#22:痛い過去に抱擁を
(浮かれてた……結局アタシは…)
灯りをつけることも着替えることもせずに、千景はベッドの上で蹲っていた。
隠したかった過去がうっすらと晒されたことよりも、何も言えずに逃げ出してしまった自分への情けなさが胸を満たしていた。
(なんにも変われてないんだ…!)
憧れの陸上部に入部して、中学生ながらエースとなって、自己ベストを更新していったところで、心は四年前から一歩も進んでいないのだ。
口元を結んで声を溢さないようにするも、胸の内側から湧き上がる冷たいものは止まることを知らない。柘榴石のような綺麗な瞳から小さな水滴が幾つも落ちていく音さえ、暗い静かな部屋にはよく響いた。
ブレーキのように細く高い音が自分の喉から発せられていることに耳を塞ごうとするも、両腕は身体を支えるのに精一杯で動いてくれなかった。
部屋の中は、苦しそうな音だけが小さく木霊していた。
「四年前くらいだったかな。その時の千景は、一人でいることを好んで誰とも関わろうとしないような子だったの」
もうすっかり傾いた夕日を背に、朔馬は怜世が話してくれる千景の過去を聞いていた。時間も時間なので辺りに同じ学生はおらず、カラスの鳴き声だけが遠く響く空、時折顔に掛かる風は涼しかった。
「そんなある日、千景に話しかけにきたグループがあって、千景は断ったの。『仲良くする気はない』って。まあ、その言い方もちょっとどうかとは思うんだけどね」
隣り合わせのパズルのピースがカチリと嵌まるように、さっき満達が話していたことと一致する。古い文書を一枚ずつ捲っていくように、朔馬の心は次の緊張が沸々と湧いてきた。
怜世は苦笑いを浮かべながらも、変わらず硬い瞳をして言葉を続ける。
「それでも、話しかけるのを諦めなかった。きっと、親切心だったと思うの。それだけなら友達想いの優しい子、で終わったのだけど…問題が起きたのは、その後」
段々と重くなっていく怜世の声につられるように、朔馬の身体は針金を張り巡らしたような緊張感が走った。これが所謂、嫌な予感というものだろうか。
「その子達が、千景に嫌がらせを始めたの」
きっと、折角話しかけに行ったのに冷たくされたことへの腹いせとかだろう。当然、そんな人を友達などとは呼べない。
千景の表情が蘇り、ゆっくりと心臓に矢が刺さるような感覚がする。それは初耳による衝撃か、それとも自責の念のようなものか。
「最初は、ちょっと鉛筆を取られるとかくらいだった。でも段々と靴を隠したり、物を壊したり、見えづらいところに傷をつけたりどんどんエスカレートしていった。もう嫌がらせなんてレベルじゃない、歴としたいじめになってた」
「っ…アイツら、そんなことしてたのかよ」
いじめ、という言葉に朔馬は大きく震えた。いじめの酷さは、幼少期からずっと言われてきている。人を傷付けること、虐めること、ぞんざいに扱うこと。朔馬が最も嫌いな行為だ。被害に遭った同じ子供の話を聞く度に胸が痛くなったし、だからこそ自分は誰かを虐めないことは勿論いじめを見たら止めるようにしている。
故に、過去のこととはいえ身近な人がそういう目に遭っていたと知ると、やるせなさや悔しさが湧いてきた。
「でも、千景はそれを誰にも言わなかった…言えなかったのかもしれない。だって千景は、本当は凄く真面目で優しいから」
「…っ!」
遠くを見つめる怜世と部活中の千景の瞳が重なり、朔馬の胸を罪悪感に染めていく。
(何で…)
思い返せば、それらしいことで一杯だった。極端に減った口数も、押され気味な感じも、付き合っているのかと聞かれて返された冷たい答えも。そう考えると、満達の態度もどこか千景を見下したようなものに思えてくる。
「何で気付けなかったんだ…!あんな顔してたのに…」
髪を掴んで悔しさを滲ませる。中央にギュッと寄せられた眉と、尖った鉱石のように厳しい目をする朔馬を怜世はそっと見つめた。
「朔馬くんが責めることじゃないよ。私だって、ついこの間知ったから」
「この間…?」
「うん。正確には、二ヶ月くらい前なんだけどね」
怜世の口調からは、かなり前から把握しているかのような感じがした。ついこの間知った、なんて少し信じ難いことである。
不思議そうな顔をする朔馬をちらりと見て、怜世は再び口を開いた。
「…前に、私達が三人だけで住んでるって話したことあるじゃない?みんなでカレー作った時」
「うん、覚えてる」
