12_30代目の勇者の話(後編)
「今日も熱心だね?」
ぱちぱち、じゅわじゅわ。時折気が触れたような音を立てながらも基本は静かに燃える焚き火を前に、寝る前のいつもの習慣――幼い頃からごく自然に、そうするものだと刷り込まれた女神様へのお祈りを欠かさない彼女に、エルはそう声を掛けた。両手を胸の前で組み、祈りを捧げていた彼女は、その声に閉じていた瞼をそうっと開ける。それから、焚き火の向こう側で微笑むエルに微笑み返した。
「シスターですから。」
「そうか。シスターだもんな。」
当たり前といえば当たり前の事実を改めて口にされると、エルはくしゃりと顔を歪めて笑った。それから、つい今しがた言われたばかりの言葉を反復すると、伸びをひとつしながら少しばかり意地悪な質問を投げ掛けた。
「でも、女神様はもう居ないよ。魔王との戦いで死んだ人間の痛みや無念を引き受けるために、人間になった。それが今の王家のルーツで、代々生まれる姫君だ。」
「はい、知っていますよ。……でも、それでも祈るんです。意味なんてなくても、祈りたいんです。」
彼女はエルの淡々とした物言いに苦笑すると、首元のロザリオを手に取り見つめた。――エルの言うことは、本当だった。神話の時代、魔王との戦いは苛烈を極めた。何年も何年も、女神とその配下たる軍は魔王と戦った。その過程で多くの戦士が死んだ。戦士のみならず、魔法使いも神官も民間人も、老いも若いも男も女も――大勢の人間が死んだ。そしてそのことを嘆いた女神は、女神であることを辞めた。女神としての生命をこの大地に注ぎ、自身は無力な人間として生まれ変わることで、失われた命の痛み、苦しみ、無念を引き受けることを決めた。それがこの国に伝わる神話のエンディングにして、王家のルーツだった。
全く無責任な神様だと、エルはこの話を聞く度に呆れる。そんな高尚な言葉で言い訳しないで、素直に「私では魔王を封印するのが精一杯でした。あとは人間がなんとかしてください。一応、私も人間に生まれ変わりますので…。」と言えばいいのにと、いつも思っていた。素直にそう言えば許してやるのに…とも思っていた。そして旅の最中、その話をする度にこうしてむくれるエルに、彼女はいつもくすくすと笑った。
「何笑ってるの。」
「いえ。まるで、拗ねた子供のようでしたので。可愛らしいなあ、と…ふふ。そんなことを、思ってしまいました。」
「悪い子だ。…わたしはキミの師匠だぞ?」
「はい。そうですね。私は弟子です。……けれど、その前にシスターでもあります。」
彼女は胸から下げているネックレスのロザリオを、固く握りしめる。それから軽く目を瞑ると、今度は女神ではなく目の前の少女――時代に取り残された、たったひとりの時代の生き証人のために、祈りを捧げた。
エルはその様子を黙って見つめる。けれどぱち、と。少し湿気っていたのか、拾ってきた木の枝が大きく音を立てて静寂を打ち破った瞬間を見計らって、声を上げた。
「――祈りなんて、意味は無いよ。」
「ええ。そうかもしれません。」
エルのその言葉を、彼女は否定しない。代わりに肯定もしない。何故ならば彼女は、自分はエルの抱える痛みを理解出来る人間では無いと知っていたからだった。彼女のみならず、この世界の誰もが彼女の抱える傷を、痛みを、理解出来ない。きっと理解しようとすれば、それこそ気が触れてしまうことを、分かっていた。
「でも。それでも、祈りたいのです。あなたはいつも、迷子の子供のような顔をしていますから――どうか少しでも早く、あなたにとっての明かりのついた家とあたたかなミルクのスープが見つかりますようにと、祈りたいのです。」
「……祈るだけじゃなくて、現実にして貰えると助かるんだけど。」
「ふふ。ええ、はい。もちろんです。私はあなたの弟子でもありますから。」
そう言って彼女は笑う。柔らかな微笑みは修道女らしく嫋やかで、まだ年若い乙女だというのに母親のようにも思えて。エルは嫌味のひとつも口にする気が失せると、代わりに立ち上がって彼女の正面から隣へと席を移した。そして小さな肩にこてんと頭を乗せると、軽く目を閉じた。
「……実を言うと。私も、不安なんです。」
肩に乗った小さな重みに微笑みながら、彼女が口を開く。
