21_姫君と、エーデルガルトの話(前編)
母親譲りの知性と父親譲りの好奇心とを携えて生まれてきた姫君は、瞬く間にエルの知識や教えを吸収しては自分のものにしていった。それは宛ら砂漠に水を遣るかのような吸収ぶりだった。相変わらずエルのことを見つめる他の王族や貴族、神官たちの目は厳しかったが、ふと普段から気にしていなかったそれが余計に気にならないくらいになっていることに気がついたエルは、少しだけ笑う。それから、たとえ何千年生きても人間というものは変われるものなのだなと、ぽつりと漏らした。姫君は聴き逃した彼女の言葉に「なんですか?」と首を傾げる。エルはなんでもないよと口にしてから、気が付けばすっかり子供から大人の女性になっていた姫君を見つめた。
エルは母親譲りの美しさと父親譲りの芯の強さとが見て取れる、愛らしくもどこか度胸さえ感じるその顔を暫しじいっと眺める。姫君はすっかり大人になったにも関わらず、初めて顔を合わせた時のようなキラキラとした笑顔で「さあ先生、今日はなんの話をします?」と告げるとエルの言葉を待った。エルは考える素振りをしながらだまってその顔を見つめると、ティーカップに注がれた紅茶に砂糖もミルクも入れずに口を付けた。
「――なら、今日は花の話をしようか。今の季節は、花が見頃だからね。」
季節の花々が咲き誇る中庭の東屋、テーブルの上はエルが好きだと言った茶菓子と軽食とお茶とで埋め尽くされていた。全て姫君が選んだ、エルに向けてのものだった。いわば尊敬と愛を込めた、アフタヌーンティーだった。エルは無糖の紅茶で喉を潤した後、敢えてテーブルマナーを無視して中段のスコーンに手を伸ばした。
エルはスコーンを割ると、片方にフレッシュミルクのクリームをたっぷり乗せてからかぶりつく。そこそこの大きさのそれをたった三口で食べ尽くすと、今度は残り半分のスコーンにバターと木苺のジャムをたっぷりとかけて口にした。エルは唇の端から垂れたジャムを親指で拭うと、ぺろりと舐める。姫君はその豪快な食べっぷりをニコニコと見つめながら、ふたりだけの暗黙の了解――『食事は好きなように食べた方が、べらぼうに楽しいし美味い』というエルの教えに従って、上段のピスタチオのマカロンに手を伸ばした。そしてエルを真似て、マカロンをまるごと口の中に放り込む。そしてマカロンのさくりとした食感と中のクリームのぬちゃりとした甘さとを、咀嚼に合わせて味わう。マナーもへったくれもない、今はとっくに隠居した祖父がこんなところを見たら、きっと口から泡を吹いて倒れてしまうかも、なんて笑いながら口を動かす。エルはその様子に「いいね、いい感じに野蛮だ。」とすっかり慣れてしまった彼女なりのジョークを挟むと、ふたつめスコーンに手を伸ばしながら口を開いた。
「ランプ草って、知ってるかい?」
「いいえ。初めて耳にしました。」
「だろうね。何しろ絶滅寸前だ。」
エルはそう告げると、ふたつめのスコーンを割る。今度はクリームチーズをこれまたたっぷりとスコーンの上に乗せると、大口を開けた。「昔はね、そこら辺に腐るほど生えてたんだよ。でも、使い道がないからって引っこ抜かれたり燃やされたりしているうちに、すっかり見かけなくなってしまった。」と、もちゃりもちゃりと咀嚼音を響かせながら口にする。「それは、どれくらい前の話ですか?」角砂糖をふたつと、ミルクを1杯。紅茶に混ぜ込みながら、姫君が問う。エルは一旦咀嚼を止めつつも、手にはブルーベリーのジャムを持ちながら視線を右上に向けた。それから空っぽの左手で指折り数える。が、途中で虫を払うかのように手を開いては空中で軽く振ると、「やめた。」と口にした。
「ごめん、わかんない。でも、少なくともわたしが子供の頃には、既にバカナス扱いされてたよ。」
「……ということは、毒があったのですか?それとも繁殖力が強いのでしょうか。」
姫君はバカナス――別名、ワルナスビとも呼ばれている、なんの役にも立たない食物を思い浮かべる。抜いても刈ってもどこからか生えてくるくせに食べられもしないそれに、農民は密かに苦労しているという。姫君は知識に基づく考察を口にしつつ、ハムとレタスとチーズとを挟んだサンドウィッチに手を伸ばすと齧り付いた。マカロンで甘くなった口の中を刺激する程よい塩気が心地よくて、姫君はあっという間にひとつ平らげてしまう。エルはそれを横目で見つつ首を横に振ると、ブルーベリーのジャムを乗せたスコーンの上に更にクリームチーズを乗せて思い切りかぶりついた。
「いいや、毒はないよ。繁殖力は、普通。」
「では、何故ですか?」
案の定と言うべきか、皿の上にぼとりとブルーベリーとクリームチーズを落としたエルに、姫君は「欲張るからですよ。」と口にしてはくすくすと笑う。エルは「欲張ってこその人生だ。」と恥ずかしげもなく告げると、皿を傾けてスコーンにそれらを擦り付け乗せた。なんともまあ、行儀の悪いエルに姫君はまたしてもくすくすと笑う。けれど「確かに、そうかもしれませんね?」と答えると、エルを見習ってスコーンをひとつ手に取った。そしてふたつに割ると、フレッシュミルクのクリームの上にチョコレートを乗せた。エルは「それでこそわたしの生徒だ。」と目を細めてから、欲張りの権化のようなスコーンを口の中に押し込んだ。