古閑家が三姉妹だけで暮らしていることは以前から聞いていたことである。同じく三兄弟だけで暮らしている朔馬達と、意気投合したひとつのきっかけだ。
なぜこのタイミングでするのか、と疑問に思ったが怜世のことだから、きっとこの先の話に深く関わってくるものなのだということは分かった。
「あの時は話さなかったけど、実は今の家に来たのって春休み中だったの。…驚いた?」
朔馬は開いた目が暫く閉じなかった。分かりやすすぎる反応に、怜世は小さくくすりと笑う。しかし、美しい紫色の瞳にはどこか影が差していた。
「正直凄く驚いた…それまで別のとこから学校行ってたってことだよね」
引越しはなかなか大変である。それに、怜世は高校生だが千景や夏芽はまだ中学生だ。朔馬が三姉妹の親だったら、いくら安全性の高いマンションとはいえど幼い少女三人だけでは出来るだけ暮らさせたくない。姉妹と両親の関係は知らないが、反対とか言わなかったのだろうか。
「うん。…何でかって気になるって顔してるね」
「…もしかして」
身体中に何かが走る。もしかしたら、という予想と、そうじゃない、という僅かな望み。でも、総合的に見ればそれは良くない、嫌な予感であった。
「そう、千景の為よ。…去年の冬、その子達が家に押しかけに来たことを聞かなかったら、私も千景がいじめられてるなんて知らなかった」
「っ……」
言葉が出なかった。いや、それよりも怖さが優っていたのかもしれない。会うのを避けたい、自分を虐めている人が家までやってくるなんて、恐怖の対象でしかない。
「何だよそれ…そんなの、千景ちゃんじゃなくても怖い思いをするに決まってる…!」
満達とは今日初めて会ったが、あの距離感で何日も接せられるのは疲れるし、虐められでもすれば、いつかふとした瞬間に壊れてしまうかもしれない。それを何日間、もしかしたら何年間も、一人で誰にも言わずに耐えてきたのだと思うと、胸がとても苦しくなる。
クッ…っと悔恨の念が表れ、髪を強く掴んで離さない朔馬を、怜世は静かに見つめた。悔しさで溢れた息を吐き終わるまで、何も言わず、一ミリも動かなかった。
「千景、凄く楽しそうに朔馬くんのこと話すの」
ふいに、そっと呟かれた言葉に朔馬はハッと顔を上げるも、怜世は仄暗くなった遠くの空を見つめながら、まるで気紛れのように言った。
「きっと、家族以外で一番信頼しているのね」
信頼している、という言葉に「朔馬さん!」と無邪気に自分の名前を呼んで駆けてくる姿を思い出す。柘榴石のような、ひたむきで健気で眩しい瞳。熱心で少し負けず嫌いな顔の下に傷つけられた一面があって、でもそれを隠そうとする。多分それは、変な心配を掛けさせないという千景なりの気遣いだ。しかしそれは、十五にもならぬ少女が抱えるにはまだ少し重い。ならば、年上の朔馬には何が出来るだろうか。先輩として、友人として、自分は今何をすべきだろうか。
「怜世ちゃん」
朔馬の答えは、最初からもう決まっている。怜世から話を聞いて、決意はより一層強く固まった。
「少し、そっちの家に行っていいかな」
千景は放っておいて欲しがるかもしれない。もしかしたら顔も合わせてくれないかもしれない。慕っている先輩に自分の痛い部分は知られたくないだろうし、見せたくもないだろう。しかし、これは朔馬自身の我儘なのだ。千景と直接話したい、という願望だ。
断られる覚悟で怜世を見つめると、揺るがない紫水晶はその答えを待っていたかのようにふっと微笑んだ。
「ええ、是非。どうか、千景を支えてあげて。今のあの子には、朔馬くんが居るのが良いと思うから」
薄く藍色が広がる東の空には、小さな一番星が瞬いていた。誰かが来るのを待っているように、星は朔馬の瞳にキラリと映り込んだ。
(アタシは、馬鹿だ…)
無音の空間は、考え事をするのに最適解かもしれない。もう頬を伝う水の感覚もなくなって、千景の頭は切り替わっていた。切り替わったと言っても、己の不甲斐なさを責めることにチェンジしているので良いこととは言えない。
(ちょっとくらい、変われてるって思ってた…)
エースに抜擢されたり自己ベストを更新したりしているうちに、自意識がかなり上がっていたのかもしれない。だとしたら、なんて愚かなのだろう。時計だけを見たところで、人はそんな変わらないのに。大切なのは心の方なのに。
(朔馬さんだけには、知られたくなかったのに)
