#27:自分の気持ち
(わざとバトン落として負けろって…そんなの絶対やりたくない。負けたくない…!)
リレーの勝敗は、体育祭の勝敗を決める大きな一手である。点差が大きく離れておらず既に午後の部である今、このリレーが今日を決める鍵になることは誰もが理解している。
(でも、もし勝っちゃったら、アタシは…)
一歩足を踏み出す度、周りの騒めきが耳に入る度、千景は自分の足と心のバランスがどんどん乱れていくことを感じていた。
脳内では満の声が反射して離れない。暫く顔を合わせていなくとも、身体が全て記憶しているから。
(勝ちたい。一番にゴールしたい。朔馬さんの願い、叶えたい…!だけど、そしたら次は何されるのか分からない……怖い…!)
勝ちたい、と心の底から叫ぶことが、足に重い鉄球を引き摺るような感覚になるのは初めてである。しかも鉄球は満の言葉に反抗しようとする度に重さを増していく。
心臓の音が激しくなり、周りの音が徐々に薄くなってきた頃。千景の意識をハッと現実に返らせたのは、虚空に打ち上げられたピストルの音であった。
「確かこの辺り…あ、これだ」
全力で走ったお陰で、朔馬は五分も掛からず昼休みに居た場所に着けた。誰もいない校舎には、独り言も上がっている息もよく響く。
淡いクリーム色に夏芽の名前を確認し、安心したように大きく息を吐いたと同時にグラウンドから盛大な歓声が聞こえた。それがリレーの開始の合図であることは経験上、何も疑うことではない。
「急いで戻らないと…!」
今しがた走ってきた道を再び走り、近道だからと中庭に入ってすぐ声は聞こえた。
「ねえ、アイツ本当にやると思う?」
「は?やるに決まってんでしょ。てかやらなかったらどーなるのかは、アイツが一番分かってるだろうし」
「でもほら、前一緒にいたあの男の人にでも話されてたらどーすんの?けっこーマズくない?」
既に競技が始まっているのにこんなところにいる人なんて、珍しいの一言で十分片付けられる。しかし思わず足が止まったのは、その声にある疑いを持ったからである
そっと木々の影から見つけたのは、千景をいじめていた主犯格の姿であった。朔馬は衝動的に飛び出しそうになったがなんとか抑え、そっと満達の会話に耳を傾けた。
「大丈夫でしょ。今まで人と関わってこなかった奴が、急に誰かに自分のことを話す確率は低い」
満の言葉に、朔馬は何か電流が走ったような感覚を覚えた。どれだけ振り払おうとしても離れない、そんな何かが脳から身体中を駆け巡る。
「流石だね、満。バトンの案だけじゃなくて、そんなことも考えてたんだぁ?」
キャキャッとする二人とどこか得意気な満とは対照的に、朔馬はその言葉に疑問を抱いていた。
(バトンの案…?)
さっきまでピリリとしていた何かが、はっきりとした予感に変わるのを感じる。
「あたしも聞いた時はめっちゃびっくりしたよー。でも満らしくて良いと思うよ。わざとバトン落として負けろ、なんて普通の人は思いつかないってー」
気付けば朔馬は無我夢中で走り出していた。身体中に走っていた予感はあっという間に確信になり、頭の中は千景の様子とさっきの言葉が交互に思い出される。
(間違いない…千景ちゃんはアイツらに会ったんだ。きっとそこで『わざとバトンを落として負けろ』って言われて…クッソ、アイツらどこまで…!)
グラウンドに着き、ひしめき合う歓声の間をくぐりながらチラッと中央を見ると、ワインレッドはまだそこにあった。しかし、ゆっくりしていられる程の時間もなく、バトンが次の走者に手渡されると同時にその姿はコースへ近付く。
「夏芽ちゃん!遅くなってごめん、タオルこれで合ってる?」
「あ、はい!あの、本当にすみません!!もうリレーもあと二人…」
「ううん、気にしないで」
必死で謝る夏芽をジッと見つめ、その目に安堵が現れたと同時に朔馬は駆け出して行った。驚く夏芽の声や周囲の生徒達の困惑も、何一つ聞こえなかった。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう…!勝ちたい、走りたい、負けたくない!!でも、そしたらアタシは…)
ザッと足を上げる音と黄色い歓声が近付いてくるのを感じると、それに比例するかのように千景の頭の中は彩度を失っていった。
段々と暴走していく意識の中、深紅の瞳がはっきりと捉えたものは大歓声の中を駆け抜ける自分の前走者であった。
紅白を更に二つに分け四つのチームに分かれた中で、赤い鉢巻は一番前と一番後ろにある。それが何を示すのかくらい、リレー走者ではなくとも十分理解出来る。しかし、今の千景にとっては残酷とも言える光景だった。
(あれ…もうアタシの番なの…?今一位の……?)
途端、心臓がズドンと重くなる。目の前が一瞬グラッと傾き、コースに立つまでの距離が異様な程険しく感じられる。歓声が、足音が、息遣いが、まだまだ遠い筈なのに冷たい風と一緒に流れて耳に入ってくる。
(やらなきゃ、走らなきゃ……あれ、私、今までどんな風に走り出してたっけ…?…でも、とにかく動かないと…!)
