35_彼と姫君とエーデルガルトの話(前編)
気がつけば季節は秋を過ぎ、晩秋と初冬の間を行き来しているような不安定な頃合になっていた。約2週間ぶりに部屋での缶詰もとい医師や王宮魔法使いたちの診察を終えたエルは、まだ不必要に出歩くなという姫君の忠告を丸ごと無視して中庭のトネリコの木をよじ登ると、塀を超えて王城を脱出した。そしてちらちらと雪のチラつく王都の街へと足を踏み入れると、真っ先に彼の滞在している宿屋へと向かった。
彼が泊まっているのは、王都でもいちばん大きな宿屋だった。それでいて要人や大商人が滞在するような、大きな上に豪華な宿屋だった。「悪いね、わたしの弟子なのに血税で贅沢させて貰えるなんてさ。」「いいえ、お構いなく。請求書はそちらに回しておきますから。」「…………性格悪っ…。」「あなたの生徒ですから。」そんな会話を思い出しながら、エルはまずは併設されている馬宿を覗き込んだ。世話人がこちらに背を向けて他の馬の世話をしているのを良いことに、エルは入り口のすぐそばの馬房で草を食んでいた彼の愛馬に気が付くと「やあ、久しぶりだな。」とそうっと囁き声で呼び掛けた。それから何食わぬ顔で堂々と馬宿に足を踏み入れると、さも宿泊客のひとりですよ、と言わんばかりの顔で彼の愛馬を撫でる。ポンポンと優しく頬のあたりを撫でてやると、彼の愛馬は聞き慣れた声でヒヒンと嘶いた。
「お前にも迷惑掛けたね。」
エルがそう告げると、彼の愛馬は首を傾げた。それからブルルンと鼻を鳴らすと、エルに鼻水とも唾液ともつかない液体を飛ばす。まるで全くだ、ともそんなことないよ、とも取れるその態度にエルは苦笑すると「こら、何するんだ、」と口元を緩めた。彼の愛馬は珍しく人間らしい反応を示したエルに喜ぶと、わざと胸のあたりに鼻を押し付けるとねぱりとした鼻水を擦り付ける。エルは「お前なあ…。」と苦笑しつつも仕方がないやつだと笑うと、知らぬ間に捨てられてしまった濃い色の旅装束――泥や血が跳ねても目立たなくて気に入っていたそれの代わりに、姫君から手渡された王家の紋章が入った白いドレス――もちろん、「あなたには反省が必要ですから。」との厳しいお言葉と共に代金はしっかりと取られた――を汚してしまった言い訳を考えなくちゃいけないだろう、と鼻水を拭っておいて素知らぬ振りをする愛馬の耳を引っ張った。
「ほら、お食べ。城の台所からくすねてきた高級野菜だぞ。」
エルはそう言って、背中のボストンバッグからやれ人参だのキャベツだのトマトだのの切れ端を入れた紙袋を取り出す。しかしいくら水気を切ってきたとはいえ、紙袋をベチャベチャにするほどの汁気を放つ野菜にエルは微妙な顔をすると、ボストンバッグの中を心配そうに見遣った。案の定中までしっとりと湿気っている現状にエルは暫し黙り込んだ後、気を取り直してかつて紙袋だったびちょびちょの袋を破ると手のひらに乗せた。城の台所からこっそり持ち出したそれらは野菜クズといえども、普段口にしているものよりかはずうっと高級な部類だろう。お詫びというわけではないけれど、とエルが野菜クズを差し出すと、彼の愛馬はなんだなんだと言いたげな顔をしてからエルの手のひらに乗せられた野菜クズの匂いを嗅いでからぱくりと口にした。が、モグモグと何度か口を動かしたあとにお気に召さなかったのかペッと足元に吐き出すと、口直しのつもりなのかエルの髪を食んだ。
「…………………………。」
エルは服のみならず髪の毛までぐちゃぐちゃにされると暫し沈黙する。それから「こら。お前、そんな悪い子だったか?」とため息をついた。彼の愛馬はそんなエルをちらりと見遣った後、ヒヒンと嘶くと前脚で地面をダンダンと叩いて暴れた。違うと言いたげな愛馬にエルは何がそんなに気に食わないんだとぶつくさ文句を垂れながらしゃがみ込むと、床に吐き出された野菜クズへ手を伸ばす。仕方がない、隣の馬房の馬にでもやろうかと考えながら人参の皮を拾おうとした指先が、見慣れた手の甲――約3週間ぶりになる、よく日に焼けたまだまだ成長途中の少年の手に、触れた。
エルが何かを言うよりも先に、その手はエルの指先に重なった。そしてごく自然に彼女の手のひらを絡めると、無言で引き上げた。エルは愛馬の前で立ち尽くすとそんな手の主、もとい彼を見つめては目をぱちくりと瞬かせる。エルはほんの3週間見ていなかった間に少し伸びた身長に、まあ成長期だし…と口の中で呟いた。
「高級な野菜よりも新鮮な野菜、だもんな?」