窓から入ってくる淡い光は、もうとっくに消えていた。下に向けていた顔を漸く上げると、部屋は真っ暗な筈なのに視界はクリアだった。暫く暗い所に居ると段々と目も慣れてくるとは言うが、それにしてはあまりにも綺麗すぎた。
静かな空気に、家の扉が開かれる音は良く響いた。玄関にいる人が、一人ではないことも。その人達が、誰かということさえも。
近付いてくる足音にどう答えようかと考えながら、千景はベッドから降りた。
「千景…居る?」
丁寧なノックの音と、心配そうな声は姉のものだ。数年間の秘密を吐露した時、謝る千景を抱きしめて引越しを提案してくれた人。今も、部屋に閉じ籠っている千景を案じてくれている。数十分前に無視して走って行ってしまったことも、今更ながら申し訳なさが湧いてきた。
「千景ちゃん…」
なんとなく察してはいたが、ドアの向こうから聞こえてきたもう一つの声に一瞬固まった。千景を気にかけてくれる人、朔馬のものだ。余韻を残した心配そうな声に、何が起きたのか理解した千景は聞こえないよう、はぁと息を吐いた。
(あー…これは全部話されたな)
知られたくないから逃げてきたのに今そこに居るということは、十中八九、怜世から聞いたのだろう。少し怒りが湧く。かと言って、何で話したのとか忘れろとか、二人を責め立てることも出来ない。
何を言うかは考えていなかったが、これ以上心配を掛けさせない為にも千景は部屋の扉を開けた。差し込んできた灯りは、さっきまで暗いとこに居た目をちょっとだけ刺激する。俯いて姿を現したので、二人がどんな表情をしているかは見えなかった。
「千景…」
「大丈夫だよ…それより、朔馬さん。その様子だと、大体の流れ分かってますね」
パッと、さっきまでのことを感じさせないような顔をして朔馬の方を見る。心配と、自責の念が表れた表情。千景の予想は当たったのか、朔馬は千景を見るなりごめん、と苦しそうに言った。実は千景の目は泣いたことによって赤く腫れていたのだ。
「俺がもっと早く止めていれば…」
「いーんですよ、朔馬さんが謝るようなことじゃないですし。これはアタシが悪い…」
「千景ちゃんは悪くなんかない!」
突如出された大声に、千景の肩が大きく揺れる。杏色の瞳は、千景を飲み込まんとするように大きく見開かれ、硝子のように透き通っていた。驚いた、というより圧倒されていた。それは、千景が初めて朔馬を見た時と同じ光り方をしていたから。
「確かに少し言い方に問題があったかもしれない。だけど、悪いのは千景ちゃんを傷つけた人達だ」
揺れない瞳が、闇がかっていた千景の目に光を灯した。冷え切っていた氷が溶かされるように、固まっていた心が動きを取り戻す。優しい、温かい水にゆっくりと浸かるような感覚がする。
身体中に何かが巡っていくのが分かる。具体的には分からないけど、それはきっと、夜道に灯る街灯のような、優しいものだと思う。
「ねえ怜世。今は…二人にしてくれる?」
俯きながらも、きゅ、と朔馬の服の裾を掴む様子から、怜世は妹が何をしようとしているのか分かったようで、静かに頷いた。
「…分かったわ。でも、ちょっと待って」
タタッとどこかへ行った怜世を少し不思議そうに見て再び下を向く。頭の中は、ずっと迷いがぐるぐると回っている。自分が何をしようとしているのか、本当にしていいことなのか。きっと、この選択が今後を決める。そう分かっているからこそ、千景はただ静かに黙っていた。
「これ、持っていって」
「…ありがと」
暫くして戻ってきた怜世の手に乗ったお盆には、ほわりと湯気が昇るカップが二つあった。カップに入っているのは多分紅茶だ。それも、千景のお気に入りの。花の香りと姉なりの気遣いが、心を穏やかにさせる。
お盆を受け取った千景が部屋の扉を閉め終わるまで、怜世は静かに見つめていた。
(朔馬くん…どうか、千景をお願い)
怜世の胸には、数ヶ月前泣き崩れる千景の姿が蘇っていた。他の人に何も言わず、一人で抱え込んで倒れそうになってしまって震えていた瞳。今も、今すぐにでも抱きしめたいと思っている。しかし、今の妹を支えてあげられるのは朔馬だと、心がそう言っていたのだ。だから、自分は祈る。妹が再び立って、前を向いて歩けるように。
「ふぅー…」
「落ち着いた?」
「十分前くらいからとっくに落ち着いてます」
「そっか。…あのさ、千景ちゃん」
「謝ること以外は受け付けまーす」
