4:平穏な日々
私がハモンド侯爵領に到着するより先に、領境まで騎士団が急ぎ馬を走らせていた。
「シンシア!」
「お父様、お兄様!!」
懐かしい姿に、視界が霞む。
ティリット王国で暮らしていた時間はそう長くはないはずなのに、どうして二人の姿を目にしただけで、こうも胸がいっぱいになってしまうのだろう。
「お前、痩せたのではないか……」
「そう……でしょうか」
父の手が私の頬に触れる。その掌の温かさに、堪えていたものが溢れそうになる。
「可哀想に……」
兄までもが、今にも泣き出しそうな顔で私を抱き寄せた。
ああ、怒られる覚悟をしていたのに──どうして、こんなにも優しく迎えてくれるのだろう。
二人の温かな声に、再びじわりと目の端が滲んでくる。
「とにかく、家に帰ろう。おいで、シア」
ランドルフお兄様が私の身体を抱き上げて、自らが駆る愛馬の前に座らせてくれる。
懐かしい、我が家への道。
馬上でお兄様と語らいながら歩く家路は、荒んだ心を落ち着かせる何よりの清涼剤だった。
「あの外道めらが!」
「なんという、ふざけた話だ……」
普段は穏やかなハモンド侯爵邸に、珍しくお父様とお兄様の怒声が響いた。
私の話を聞いてからというもの、温厚な二人の表情は、見たこともないほど怒りに歪んでいた。
「こちらに、証拠となる毒瓶を持参しております」
「でかしたぞ、ケヴィン。すぐに分析させよう」
ケヴィンが懐から取り出した小瓶を、お父様の副官が、幾重にも布に包む。
「既にこの件は陛下にも報告してある。じきに帝城からも何かしらのアクションがあることだろう」
「そ、そこまで大事にしなくても……」
我がハンフリーズ帝国の皇帝陛下は、私にとっては伯父にあたる。
そう、私とお兄様を産んだお母様は、皇帝陛下の実の妹なのだ。
「十分な大事だぞ、これは! ティリット王国から我がハンフリーズ帝国への宣戦布告と取っても良い!!」
「お父様、どうか落ち着いてください」
私は自分が毒を盛られた経緯を、よく理解している。
あのご令嬢──我が夫であるロバート殿下の恋人ネリー・エヴァーツ公爵令嬢が正室の座を望んで、すぐに毒を盛られた。
これはつまり、殿下と令嬢による突発的な行動で、その裏に政治的な意図が介在しているとは考えにくい。
だからと言ってティリット王国に非は無いとは言い難いが、ことを宣戦布告などと大きくしてほしくはないのだ。
ティリット王国と我がハンフリーズ帝国の国力に差があるのは、誰の目から見ても明らかだから。
「向こうで苦労したんだろう、しばらくはここでのんびりしているといい」
お兄様の猫なで声に、つい甘えたくなってしまう。
「そんなことを言われると、調子にのっていつまでもお兄様の脛を囓ってしまいますわ」
「別にそれでも構わないよ。ここはシアの家なのだから、いつまでも居てくれていいんだ」
冗談のつもりで言ったのに、真顔で返されて、少し面食らってしまう。
「出戻り女なんて歓迎されないでしょうから、これからは市井で生きていくことも覚悟しておりましたのに」
「そんな訳あるか!」
私の言葉に、お兄様が声を荒らげる。
「一生この家に居たっていいんだ。シアの面倒くらい、私が見る」
「お兄様は良くても、嫁に来られる方には嫌がられてしまいますわ」
「嫌がらない相手を嫁に選ぶとも」
お兄様の優しい言葉が嬉しい反面、本当にこれで良いのかしらと思ってしまう。
お兄様もお父様も、館の使用人達も、皆優しくて……あのティリット王国での日々が、遠い世界の出来事のように感じられてしまう。
ううん、あれは間違いなく現実だったのだわ。
今となっては、亀裂の入ったネックレスだけが、私と過去へと繋ぎ止めている。
「……せっかくの、エドガーからの贈り物だったのに」
贈り主の瞳を思わせる美しい宝石は、澱んだ魔力を吸い上げてか、黒い靄が渦巻いている。
エドガーに会ったら、なんて言おう。
大事な贈り物をこんな風にしてごめんなさいと、謝るべき?
それとも、貴方のおかげで助かったのだと、感謝するべきかしら。
私が答えを出すより先に、再会の日は、突然にやってきた。