そう言って笑う弟子の笑顔は、3週間前と何ら変わらなかった。エルはそのことに安心すると共に、不意に姫君から告げられた言葉……彼が泣いていたという情報を、思い出した。それから倒れる自分を馬車の荷台に載せ、ひとりで歩く王都への道のりはさぞ心細かったろうと、彼の心情を想像する。と同時に、いくら一本道とはいえ王都へ迷いなく進むことが出来た客観性だとか、魔力を探知して現場に駆けつけてくれた姫君とその兵士にきちんと現状を説明出来た冷静さだとか、そういうものをひとり勝手に評価しては自分の教育というものは間違ってはいなかったのだなと自画自賛すると、ほんの少しだけ胸を張った。
彼は「そうだ、高級な野菜より新鮮な野菜を寄越せ」と主人の言葉に頷いては暴れる愛馬を窘めつつ、胸を張るエルに気が付くとこの人は何をやっているんだ、と呆れながら笑った。それから相変わらずこの人は宥めるのを手伝ってくれないなと目を細めると、本当に言いたい言葉や聞きたいこと――「どうして無茶をしたのか」や「自分がどれだけ心配したか」を飲み込んで、当たり障りのない言葉を投げかけた。
「……元気そうで良かった。」
「キミもね。」
自分が長らく昏睡状態だったことなんてなんとも思っていない口ぶりに、彼はそうっと空いている左手を握り締めた。そうでもしないと、エルのことを責めてしまいそうだった。責めて、怒って、また泣いて。その結果エルに「面倒なやつだな」と冷たく鼻で笑われて、「ひとりで旅すれば?」と嫌われるのが、どうしようもなく怖かった。もちろん彼はエルが自分事には鈍感な性格故に、そんなことを言うこともなければ自分を冷たくあしらったり、鼻で笑ったりするような人でないことは充分に理解していた。でも、それでも、嫌な想像ばかりしてしまうのが人間というもので。都合の良い妄想に頬を緩ませ、なんの保証もない未来を思い描くこともあれば、どこまでも最悪を突き詰める妄想に勝手に怯えて、勝手に震えて、勝手に本音を閉じ込めることもある。特にまだ若い上に青く、それでいて他者の『死』――それも種類は一旦置いておくとしても、どうであれ慕っている相手の喪失というものを強く意識してしまった彼は、特に後者の傾向が強かった。
だから、彼はエルを責められない。代わりに偶然覗いた馬房にエルが居るのを目にしてしまった途端、強烈に確かめたくなった。彼女という人間が生きてこそいなくとも、確かにここに存在することをただただ確かめたくなってしまった。だからなけなしの勇気を振り絞って手を握った。普段と変わらない顔で、笑った。当たり障りのない言葉で、胸の奥に渦巻くドロドロとした感情に蓋をした。彼女に向き合えない自分の弱さを、見なかったことにした。触れなかったことにした。
「どうしたの、それ。」
「こいつにやられた。」
彼は代わりに、もうひとつだけ当たり障りのない言葉を吐く。見慣れない服に身を包むエルとその胸元をべったりと濡らしている様と、ベチャベチャな髪とを指差す。一部始終を知っているにも関わらず、敢えて問い掛ける。するとエルは眉を顰めながら愛馬の頬のあたりを憎らしげにポンポンと叩いて、「まったく。どう言い訳しろっていうんだ…。」と悲壮感の滲んだ言葉を吐くものだから、彼は漸くああ、いつもの彼女だと安心する。久しぶりの日常だと、不意に目の奥が熱くなるのを感じた。それから繋いだ手に軽く力を込めると、目を細めて言った。
「洗濯しますよ、おれ。」
「そっか。替えの服は荷物の中だもんな。」
エルは名案だと明るい声を響かせる。が、すぐに「いや、でも勝手に前の服に着替えたら絶対勘づかれるな。しかもこいつに髪も食われたから、風呂にも入らなきゃいけないし…。」と根本的な解決にはなっていないことに気がつくと頭を抱えた。彼は理由は分からないもののどうやら困っているらしいエルの姿がなんだかおかしくて、けれどなんだか急に「ああ、師匠はここにいる」と感じると、どうしようもないくらいにほっとした。それから泣いたような笑ったような、自分でもよく分からない感覚に襲われるとパッと手を離した。代わりに額に手を遣り、相変わらずだと困る振りをしながら、そうっと目元を抑える。バレないようにゆっくりと呼吸をして、王都を包み込むほのかに冷たい空気の中に生ぬるい吐息を混じらせた。
そんな彼を尻目に、エルは手を繋がれていたことも、それを急に離されたことも、どちらも同じくらい気に留めていなかった。それどころか彼の愛馬に向かって「お前のせいで生徒に怒られる。」と言葉の割には表情ひとつ変えずにブーブーと文句を口にしているのだから、なんだか彼は心配していたことさえも馬鹿らしく思えてきてしまって、足元に転がったままの野菜クズをそうっとブーツの先でつつくと馬宿の端に追いやった。掃除係が気が付けば万々歳、そうでなければ住居の屋根裏に住むネズミが持っていくだろう、と目星をつけて。出来ればこのどうしようも無い気持ちごとネズミに持って行って喰らい尽くして欲しいなと願ってしまうのは彼自身、まだエーデルガルトという人物との向き合い方に少し迷っているからだった。
