1:地獄の日々
鳴り物入りでティリット王国第三王子ロバート・ティリット殿下に嫁いできた王子妃──それがハンフリーズ帝国の貴族令嬢である、私……シンシア・ハモンド侯爵令嬢だ。
ティリット王国はハンフリーズ帝国との絆を強める為に、皇帝陛下の姪であり、高位貴族の娘でもある私を必要とした。
そう。
私とロバート殿下との婚姻は、政略結婚にすぎない。
とはいえ、形だけでも夫婦となる身。
ロバート殿下に気に入られるようにと、ティリット王国に来た頃の私は、必死に自分を磨き続けた。
いつか振り向いてくれるのではないかと、愚かにも信じて。
──たとえ、夫が一度も寝室を訪れなくても。
──たとえ、夫が別の女性と日がな一日一緒に居ようとも。
──たとえ、夫ばかりかその恋人からも、王子宮の使用人達からさえも蔑まれようとも。
「尽くし続ければ、きっといつか」
そう自分に言い聞かせることだけが、かろうじて私の心を支えていた。
「妃殿下、今日は風が気持ち良いですよ。たまには部屋から出られては如何ですか?」
長年仕えてくれる侍女のベリンダが、心配そうに声を掛けてくる。
「……そうね、少しだけ中庭にでも」
「まあ! 承知しました」
私が珍しく頷いたからだろう。
彼女も、護衛騎士のケヴィンも、ぱっと表情を明るくした。
「四阿に茶の席を用意させましょうか?」
「いいのよ。使用人達をわざわざ呼べば、また嫌な顔をされるもの」
使用人が王子妃の世話を嫌がるなど、本来なら有り得ない。
けれど、ここではそれが日常茶飯事だ。
なぜなら、主であるロバート殿下が率先して私を罵るからだ。
『なんだ、その老婆のような白髪は』
『暗い顔ばかりしやがって……王国に居るのがそんなに不満か? これだから帝国民は』
私にとって誇りでもある銀髪は、亡き母から受け継いだもの。
父や兄が「美しい」と褒めてくれた髪を、彼はただの“白髪”と切り捨てる。
まるで、大切にしてきたもの全てを汚されたようで……そのたび胸の奥が、ひどく痛んだ。
彼が私を嫌う理由は知っている。
私が帝国の血を引く民であり、王族である彼と比べてこちらは一侯爵家の娘でしかなく、さらには彼が幼い頃から心を寄せてきたネリー・エヴァーツ公爵令嬢との結婚を妨げた存在だからだ。
──だとしても。
蔑みと嘲笑ばかりを浴びせられる日々が、正当化されて良いはずがない。
「あははっ、殿下ったら!」
中庭を歩いていると、花々の間から甲高い声が響いた。
色とりどりの花に囲まれた四阿。
その陽だまりの中で、ロバート殿下とネリー嬢が笑い合っている。
「妃殿下……」
「……少々、間が悪かったみたいね」
耳を塞ぎたいのに、二人の声は鮮やかな陽光の下、残酷なほどに大きく響く。
「側室になら、今すぐにでも迎えてやる。僕に異を唱える者など、いようはずもない」
「いやよ。私の方が公爵令嬢で身分が高いのに、どうして正室があの女で、私が側室なの?」
「そうだな。最初から間違っている」
──知っていた。
殿下の本音も、ネリーの欲深さも。
それでも、実際に耳にすれば胸は締めつけられる。
「……大丈夫よ。部屋に戻りましょう」
笑顔を作ろうとしたが、頬がひくついて思うようにいかない。
花々は鮮やかに咲き誇り、陽光は眩しく溢れているというのに、私の心だけが冷え切っていた。
ここはティリット王国。帝国から嫁いできた私には、味方は実家から付き従ってくれている二人──ベリンダとケヴィンしかいない。
けれどそれでも「王子妃」として嫁いだからには、耐え抜かなければならない。
そう、思っていたのに。
その信念さえも打ち砕く事件が、すぐそこまで迫っていることを、この時の私はまだ知らなかった──。