何度も練習してきた構え、腕の伸ばし方、走り出しのタイミング。一つずつ思い出していく度に、血が巡るスピードが速くなっていく。それはまるで、重要な歯車がズレて変な方向に回転し続けているようであった。
「古閑さん!」
練習のお陰で身体は一瞬にして前へ進んだ。しかし、背中に迫る風圧と減速していく足音を耳が捉えると、風船が針に触れたような感覚が走り、力が抜ける。
(始まる…私の、番……)
指先に、ほのかな熱を帯びた物が触れる。足音が止まる代わりに、数多の視線と期待が一気に襲い掛かる。
『わざとバトン落として負けろ』
「っ!!……ぁ」
歓声がどよめきと落胆に切り替わったのは、ほんの一瞬のことであった。
バトンはコースの外側へ転がっていき、数歩動かないと拾えない位置で止まった。落としたと気付いた時には、既に他の走者がバトンパスを行いそのまま駆け出していっていた。元からそこまで大きなリードはなかった為、このミスはかなり痛い。
(落ち、た…いや、すぐ拾えば………拾わなくても、いっか。だって、これ以上何もされないしあんな思いもしなくていいなら……っ、ううん、そんなのダメに決まってる!でも、でも…身体が、動かない…)
手も足も燃料が切れたようにピタリと止まり、周りの音が徐々に消えていく。
もうどうでも良いと、心から温度が失われそうになった時だった。
「千景ちゃん!!」
途端、何もない景色にひとつの色がつく。
音のする方向へ、自然と瞳が動く。
「走れ!自分の気持ちを信じろ!!」
視線の先に映ったのは、一番近くで千景の走る姿を見てくれていた人の姿。
杏色の目は昔と同じ、いや以前よりもずっと明るく燃えるような鋭さをしていた。
言葉が身体中を巡り、小さな歯車がカチリと嵌まって狂っていた機械の動きを変えるかのように、頭の中がゆっくりと鮮やかになる。
(アタシの、気持ち……)
そこは周りの音も視線も何一つ感じない、まるで時が止まっているかのような感じにあった。これまでの記憶が一つずつ紐解かれ行き、映像があるところで止まる。
それは、いつまでも色褪せない背中。真っ直ぐで眩しい、憧れであり心の原点。ただひたすらに追いかける理由を、その瞳は示していた。
(勝ちたい?走りたい?…違う、そうじゃない!)
素早くバトンを拾い、走り出す。
あの背中が大きく、格好良く見えるのは、暗い日常に光を灯してくれたから。留まり続けていた自分に、勇気をくれたから。
(アタシは変わりたい…前に進みたいんだ!!)
もっと先へ進みたいと心が言う。土を蹴り上げる感触が気持ち良い。再び湧き上がる歓声を乗せた風が真正面から吹きつけるられる度、深紅の瞳に光が宿る。
最後尾を走っていた同じ色を並ぶ間もなく交わすと、その目はただ一つを捉える。
(あと二人…)
前を走っていた二つの白が、千景の姿を見た途端逃げるように懸命に腕を動かす。
しかし千景はまるで関係ないと言うかのように、ニッと口角を上げる。それは、今まで積み上げてきた自信とプライドであった。
一歩進む度に足は軽くなり、胸の内側から高揚感が溢れてくる。
気が付けば、目の前には誰もいなかった。
「一着は赤組です!痛恨のバトンパスミスから、アンカーの見事なごぼう抜きで勝利を手にしました!」
ワアッと湧き上がる歓声に、千景の瞳がパッと揺れる。さっきまで夢中で走っていた為、一瞬自分がゴールしたことを忘れていたのだ。
1と描かれた旗を渡されて漸く、自分の願いを自分が叶えたのだということが身体中に巡る。言葉に表せないような、熱く重量感のあるものが胸中を満たし呼吸を少し乱していく。
「っ……っやったあ!!」
バッと伸ばした腕先にある旗は、雲一つない青空に勢いよく靡いていた。
「千景ー!見てたよ見てたよ!すっごかった!」
「もう夏芽、くっつきすぎだって」
戻って来た千景を出迎えたのは、誰が言っているのかも分からないくらいの歓声と、スーパーヒーローにでも会ったかのように目を輝かせる妹からのハグであった。
全力疾走後で汗や砂がつくことを気にする千景をよそに、夏芽は千景を強く抱き締め続ける。
「だってだって!本当に凄かったんだもん!」
まるで自分のことのように喜ぶ様子を見て漸く実感が湧いたのか、千景はぎゅっと瞳を細長くして破顔すると夏芽の背に腕を回す。
「うん、凄く格好良かった。正直、バトン落ちたのを見た時は一位取り返すのは無理じゃないかって思ってた。でも、全員抜かすなんて、流石千景さんだね」
深く頷きながら、伊澄が千景を讃える。普段あまり多くを話さない彼の口から、すらすらと賞賛の言葉が出て来たことに千景は一瞬驚いたが、すぐに得意気な笑顔を浮かべる。
「おめでとう、千景ちゃん」
人だかりと中からでも、その声ははっきりと千景の耳に届いた。反射的に振り向いた時、さっきまで笑顔に染まっていた表情は切り替わって、パッチリと透き通っていた。
「朔馬さん!あの…」
「その続き、俺が走ってきた後に一緒に聞かせてくれる?」
何かを言おうとした千景の声は、そっと口元に人差し指を当てた朔馬に遮られた。しかし、その仕草がただ口を閉じるだけの合図ではないことを、千景は理解していた。
「っはい!」
タタッと駆けていく後ろ姿を見ながら、千景の心は様々な感情で満ちていた。走る前にあった暗く重たいものは、スッとどこかに消えていた。
一方、リレーの結果を知った三人の心情は穏やかの欠片もなかった。
「アイツ、無視しやがった…⁈どうするの満!」
「明莉、ちょっと黙ってて。そうね…アイツが一番嫌なことを曝してやる!!」
怒りと悔しさと苛つきを抑えながら発せられた満の声は、まるで暗闇に光る刃物のよう、いや刃物を研いでいるようであった。
お読み頂きありがとうございます。
全然更新出来ていなくてすみません。あと一、二話くらいで体育祭が終わると思います。
気長に待って頂けたら幸いです。




