36_彼と姫君とエーデルガルトの話(中編)
彼に洗濯して貰った服を風の魔法を用いて超特急で乾かし、何食わぬ顔で袖を通した上で中庭のトネリコの木を伝って城の自室へと帰ってきたエルを待ち受けていたのは、姫君直々の説教と彼が宿泊している宿屋の請求書だった。エルは「不当な請求だ…。」と項垂れてから、不満気な色を乗せた瞳で姫君を睨みつける。次いでそれを「ゴーレム退治でチャラにしてよ。」と突っ返した。
が、姫君はいつかエルとの会話に用いた白い鳩を肩に乗せながら、王族然とした上品で優雅な笑みを浮かべると、緩く巻かれた鮮やかな金の髪の毛先を靡かせながら、肩の鳩を手のひらに乗せると耳のあたりを指先でこちょこちょと擽るように撫でるだけだった。執務室の机の上、突っ返された請求書になど目もくれずに、彼女は鳥のくせに人間らしい声を漏らしながら目を細めては丸くなって眠る体勢を整え始めた鳩の頭をゆったりと撫でながら再度にっこりと笑う。そして手の上で鳩が爆睡してしまう前にと、遠目に見ればおおきな雪玉にも見えるそれを膝の上に下ろしてからもう一度、突っ返された請求書をエルの前へ置いた。そしてひとこと、エルがいつもそうしているように頬杖をついて目を細めると、言った。
「あれだけ安静にしていろと言いつけたにも関わらず、人の目を盗んでは無断で城を抜け出すような人相手に、私が遠慮するとお思いですか?」
「…………性格悪いぞ…。」
「『魔法使いは性格が悪くてナンボだ』と教えてくれたのは先生でしょう?」
姫君はそう言って微笑むと請求書に書かれた桁数――庶民が利用する宿屋の優に数倍はする値段を左手の人差し指でとん、とん、と強調するように叩く。エルは払えないことないどころか余裕で払える金額ではあるものの、今後の旅での不慮の事故や滞在、物品費に充てる予定だった予算もとい私財が圧迫されること確実な金額をじろりと睨み付けると、一旦請求書から目を離した。次いでふう、と大きなため息をつくと、今度は真っ直ぐに生徒の顔を見つめる。その目は「どうにか値切ろう」と告げているものだから、姫君はエーデルガルトという人間がある種扱いやすい人物であることに静かにひとり微笑んでから、彼女があの手この手を尽くして値切ろうとしている前に先手を打った。
執務室の机の引き出しを開けて、取り出したるは一通の封筒。王家の紋章で封を閉じられた真っ白な封筒を姫君はエルの前、請求書の隣に置くとあまりの心地良さに口を開けて眠っているペット兼相棒兼使い魔の鳩のくちばしの中に、ランプ草の種から抽出したペレットを1粒、放り込んでやった。姫君は眠りながらむしゃむしゃと音を立てながらも咀嚼を始めたその頭を撫でながら「そちらに出席していただけるのならば、費用は全額王家持ちで構いませんよ。」と値切るどころか寧ろ全額王家が負担するという、とんでもなく破格の取り引きを持ちかけた。エルはその言葉にいっそう険しい顔をした後に、そうっと指先で封筒をつまみ上げる。そしてシーリングを外すと中の文書に目を通し始めてものの5秒で「じゃあ全額払うよ。」と言った。姫君は想定内の返答をしてくれたエルに静かに微笑んでから、ダメ押しとばかりにもう1枚の請求書を取り出すと自身が書いた請求書の上にそれを重ねた。エルはまだ何かあるのかとげんなりした顔で便箋から机の上の新たな請求書へと目を向ける。そして内容を視認するなり、心底ゲンナリとした表情を浮かべると両手と共に白旗を上げた。
「……それくらいサービスにしといてよ…。」
「残念ながら、これはお父様からの請求ですので。」
「その性格の悪さ、誰に似たんだ…。」
エルは苦々しい顔で2枚の請求書と封筒の中の便箋とを睨みつける。そして昔はあんなに素直で可愛らしい子だったのに、とわざとらしくしくしく泣いてからペンを手に取ると、便箋の中から出てきた招待状――約1ヶ月後に控える、姫君の誕生パーティーの出席の是非を問うそれに、たいそうがっくりと肩を落としながら『出席』の欄に丸を付けると投げつけるように目の前のその人改め、気が付けばいい性格に育ってしまった彼女へと手渡した。姫君は何食わぬ顔でそれを受け取ると「是非勇者様とご出席くださいね。」といけしゃあしゃあとパーティーにおけるパートナーまで指定した。エルは「最悪の気分だ…。」と呟いてから、2枚の請求書――1枚は姫君直筆の宿屋の請求書と、国王直筆の請求書――優秀な魔法使い兼研究社である姫が城を開けたことへの損害の請求だなんていうなんとも馬鹿げた、もとい言う通りすぎてぐうの音も出ないそれらの請求書をビリビリに破ると乱暴に席を立った。