優しい花の香りと甘苦い風味のお陰で、千景は心身共に大分リラックスしていた。軽い返事も出来るようになったことに、朔馬は安心したような一息を溢す。頬にうっすらと涙の跡が見えるが、もうすっかり落ち着いた様子から、きっと感情を吐き出したのだろうと推測した。
「どうして俺を頼らなかったの。近くに寄るとか、隠れるとか」
いくら他の人に知られたくない重い秘密だとしても、一人の友人として頼って欲しかったというのが本音だ。千景が自分のことを好いてくれていることは分かっているし嬉しいが、いざという時に手を掴んでくれるような存在ではなかったということがショックで、そして悔しかった。
「朔馬さんを巻き込む訳にはいかないからです。それに、そんなことをしたらアイツらは絶対碌なことを考えません」
「…そうだよな」
やっぱり、千景は本質的には優しい少女なのだ。それを再確認すると共に、しかし千景の言うことはもっともなので言い返すことが出来なかった。しかし、それを理由にされるのもなんだかモヤモヤとした。
「それから……朔馬さんだけには、知られたくなかったんです」
丁寧に、ゆっくりと紡がれた言葉に朔馬はピクリと反応した。千景としては、自分の見苦しいところを見せたくなかったと言ったところか。目を合わせずとも、その本心はまるで心を透視しているかのようによく分かった。
「でも、そういうのはいつかバレるのがお約束だよ」
「分かってます」
いつまでも何かを隠し続けることは容易くない。身近な親しい人であれば尚更だ。
そんなリスクを抱えながら朔馬に接していたということは、秘密が明るみになることよりも他に大切にしたいものがあったということか。
「だから、全部話します。その方が後々きっと気が楽になると思ったので」
独り言のようだが、自分を奮い立たせるための言葉にも聞こえた千景の声に、朔馬は一瞬最悪の展開が頭をよぎった。しかし、どんなものが来ても全力で受け止めるつもりである。
そんな朔馬をちらりと見て安心したのか、僅かに震えながら呼吸をして、千景は下ろしていた髪を後ろでゆるく束ねた。これは、千景自身の覚悟である。
「ち、千景ちゃん⁈」
千景はそっと朔馬に近付いたかと思うと、襟元のリボンを解いてシャツのボタンを一気に開けた。白桃のような瑞々しい肌色が顔を覗かせる。目の前で制服を、しかも異性の前で脱ぐなんて何を考えているのか理解が追いつかず、朔馬は思わず顔を逸らした。しかし、千景を見ない訳にはいかないので、そっと目を流すと、朔馬の目には信じ難いものが飛び込んできた。
「っ、それって…」
「安心して下さい、三年以上前のものですから」
「どこにも安心出来る要素ないんだけど…」
シャツの下からは、これまで見てきた白い綺麗な肌にこれでもかと言う程似合わない、何か鋭利なもので傷付けられたであろう傷跡がくっきりと現れていた。曰く、以前いじめの一環で髪を切られそうになった時に抵抗したら、誤ってハサミかカッターがぶつかったらしい。曖昧なのは、暗闇でどちらか分からなかったからだそうだ。その時のことは恐怖であまりよく覚えていないことも聞き、朔馬は言葉が出なくなった。想像しただけでもかなり悍ましいのだから、小学生の千景はどれほど怖かったことか。
「この後すぐに卒業して、離れることは出来たんです。でも、去年アイツらが家に来て…」
手先から芯まで冷え込むような寒さだった。冬なので日の入りも早く、家につく頃には既に仄暗くなっており、帰宅早々まずは家中のカーテンを閉めていった。最後にリビングの大きなカーテンを閉め終えてふぅと一息吐いた時、外で何やら話している声が聞こえた。住宅街なので帰宅中の学生だと流したが、その声は遠くなるどころか逆に大きくなっていった。
『あった、ここだよ』
『さっすが万祐〜。人脈すごー』
『どーもー…って、げ、カーテン閉まってんじゃん。つまんな』
数年ぶりに聞いた声に身体が固まった。突然極寒の地に飛ばされたような信じられなさと、全身に巡っていく悪寒。カーテン越しからは黒い影しか見えなかったが、千景を震えさせるには十分なものであった。
辺りの明暗も相俟ってか、胸の辺りの傷が疼く。
『ワンチャン居るくない?』
『押してみる?』
変わらない、甲高いキャハハという笑い声。忘れない、忘れられる訳がない、頭の奥の、暗いところに閉じ込めていた記憶の扉が開かれる。気付けば床にへたり込み、震える呼吸と声が聞こえないよう必死で唇を抑えていた。
(止めて…お願い、止めて…!)
