3:逃走の日々
王城を抜け出すにあたり、私はベリンダの侍女服を借りて変装した。
護衛騎士ケヴィンが手綱を握り、馬車は夜明け前の闇を裂くように走り出す。
ティリット王国がすぐに追っ手を差し向けてくるかは分からない。
けれど一刻も早く国境を越えなければ、命はないかもしれない──そう思うだけで、背筋が冷えた。
人目を避けるために、自然と田舎道を選ぶことになる。
街道よりも荒れていて、車輪が跳ねるたびに不安が胸を打った。
そうして馬車と馬を乗り継いで、ようやく国境付近まで辿り着いたのだ──。
「今日は、この宿場町に泊まりましょう」
ケヴィンの提案に従い、三人で宿を取った。
侯爵家でも王子宮でも、こんな狭い宿に泊まったことなど一度もない。
けれど古びた木の香りがする小さな部屋は、不思議と心を落ち着けてくれる。
「申し訳ありません、これ以上の部屋はなくて……」
「いいのよ。これで十分」
一日中馬に慣れない私を支えてくれた彼に、笑顔を向ける。
感謝こそすれ、謝られる理由なんてない。
「市井の暮らしを体験するのも悪くないと思っているの」
「シンシア様……」
私はもう王子妃ではない。
離縁状を置いたその瞬間から、ただの“出戻りの女”に過ぎなくなったのだ。
「それに……ハモンド侯爵家にも戻れるかどうかは分からないし。市井の暮らしに慣れておかなくちゃ」
「な、何を仰いますか!」
ケヴィンが顔を強張らせる。
「あら、だってそうでしょう? 嫁ぎ先から逃げてきた私を、素直に迎えてくれる保証はないわ」
強く笑ってみせるけれど──胸の奥は冷たい不安に満ちていた。
父や兄は甘いから、きっと優しい言葉をかけてくれるだろう。
けれど、それは同時に彼らに迷惑を掛けることになる。
帝国と王国の間に、さらに軋轢を生んでしまうかもしれない。
「それでしたら……」
ケヴィンが低く、真剣な声で言った。
「市井の暮らしを選ばれるくらいなら、私がシンシア様を養います」
「……まあ」
冗談にしては真剣すぎる声。
私は思わず微笑んでしまった。
「そんなこと言われたら、本気にしちゃうわ」
「冗談のつもりはありません」
むすっとした表情の奥に、真心が覗いている。
無愛想に見えて、本当はとても優しい人。
……ああ。そういえば。
従兄のエドガーも、昔よく同じようなことを言っていた。
サファイアのような深い青色を湛えた瞳が脳裏に浮かび、胸が少しだけ温かくなる。
「一応、お父様とお兄様には連絡を入れておいた方が良いのかしら」
「当然です!」
ケヴィンが力強く拳を握った。
気は重いけれど──きっと大丈夫。
私には、ベリンダとケヴィンという心強い味方がいるのだから。