという不死の存在と魔王、そして自身が次の勇者であることに酷く動揺すると、大の大人だというのにその場から一目散に逃げ出してしまうくらいには、臆病な青年だった。エルはまあ無理もないかと呟くと視線を右斜め上へ逸らす。次いで、村の人々に聞いた彼の情報を頭の中で反復し始めた。
――子供の頃に、流行病で両親と妹を亡くしたこと。
――身を寄せた孤児院が、盗賊に襲撃されたこと。
――命からがら逃げ出した先、魔物に殺されかけたこと。
「……うん、無理もないな。」
エルは再度そう呟くと、寧ろそんなトラウマ――明らかに人間が一度に抱えていいトラウマの数を超えている彼に勇者になれだなんて言う方が酷だよなあ、とひとり笑った。それから、「いつも肝心な時に間に合わないなあ、わたしは。」とぽつりと呟いた。
とはいえ、魔王を放っておくことは出来ない。魔王の呪いを宿した身では、エルは魔王に指一本触れることさも出来ないのだから。
「……全く、何が呪いだ。」
エルは空を仰ぐ。死ねない上に術者である魔王に歯向かうことの出来ない呪いだなんて、こっちが不利なだけの一方的な契約じゃないかと足元の小石を蹴飛ばした。それから彼の逃げ出していった先――どこに行ったかなんて知りもしないが、村人に聞くまでもないとエルはゆっくりと歩き出す。
臆病な人間の縋り付く先なんて、誰よりも臆病なエルには、手に取るように理解出来るからだった。
――――――――
「……そんなに怖いかい?」
「………………!!」
村の外れ、少し寂れた女神像の前。エルの読み通り、彼はそこにいた。錆び付いた女神像の前で膝を折って、必死に祈っていた。エルはまたしても逃げ出そうとする彼の首根っこを捕まえると、「何もしないってば。」と口にした。そして青年の予想に反して、その言葉通り説得の言葉なんてものは口にせず、彼の隣でただただ黙って女神像を見つめた。
「わたしもね、怖いよ。」
エルは懐から使い古した布を取り出すと、そうっと女神像に触れる。エルは軽く拭いただけで錆でべったりと汚れた布に顔を顰めた。青年は暫し無言のまま、エルを見つめる。それから、目を大きく見開いた後に、震える声で彼女に尋ねた。
「……死ななくても、怖いんですか。」
「逆だよ。死ねないから、怖いんだ。」
エルは懐からもう1枚、古びた布を取り出すと彼に手渡す。青年はそれを受け取ると、それまでは錆び付いていることは知っていたものの、どこか触れることすらおこがましいと感じていた女神像へとおそるおそる手を伸ばすと、見よう見まねで拭いてみた。軽く拭きあげるだけでべっとりと汚れた布を見つめる彼に、エルは続ける。
「いいことも、悪いことも、死んだら忘れられる。でも、わたしは死ねない。だからいいことも悪いことも、全部ひとりで抱えたままだ。」
「……分かち合おうとは、しないんですか?」
「分かち合ったところで、キミたちはすぐ死ぬ。余計に胸が苦しくなるだけだ。」
「……………………なら、」
「でもさ。」
なら、放っておいてくれと。そう言いかけた青年の言葉を遮って、エルは続けた。
「どういうわけか、分かち合いたくなっちゃうんだよねえ。」
「――――――――は?」
エルは呆然とする青年をちらりと見遣ると、少しだけ微笑んだ。
「キミたちと関わると、嬉しいことも楽しいこともたくさんある。でも、最後に残るのは、いつだって深い悲しみと苦しみと、大いな後悔だ。」
軽く拭きあげただけでも随分と綺麗になった女神像に、エルはポーチの中からお供えもの――予想とちょっと違った、少し苦すぎたチョコレートを供えた。青年はそれを黙って見守る。否、見守るだなんて言葉はただの建て前で、本当はどうすればいいのかも、どうするべきなのかも、彼女にどんな言葉をかけるべきなのかも、なにひとつとして分からなかったから、沈黙するしかなかっただけだ。それから、先程の自分の言葉が如何に失言だったかを思い出して、消えてしまいたいと思っていたからだった。
「でもね。それでも関わりたくなっちゃうんだなあ。わたし、キミたちのことが好きだからさ。」