「女神様に仕える身でありながら、勇者として魔物とはいえ他者の命を奪っていることは、果たして許されるのか。こんな私が、女神様の教えを口にする資格はあるのか。いつも、不安なんです。だから、祈るんです。」
「…………何を、祈ってるの?許されますように、って?」
「いいえ。」
彼女は緩く首を左右に振ると、エルの顔に掛かっているその銀とも紫ともつかぬ色の髪を、優しく避けてやる。それからエルにもたれかかられている側の反対側、右側に置いた荷物の中からブランケットを取り出すと彼女の師にして迷子の子供の肩に、そうっと掛けてやった。ブランケットの隙間から零れ落ちたクッキーのカスには、見ないふりをしながら。
「どうか、許されぬ身だとしても――私を弟子と言って愛して下さるこの方だけは、救わせて下さいと。私が生きている間だけでも、目の前のこの方を救わせてくださいと。私が、この方の明かりのついた家とあたたかいミルクのスープになれますように、と。……そんなことを、祈っています。」
「………………ふうん、」
エルは少々真っ直ぐすぎる彼女の言葉に、珍しく照れた。女神に仕える乙女らしく、それでいて芯の強さを感じる曇りのない言葉に、少しばかり目頭が熱くなるのを感じた。けれどそれを知られるのはなんだか酷く恥ずかしくて、エルは咄嗟に彼女悟られないようにとわざと素っ気ない言葉を返す。けれど修道女として多くの人々の悩みに触れ、導いていた彼女は、その場しのぎの薄っぺらい無関心をすぐさま見抜くとくすくすと笑った。「恥ずかしいですか?それとも、嬉しいですか?擽ったいですか?」目を細めて、エルを揶揄うように尋ねるその最中も、彼女はただただ優しい。エルは「キミみたいな人間、いちばん嫌いだよ。何考えてるか分からないし、厄介だし。」と口にするも、旅の最中とは思えないくらいにふかふかのブランケットと柔らかな焚き火の光と音と、触れ合った箇所からほんのり伝わる彼女の心地よい体温とに瞼が重くなってくるのを感じた。
逆らえない安心感と重力に、身体が沈んでいく。気がつけば初めは肩に置いていた頭は、知らぬ間に彼女の胸元にあった。柔らかなそこからは布越しに、彼女が生きている音が伝わってくる。どくん、どくん。確かに刻まれている鼓動に、エルは遂に目を閉じた。
「……いいよ。」
エルは、自身の頭を撫でる繊細な手つきの手のひらと指先を感じながら、徐にそんなことを口にする。彼女は一体何の話だろうと首を傾げる。その拍子に止まった手に、エルは「こら、手を止めるんじゃない。」と口にした。彼女はそんなエルに思わず声を上げて笑ってから、「はい。すみません、師匠。」と口にすると、再度エルの頭を撫で始めた。エルは再び訪れた心地よい感触に浸ると、その言葉の続きを呟く。
「――女神様が許してくれなくてもさ。わたしが、許してあげるよ。だから、安心するといい。……キミは、立派なシスターだ。」
「………………はい。ありがとうございます、師匠。」
エルの言葉に、彼女は目を見開いた。それから、その言葉に込められた感情――同情でもなければ哀れみでもない。ただただ純粋な、誰かを想う気持ち――人が『愛』と呼ぶ感情が込められているその言葉に目を細めると、噛み締めるように礼の言葉を口にした。それから夜空を見上げると、故郷に想いを馳せた。
一人娘だからと、最後まで旅に出ることに反対していた父親。泣きながらも見送ってくれた、町の子供たち。今まで病院の手伝いをしてくれていたお礼だと、たくさんの薬と路銀とを渡してくれた町医者。いつも親切にしてくれていたから、と町いちばんの農夫は食料をたっぷりと持たせてくれた。…ああ、そういえば。仲の良い雑貨屋の彼は、最後まで何か言いたそうだった。帰ったら、ちゃんと話を聞いてあげないと――。彼女はそんなことを考えながら、夜空の星と月とを見上げる。
「……私、勇者で良かったです。」
彼女はぽつり、そんな言葉を漏らした。…この平和を、大切な人たちを守ることが出来るのが、他の誰でもない自分で良かったと。心からの言葉を、無意識に唇から零した。
――言葉は、夜の静けさと焚き火の合唱のなかに、チョコレートのように溶けて消えていった。