「悪かったね。」
エルが不意に、そう呟く。――いつもそうだ、と彼は思う。触れてみたい、近付いてみたい、知りたいと思うくせにいざ触れて、近付いて、知ろうとした途端に、自分の無力さがひょこりと顔を覗かせる。怖くなる。つい保身に走ってしまう。そしてそれを見越したかのように、エルはいつも何も言わない。必要なことも、不必要なことも、曖昧な笑みと少しだけ乱暴な口調の中に押し込んで、何重にも閉じ込めて、最後にくしゃりと潰してなかったことにしてしまう。それは酷く安心すると同時に、どうしようもなく寂しかった。けれどその寂しさを口にしていいのかと迷っているうちに、いつも彼女は背を向けてしまう。見なかったことにしてしまう。この世界の端っこに追いやってしまう。ガラクタだと言って笑う。酸っぱいレモンだと言って投げてしまう。
――そのくせ、時折不意に投げ捨てたはずのそれを「捨ててないよ」と言って袖口から覗かせてみては、子供のように笑うのだ。さもしてやったり、と言わんばかりに得意げな顔をするのだ。
「何が?」
「迷惑。掛けただろう?」
「……迷惑というか、心配だった。」
ほら、こんな風にと彼は心の中で呟く。こっちを一切見ずに、ただ口に出しただけの謝罪の中に込められた、1ミリも読めない心理と彼女をそうさせた歴史に、また惹かれる。焦がれる。そうして彼は尚更エーデルガルトという人が、余計に分からなくなる。いっそうのこと、もっと冷酷で残酷な魔女だったら。もしくは人を誑かす悪女だったら、いっそうのこと知りたくないと願うことだって出来たはずなのに。
――なのに、彼の知るエーデルガルトという人は、投げたフリをしたレモンを袖口から取り出して得意げな顔をした後に、決まって寂しそうに眉を下げる。遠くを見つめる。ドーナツの中央、ぽっかりと空いた穴越しにしか見えない世界と、誰かを見ている。だからどうしても、何回でも触れたいと思ってしまう。近付きたいと願ってしまう。知りたいと祈ってしまう。その度にどうしようもないくらいに胸が締め付けられる。生まれて初めて知ったはずの感覚なのに、やけに既視感のある痺れるような痛みが心臓を走って指先が震える。手が冷える。彼女と揃いの、冷たい手になる。そのくせ、精一杯の勇気を振り絞って告げた本音は、ほんの少しも届かない。
「でも、それでも足を止めなかった。――偉いぞ。」
漸くこちらを向いたエルが、彼に笑いかける。赤く燃える夕焼けの反対、青く澄んだ朝焼けの色をした瞳が三日月のようにすうっと細められる。その瞳は相変わらず何処か遠くの誰かを見ていたけれど、それでも、物理的には彼が映っていた。「そうじゃない」と言いたげな顔がひとつ、映っていた。けれどそれを口に出す勇気のないその顔はとんでもなく情けなくて、自分でも笑ってしまうくらいに酷くて。だから彼は酸っぱいだけのレモンを齧ったような顔をしてから、頷いた。いつかその手の中のレモンを半分に切り分けて、分け合って。同じそれを同時に齧って、酸っぱいと言って笑い合える日が来ることを願いながら今はただ、勇気の出ない自分とそれを知ろうともしない彼女の愚鈍さに甘んじた。
エルの冷たい手のひらが、彼の頭を撫でる。始めはポンポンと。次いでゆったりと前後に動かされる手のひらと誇らしげな表情に、彼はもっと強くなろうと思った。その背中を追い掛けるんじゃなくて、隣に並べるくらいに強くなって。そうしたらその時こそ、何も感じない振りをしながら血を流している彼女のその心に触れて、近付いて、知りたいと堂々と口にしよう。それが出来たらきっと、頭の中を占めてはなかなか出ていかない感情の名前も見つかるに違いない。
「……でもさ。ほぼ連続でフルパワーを使ってたったの10日間の昏睡状態で済むなんて、お得だと思わないかい?」
「いや、全然。」
「嘘でもいいからうんって言ってよ、我が弟子。そしてやたらと怒っている姫様を説得してよ。」
「無理。」
「それでもわたしの弟子か、キミは。」
同意を求めてきたエルに、彼はもう一度ため息をつく。――これはなんてことのない馬鹿に見せかけた、自分を大切に出来ない欠落だと。そのことだけははっきりと理解した彼は、敢えて冷たくエルを突き放した。突き放した上で、降って来た雪に気が付くと代わりにその小さな肩を抱いて「ほら、いいから風呂入って着替えて。その服、洗うから。」と努めていつもの調子で口にした。その様子を馬宿の窓から覗いていた足輪を着けた真っ白なハトは、エルが促されるままに歩き出したのを確認してから軽快に飛び立つ。
その羽音は雪の降り始めた王都の空に溶けて、混じりあって、ただのひとつも残らなかった。




