第12話 「秘湯と奇跡と足湯になった露天風呂」
魔王城。
朝だった。
セバスは執務室で書類を処理していた。
いつも通りの朝だった。
封筒が届いた。
見覚えのある筆跡だった。
(……また来た)
封を切った。
丁寧な字で、こう書いてあった。
『北の街、城壁修繕費。宛名:マオ様』
セバスはしばらくそれを眺めた。
(じょ、城壁代……)
モノクルを外した。
拭いた。
手に、力が入った。
パキッ。
静寂が落ちた。
セバスは割れたモノクルを見た。
しばらく見た。
引き出しを開けた。
新しいモノクルを取り出した。
かけ直した。
請求書を帳簿に挟んだ。
ため息をついた。
今まで生きてきた中で、一番深いため息だった。
「……先代は城壁など壊されなかった」
誰もいない部屋に、呟いた。
仕事に戻った。
その頃。
街道を歩いていた。
上空が光った。
『はーいみなさん、おつかれさまー』
「……」
『今日はそんなみなさんに耳寄りなお知らせです』
「いらん」
『そこから東に行ったところに秘湯の湯の村があります』
マオは足を止めた。
『普段の疲れを癒やして来てくださーい。宿にはちゃんと神託予約してますから』
「……神託で宿の予約ができるのか」
『できるよ』
「それを仕事に使うな」
『えーいいじゃん』
チトが耳をぴんと立てた。「温泉ですか」
「らしいな」
「行きますか」
「行く」
ガレットが「おんせんーー?」とゆっくり言った。
「温泉だ」
「はいったことないーー」
「そうか」
メルが腕を組んだ。「秘湯か。悪くない」
まりっぺが微笑んだ。
「あらあら、楽しみですわね」
光が消えた。
秘湯の村は、山の中にあった。
小さな村だった。
宿が一軒。湯気が上がっている。
宿の主人が出てきた。
「神託でご予約の勇者様御一行ですね」
「そうだが」
「お待ちしておりました」
部屋に案内された。
広い。畳がある。窓の外に湯気が見える。
チトが耳をぴんと立てた。「いい宿ですね」
「そうだな」
メルが畳の上に座った。「悪くない」
ガレットがぬぼーっと部屋を見回した。「ひろいねーー」
「広いな」
まりっぺが窓の外を見た。
「あらあら、露天風呂ですわね」
「ああ」
「楽しみですわ」
(頼む、壊さないでくれ)
声には出さなかった。
露天風呂。
マオが先に入った。
いい湯だった。
山の空気がある。静かだ。
しばらく浸かっていた。
そのとき、足音がした。
でかい足音だった。
(……ガレットか)
「はいるーー?」
「入れ」
ガレットが、入った。
どぼん。
湯が、溢れた。
大量に溢れた。
湯船の外に広がった。広がって、広がって、止まった。
ガレットがぬぼーっと座っていた。「あついねーー」
「熱いな」
「きもちいいーー」
「そうだな」
しばらく二人で浸かっていた。
ガレットが上がった。
マオは湯船を見た。
ガレットが入る前より、だいぶ減っていた。
足首くらいの深さになっていた。
(……足湯だな)
足湯に浸かった。
悪くはなかった。
女湯。
まりっぺが入った。
「あらあら、気持ちいいですわね」
湯が、光った。
ほんのりと、白く光った。
いい匂いがした。
花の匂いではなく、もっと清らかな、そういう匂いだった。
(……あらあら?)
まりっぺが首を傾げた。
湯の色が、少し変わっていた。
透明だったのが、淡く白くなっていた。
(なんでしょう)
気にしないことにした。
しばらくして、メルが入ってきた。
「……いい湯じゃ」
ざぶん、と浸かった。
その瞬間。
「……ん?」
何かを感じた。
神聖な気だった。
濃い。じわじわと、体に染み込んでくる。
「……これは」
強い。
強すぎる。
「……あ」
メルが、湯船の中で浮いた。
目が、とろんとした。
まりっぺが、メルを引き上げた。
「あらあら、大丈夫ですか」
返事がなかった。
男湯。
足湯になった湯船に浸かっていると、足音が聞こえた。
扉が開いた。
正確には、扉ごと持ってきた。
まりっぺが、男湯の入り口のドアを片手に抱えて立っていた。
静かに、丁寧に、壁に立てかけた。
「気のせいですわ」
「ドアがないが」
「あらあら、メルさんがお湯に合わなかったようで倒れられましたの。お部屋で寝かせております」
「わかった、上がる」
しばらくして、部屋に全員が戻った。
メルは布団の上で横になっていた。
目だけ開いている。
「……大丈夫か」
「……問題ない」
「そうか」
「……少し、眠る」
目を閉じた。
夕食が運ばれてきた。
山菜の天ぷら。川魚の塩焼き。豆腐の味噌汁。
それから、地元の野菜の煮物。
チトが「これは丁寧な仕事ですね」と言った。
ガレットが「おいしいーー」とゆっくり言った。
メルが布団の中から手を伸ばして、皿を引き寄せた。回復したらしい。
まりっぺが「あらあら、美味しいですわね」と微笑んだ。
マオは川魚を食べた。
(うまい)
しばらく、誰も何も言わなかった。
ただ、飯を食った。
チトが片付けながら言った。「……今日は、何事もなかったですね」
マオは部屋の入り口を見た。
ドアがなかった。
「ドアだけだな」
「ドアだけですね」
「まあ、それだけでも」
まりっぺがにこりとした。
「あらあら、平和でしたわね」
誰も否定しなかった。
布団に入った。
湯の余韻がある。
悪くない夜だった。
翌朝。
食堂に降りた。
全員で階段を降りた。
食堂の入り口をくぐった。
窓際の席に、人影があった。
黒い衣。モノクルをかけた老人。
帳簿を広げて、朝食を食べていた。
老人が顔を上げた。
目が合った。
老人の手が、止まった。
マオも、止まった。
セバスだった。
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
セバスがモノクルを外した。
拭いた。
戻した。
「……マオ様」
「セバス」
「……温泉療養に参りました」
「そうか」
「心労が重なりまして」
「そうか」
「請求書が」
「知ってる」
「城壁が」
「知ってる」
「モノクルが」
「……知らなかったが」
セバスがため息をついた。
今まで生きてきた中で、一番深いため息だった。
まりっぺが微笑んだ。
「あらあら、ごきげんよう」
セバスがまりっぺを見た。
一秒、見た。
モノクルを外した。
丁寧に、ゆっくりと、拭いた。
戻した。
「……ごきげんよう、聖女様」
声が、かすかに震えていた。