「ああ、そうそう。私の誕生パーティーでは当然ダンスもありますから、おふたりでよく練習しておいてくださいね。インストラクターには、もう話を通してありますから。」
「――――――本当、いい性格してる。」
姫君は一瞬にして紙屑だらけになってしまった執務室にやれやれと肩を竦めてから、明らかに怒っている様子で部屋を出ようとするエルの背中に向かってトドメのひとこと、改めパーティーには外せない必須事項について声を掛ける。その真剣な声色と反対に、口元はニヤついていた。エルは肩越しに俯き気味の姫君…無論、ニヤついて止まらない顔を隠すためにわざと俯いている彼女をちらりと一瞥してから、そう吐き捨てるとバタンと大きな音を立てながら執務室を後にした。ただ扉を開けて閉めただけにも関わらず、空中に広がる魔力の波紋に姫君の膝でうとうととしていた鳩は何事かと目を覚ますとキョロキョロとあたりを見回す。姫君はそれを「なんでもないですよ、」と優しく宥めてから、エルほどの魔法使いがなんてことのない日常の動作で無意識に魔力を零してしまうだなんて、一体どれほど動揺したのだろうかと想像しては、今度は誰もいないのを良いことに知っでひとり、顔全体を遠慮なくニヤニヤと綻ばせた。
――――――――――
「なんでおれまで…。」
「仕方がないだろう、姫君直々のご指名だ。」
急に荷物を纏めて宿屋から引き上げるよう、伝令に来た兵士に驚いたのも束の間。あれよあれよという間に気が付けば城のゲストルームに叩き込まれ、愛馬は豪華な厩舎に連れて行かれ。全身をくまなく採寸されたかと思えば、次いでダンスの練習をすることになったと悪びれた様子のひとつもなく告げる彼が正気を取り戻し、漸く文句のひとつを言えるようになったのは滞在場所を城に移して4日目のことだった。
若い女性のインストラクターに指示されながら練習する慣れない社交ダンスに、これなら外で魔物と戦っている方が余程マシだとため息をつくこと本日7回目。肩で息をしつつ、緊張やら全く覚えられない焦りやらで全身汗だくの彼を気遣って休憩時間を設けてくれたインストラクターに頭を下げてから、彼は彼の気も知らないで自分はのんびりとスムージーを片手に練習風景を鑑賞しているエルの隣にどかりと座り込むと、実に9回目となる文句を口にした。それから、腹いせ代わりにエルが飲んでいるスムージーを奪うとあっという間に飲み干した後に、すっかり空になったカップを突っ返した。「わたしのスムージー…。」と呟いてからしくしくと泣き真似を始めたエルを横目に、彼はもう一度文句を口にした。
「というか、師匠が倒れたのが悪いよね?」
「それは結果論と言うんだよ、我が弟子。」
全く懲りていない、もとい少しも悪いと思っていない口振りに今度は彼が泣きたい気持ちになった。いくら勇者様と呼ばれ厚い待遇を受けようとも、本質的にはド田舎出身の牧童でしかないのだ。故にそんな自分が良い宿屋に泊まらせて貰ったり、城のゲストルームへの滞在を許されたり、はたまた王族貴族が参加する姫君の誕生パーティーに出席することになるなんて、あまりにも場違いなのだ。何かの間違いであって欲しいのだ。だというのに、エルは空になったカップを椅子の下に置くと「でも実際のところ、なにかしらの難癖を付けられて出席させられてたとは思うけどね。」と身も蓋もないことを言ってみせるものだから、彼はこの怒りだとか頼むからただの牧童にあれこれ期待しないでくれだとか、エルのことを考えた時とはまた少し違う胸の内のモヤモヤで頭がいっぱいになるのだ。
「まあまあ、いいじゃないか。1曲だけ踊って、あとはご馳走を腹いっぱい食べることに専念すればいい。」
「誰かに――って、じゃあさ。可愛い女の子なんかに『勇者様ですか?もし良かったら…。』なんて言ってダンスに誘われたら、その時はどうするのさ。」
「良いんじゃない?その時は思い切り足でも踏んでやれ。逆に初々しくて可愛いって、婿にとって貰えるかもしれないぞ。」
「……………………はぁ…………。」
彼はエルの言葉に頭を抱える。別に、嫉妬して欲しかったわけじゃない。ただ、「何言ってるのさ」でも「期待してるの?」でも、とにかくなんでもいいから、馬鹿みたいな反応が欲しかっただけだった。なのに相変わらず彼女はそれを肯定するし、この旅が終わったあとの話――「貴族に婿入りってのも、まあ、悪くはないんじゃない?」と弟子の意志をまるっと無視した言葉を続けては、相変わらず彼が密かに発しているサインをわざと見落としては笑う。だからこそ彼は色々と、もうどうすればいいのか少しも分からない現状にガシガシと頭を搔いては何度も何度もため息をついた。