「……人は、あなたのことを魔女だと、化け物だと言って恐れるのに…ですか?」
「まあ、それに関しては本当のことだしね。」
エルは最後に女神像に手を合わせてから、かつての信仰の証と彼とに背を向ける。「だからさ。逃げたままでも、いいんじゃない?逃げるのを選ぶのもまた、勇気だよ。…ちょっと評価はされにくいかもしれないけど。」エルはそうつけ加えると、ひらひらと手を振ってからその場を後にする。青年は本当に最後まで説得しなかったエルの後ろ姿を呆然と見送りながら、その言葉の意味を噛み締めた。
――逃げたままでも、いい。
――逃げるのを選ぶのもまた、勇気。
それは、今まで誰からも向けられたことのない言葉だった。流行病で両親と妹が死んだ時も、引き取られた孤児院が盗賊に襲われた時も、命からがら逃げ出したところを魔物に殺されそうになった時も――皆、「何故お前だけ」と言って、彼を責めた。責めて責めて、責めた。その度に彼は涙した。「自分だって、生き残りたくて生き残ったわけじゃない」と、涙を零した。
――本当は、そう叫びたかった。でも、周囲がそれを許さなかった。だから我慢した。自分は弱い奴だと、臆病な奴だと、先回りして口にするようになった。
――でも、それって、本当に自分が望んだことだったろうか?青年は遠くなっていくエルの背中を見つめる。……答えは、考えなくたって分かっていた。分かっていたのに分からない振りをして、自分を誤魔化していただけだった。守る振りをして、自傷していただけだった。――そのことを今、しっかりと自覚した青年は、遠ざかる小さな背中に向けて声を上げた。
「――あなたは!あなたは、僕と一緒に、逃げてくれるんですか?!」
その声に、エルは足を止める。それから、ゆっくりと振り返ると、微笑みを浮かべながら答えた。
「もちろん。……キミがそう望むならね。」
「なら、一緒に逃げてください。その代わり、僕にもあなたの逃げたい気持ちを、恐怖を、分かち合わせてください!!」
「――――ああ、ああ。もちろんだとも。」
エルが一歩、青年へ向けて歩みを進める。今通ってきたばかりの道を、進んでいく。
青年が一歩、エルに向けて歩みを進める。ついさっき、彼女から逃げるために選んだ道を、進んでいく。
――女神像から少し離れた、かつて道だった野で、ふたりが初めて向き合った。エルは青年を見上げると、もう一度優しく微笑んでから手を差し出した。
「それじゃあ、改めてはじめまして。キミはわたしを知らないかもしれないけれど、わたしはキミを知っているよ。……ずっとずっと、前からね。」
青年は差し出された手を固く握ると、ただただ無言で頷く。エルの口にした、たったこれだけの短い挨拶の中に自分以上の感情――春のような喜びも、夏のようなきらめきも、秋のような切なさも、冬のような物悲しさも――少女がひとりで抱えるには些か重すぎる荷物を、自然と悟ったからだった。
続けて、青年は想像する。この手のひらは、今まで何人と握手を交わしてきたのだろうと。そして、何人見送ってきたのだろうと。その度に死ねない彼女は、何を見て何を思ってきたのだろう。自分のように逃げ出したくなったことだってあったろうに、それでも、彼女は生ける神話として目の前に立っている。こんな臆病で恐がりな自分の手を引いて、一緒に逃げてくれると言った。そう心に決めるまでに、どれほどの葛藤があっただろうかと想像する。想像して、想像して――ついぽろりと涙が零れた。
「……よしよし。大丈夫…大丈夫だからね。」
エルは涙を流した彼の頭を、子供をあやすように優しく撫でる。その手はあたたかいのに冷たかった。彼女が化け物である証左だった。なのに彼女は彼がずっと誰かに言って欲しかった言葉をシルクの布で何重にも包んで、そうっと手渡してくれたものだから、彼の目からは涙が次々と溢れては止まらない。エルはそんな彼に「今度の弟子は泣き虫だなあ。」と嬉しそうに呟くと、先ほど女神像に供えたのとは別のチョコレート――とにかく甘くって優しい味がする彼女の最近のお気に入りのそれを、そうっと手に握らせた。




