11_30代目の勇者の話(前編)
出立前夜。少年は不安やら興奮やらで、ちっとも眠れなかった。それも当然だろう。今まで少年にとって世界とは生まれ育った村と、村に隣接する森の入口にある泉だけだった。そこから先は魔物が出るから行ってはいけないと、物心着く前から厳しく言い聞かせられていた。無論、好奇心がなかったわけではないが、いつも年相応の無鉄砲さが頭をもたげ始めるタイミングで風の噂――どこどこの村の誰が魔物に襲われただとか、牛が殺されただとか、そういった話が耳に入ってきた。だから少年も少年の幼馴染も、きちんと言いつけを守った。
村の外には出ない。夜、家を出る時はひとりで行動しない。けれど出立前夜のこの日だけは、なんとなく寝付けなくて。不安と興奮と少し早いホームシックで、全く眠気が来てくれなくて。だから少年はこっそり寝床を抜け出した。抜け出して、いつも少年が世話をしていた畑と馬小屋とを見に行った。どちらも異常のない――きっと明日から自分が居なくなっても何にも変わらないのであろう、その 平穏さに少し安心して。それから、また、寂しくなって。でも、眠気が訪れる様子はちっともなくて。仕方なしに少年は心を落ち着かせようと、愛馬とよく訪れている泉に向かうことにした。
静かで、穏やかで、それでいて空気の綺麗な泉は、昔から少年の遊び場だった。地下から湧き出る綺麗な水で水遊びをするのも、愛馬を洗ってやるのも、どちらも同じくらい好きだった。けれど夜に泉を訪れたことのなかった彼は、初めて目にする夜の泉の姿――夜空の月が水面に反射し、風に静かに揺れる様に一瞬で視線を奪われると、思わず呼吸を忘れた。それくらいに、夜の泉は綺麗だった。どうして今まで夜に寝床を抜け出さなかったのかと後悔するくらいには、綺麗だった。
「……おや。悪い子発見、だね?」
「―――――エル…。」
「エルじゃなくて師匠だ、我が弟子。」
息を飲み、視線を奪われている少年に、森の奥から出てきたエルが声を掛けた。少年はまさかこの時間に出歩いている人間が自分以外に居ると思っていなかったから、びくりと肩を震わせながら驚いた。けれど振り返り、自身のよく見知った人物であることを視認すると、ほっと胸を撫で下ろした。が、なんとなくばつが悪くて、ぶっきらぼうに「……エルだって悪い子だろ。」と頑なに彼女を師匠と呼ばずに指摘した。
エルは少年の口ぶりに「悪い子だよ、わたしは。」と何食わぬ顔で答えると、彼の隣に並んだ。それから少年の背中を優しくぽんぽんと叩くと、「大丈夫。誰だって、不安さ。」と彼の心の奥底を見透かした上で、いつもと同じようになんでもない風に軽口を叩いた。少年は相変わらず心の奥底まで把握されていることに恥ずかしいやら悔しいやらで表情を強ばらせると、そっぽを向いて彼を励ましているエルの手を振りほどいた。エルはそんな彼にやれやれと苦笑すると、その場に座り込む。膝を抱えて、空を見上げ、目を細めると、エルは泉の水面が風に合わせて揺れる音に合わせて静かに口を開いた。
「30代目のキミも、いつも不安そうだった。」
エルは空を見上げる。彼女が生まれた時から少しも変わらない月を眺めながら、30代目の弟子に思いを馳せる。
「でも、とても強い子だった。――今のキミみたいにね。」
エルはそう告げると視線を夜空の月から少年へと向ける。それから自身の隣をぽんぽんと軽く叩くと、「こっちおいでよ。」と声を掛けた。少年にそれを断るほどの勇気と胆力は、なかった。
「30代目のキミは、修道女だった。女神様に仕える、心優しい乙女だった。」
風が吹く。風が、水面をざざんと音を立てながら揺らす。少し湿った、夜の温度の風が、エルの長い髪を靡かせる。
少年は初めて、昔話を語るエルの横顔を彼女と同じ目線で見つめた。その顔は少し寂しそうで、けれどとても嬉しそうで、誇らしそうで――少年はこの時、初めて心から彼女のことを師匠と呼ぶべきなのかもしれないと、そんなことを考えた。