「……嫌だよ、貴族なんて。」
「なんで?案外似合うと思うけど。」
「おれは牧童だよ。」
タオルで汗を拭いながら、彼はぽつりと呟く。どうすればいいのかなんて少しも分からないことに変わりはなかったけれど、ようやっと繋がった手と手を離すような真似だけはと、彼はただただ強く思った。それに何より、長らく世間から迫害されてきたこの人が「居心地がいいね」と言ってくれた生まれ故郷の村が、単純に好きだった。人の数よりも羊やらヤギやらの数の方が多い村だし、王都の人々のような最先端の暮らしではない。寧ろ昔ながらの暮らしのままの、貧しい部類の村かもしれない。でも、それでも、両親に幼なじみに、見知った顔の知り合いに。綺麗な色の太陽と絵画の中のような幻想的な雰囲気の泉と、牧童としての自分と。それから、「この村のものはどれも美味しいね」と言って目を細めて笑う彼女が居るあの故郷の村が、自分の帰る場所であることは違いなかった。
――要するに、彼は便利かもしれないけれど緑の少ない王都より不便でも緑があって、ものの例えではなく本当に道草をしているヤギが居る村が、好きだった。そのヤギが道端に粗相をして、早く片付けてよね、なんて幼なじみに怒られるのを笑いながらエルが見ている日常が、好きだった。今すぐに帰りたいと願ってしまうくらいには、愛していた。だからこそ、何を馬鹿なことを言っているんだと笑い飛ばして欲しかった。嫉妬して欲しい、なんてワガママは言わないから、せめて小馬鹿にして欲しかった。でもその願いは、いつも届かない。そうっと道端に落としたサインは、気付かれない振りをされてしまう。
「まあ、たしかに。キミは牧童の方が似合ってるよ。」
「……………………でしょ?」
――なのに、こっちが期待するのをやめたその瞬間に、不意に望んでいた言葉を小さくちぎった一欠片をぽいと投げ込まれてしまうから、どうにも期待することがやめられない。止まらない。だから1日でも早く、その隣に並べるくらいの男になりたいと思ってしまう。同じ方向を、肩を並べながら見てみたいと強く願ってしまう。身分不相応な願いかもしれないと分かっていながら、どうにも足掻いて努力してしまう。
彼はもう一度額の汗を拭ってから立ち上がる。呼吸を整える。それから「頑張れよ、」と他人事の振りをする師匠の手を取ると、無理やり引き上げて立たせる。なんだよと良いたげな、じとりとした朝焼けの色をした目を真っ直ぐに見つめながら、彼は朝の海のような澄んだ青い瞳をすうっと細める。
「いや、思い切り足でも踏んでやろうかと思ってさ。」
「……言っとくけど、わたしは踊れるからね?35代目のキミに、骨の髄まで叩き込まれたからな。」
「なら、何がなんでも意地でも踏まなきゃ。」
「婿には取らないからね。」
エルは言葉こそ少ないものの一緒に練習しようと言いたげな弟子に付き合うことに決めると、重い腰を上げる。そうして、やれやれと肩を竦めて笑う反面、数百年ぶりとなる社交ダンスに果たしてまだ本当に踊れるのだろうかと若干の不安を抱えながらブーツの音を響かせる。「これ、本番はヒールなんだよね?」と彼にダメ元で問い掛けてみれば、「知らないけどそうじゃない?」となんとも彼らしい言葉が帰って来た。
ヒールなんてもう随分履いていないし、ダンスよりもヒールのある靴で歩く練習でもした方がいいかもしれないな、なんてことを考えながら、エルは彼の肩へ手を伸ばす。そうっと手を置いた瞬間に自身の背中に回された手のひらは大きくて、あたたかくて、なんだか急に擽ったくなったものだから、エルは思わずくすりと笑ってしまう。
「――そういえばさ。」
「ん?」
「……いいや、やっばりなんでもない。」
旅芸人の踊るようなダンスは昔、キミと踊ったことがあるけれど。社交ダンスは初めてだなと口にしようとしたところで、エルは何千年も生きていてまだ『初めて』が残っていることに驚くと思わず口を噤んだ。それから首を傾げる彼にくすくすと笑うと、ゆるゆると首を振ってからなんでもないと告げる。次いで「いいかい?ここは――。」と、何百年か振りのくせにしっかりと覚えている自分に感心しながら、かつての姫君に教えて貰った最初のステップの踏み出し方――自分もかなり苦労した思い出があり、そして今彼が相当苦労している――を、そのまま言われた通りに彼に伝授する。
――最初の1歩がいつまでも下手くそでインストラクターを困らせるのはわたしもキミも一緒だな、と。エルは少しだけ心の底から笑うと、口の中で呟いた。