「ランプ草はね。夜や、暗い場所でぼんやり光る。ただそれだけの植物なんだ。それ以外には何もない。使い道はゼロだ。……だから、あっという間に人間に駆逐された。」
「……どんな花なのですか?」
「…………気になるかい?」
エルは頬杖をつくと、にやにやとした顔で姫君を見る。姫君はその表情に苦笑しながらも頷く。エルは思った通りの姫君の反応に満足そうに頷いたのち、わざとらしく眉を下げるとため息をついた。わざわざ人差し指と中指と薬指とを眉間に当て、あちゃあと言わんばかりのオーバーな所作をするエルに、姫君はこれは突っ込むべきか、それともそうっとしておくべきかと思考を巡らせる。前者のようにも思えるけれど図鑑にだって載っていない花なのだ、本当に後者の可能性――エルが覚えていないだとか、数少ない現存する地域からも消えてしまっている可能性だとかも、充分に考えられた。
姫君は少しばかり険しい顔をすると、目の前のアフタヌーンティーのセットを厳しい目で見つめる。エルは指と指の隙間からちらりと難しい顔をする姫君を見遣ると、静かににやにやと笑ってから足元に置いていた袋――随分と年季が入っているのは、どうせすぐ汚れるし買い換えるのが面倒だからだと言っていた――を持ち上げると、爪の先についたブルーベリーの色素など少しも気にしていない様子で手を突っ込んだ。それから「じゃじゃーん!」と口にしながら得意げな顔改めしたり顔と共に、袋の中から小さな植木鉢を取り出した。
小さな植木鉢の中央には、チューリップにも似た細長い葉がふたつあった。その中央から伸びている茎の先には、ふっくらと膨らんだ丸い蕾がついていた。まるでびいどろを逆さにしたような植物は、確かにどの図鑑にも載っていない姿かたちをしていた。姫君は目を輝かせると、「先生、これってもしかして…!?」と身を乗り出す。エルは相変わらずのしたり顔の中に微笑みを滲ませると、「そ。これがランプ草だ。」と両手で頬杖をついた。
「これ、いつ咲くんですか?!水はどれくらい必要なのですか?…あ、種!種はどんな形なんですか!?適した気候は!?!」
「はいはい、少し落ち着きなって。」
エルは苦笑しながらカップの中のストレートティーを傾ける。姫君はエルのその様子――熟練した賢者らしい佇まいと口振りに、とうに年頃だというのに子供のようにはしゃいでしまった恥ずかしさから頬を赤らめた。姫君は込み上げてくる羞恥心や興奮を収めようと、ティーカップを傾ける。けれど口にした紅茶はその心のうちのように熱かったうえに、平静を装いながら慌てて口にしたものだから、ろくに飲めなかった。舌先に乗った甘さと熱だけが、目の前のそれが現実であると教えてくれていた。
「あ、あの、先生。触ってみてもいいですか?」
「ああ、もちろんだ。好きにしたまえ。何しろこいつはキミのものだからな。」
「………………へ……?」
エルがまるで近くの川に水を汲みに行ってくるだとか、はたまた家畜に餌をやってくる程度の軽い口調でそう言ったものだから、姫君は一瞬彼女が何を言っているか分からなかった。分からなかったから、間抜けな声を出した。それから相変わらずにやにやとしているエルが、表情はそのままサンドウィッチ片手に「ん。」と言いながら自身の方へ植木鉢を押したものだから、余計に訳が分からなかった。姫君は困惑と、期待とを込めた目をエルと植木鉢とに交互に向ける。するとエルはたまごがたっぷり入ったたまごサンドを両手に持ちながら微笑んだ。
「わたしね、ランプ草が好きなんだ。夜の平原にぼやぁとした灯りが幾つも灯っている光景が、好きなんだ。だから何の役にも立たないかもしれないランプ草だけど、いつかまた、いつでもどこでも見られるようになればいいなあって、そんなことを思ってる。」
――それは、酷く遠回しな言葉だった。そしてなんともエルらしい、告白と期待でもあった。
姫君はランプ草と、分厚いたまごサンドを頬張るエルとを交互に見遣る。それからもう一度、カップを傾けた。カップを傾けると、熱いままの紅茶がじんわりと旨に広がった。その熱は知識欲であると共に、たったひとり世界から取り残されたこの人の望みをひとつくらい叶えてあげたっていいじゃないか、なんて些か傲慢にも思える欲でもあった。姫君はカップを置くと、両手で植木鉢をしっかりと持つ。そうしてまだ蕾のランプ草を優しい眼差しで見つめると、言った。
「約束します。たとえ何年かかったとしても、いつか絶対に。この国中を、先生の好きな花で埋めつくします。」
「なんの役にも立たないけどね。」
「なら、私が――王家が、価値を見出してみせます。」
姫君の言葉に、エルは少しばかり微笑む。それから「まあ、期待はしないでおくよ。ほどほどにね。」と口にすると、チョコレートのマカロンを口の中に放り込んだ。姫君はただただ薄い笑みと優しい眼差しとで答えると、すっかり空っぽになっているエルのティーカップに、熱い紅茶を注いだ。