身体中の神経が警戒して、何一つ物音を立てないよう窓から離れていく。心臓の鼓動の音さえも、聞こえていないか不安で一杯だった。鳴り止まない声に、本気で死の文字がちらつく。心は、完全に恐怖で満たされていた。
『ねえ、何してるの?』
途端、鈴のように柔らかい声が耳に差し込んだ。まるで必死の祈りに、天使が手を差し伸べてくれたような感覚がする。それは比喩などではなく、千景には本当に天使が舞い降りたかのように感じられた。
『え、いや別に⁈何でもないよ!』
さっきまでの調子はどうしたのやら、たった十文字にも満たない言葉に気圧され、三人はそそくさと去っていった。一連の流れがすぐには信じられず、しかし「助かった」ということだけは理解しながら、千景は暫くの間誰も居なくなったカーテンを見つめていた。遠くで家のドアが開く音が聞こえたような気がするも、返事をする気力は湧かなかった。
『千景⁈どうしたの⁈』
耳元で響いた陽光のような声に、千景の意識はハッと戻った。ぼうっとしている千景を映し込む大きな黄金色、辺りに漂うほんのり甘い香り、優しく掴まれる肩の感触、「大丈夫?」と尋ねる心配そうな声音。
『夏、芽…』
今目の前にいるのが妹と分かるまでどのくらいかかっただろう。漸く名前を声にすると、さっきまでの出来事が一気に蘇る。途端、急激に恐怖が身体を巡り、自分がどんな状況だったのか理解した。
気付いたら夏芽に抱きついていた。ほわんとした温もりは、緊張が張りつめて疲れていた千景の心に深く沁み渡った。小学生相手に格好悪いとは思っているが、背中に回した手を解きたくなかった。
夏芽は何も言わなかった。なぜ急に千景が抱きついてきたのかは分からなかったが、夏芽の直感が今必要なことであると言っていた気がしたので、そっと千景の頭を撫でた。それがまた柔らかくて心地良く、暫くこの体勢でいて貰った。怜世が帰ってきた時少し驚かれたが、何でもないとはぐらかした。
しかしその夜、夏芽から話を聞いた怜世が千景を呼び、そこで初めていじめに遭っていたことを話したそうだ。
「はっきり言って、怖かった。あのままだったら、多分アイツら…」
その先のことを考えるのは自主的に止めたのか、千景は黙り込んだ。無理もない。辛い思い出を、それも知られたくなかったと言った人に全て話したのだ。傷跡をそっと撫でることも、朔馬は黙って見つめていた。とはいえ、ずっと胸元を晒され続けると流石にこちらの緊張が高まってくるので、その後シャツのボタンは閉めて貰った。
「夏芽がいなかったらと思うと、正直今でもゾッとする」
言い方こそ落ち着いていたが、心は本当に今でも震えるのだろう。話を聞いていただけでも恐ろしかったのに、それを実際に体験したらその怖さはどれくらいなのかは、想像に難くなかった。
夏芽への態度は、恐らくこの件のことも含まれているのだろう。きっと千景にとって夏芽はただ可愛い妹だけではなく、恐怖を跳ねいてくれた救世主であるのだ。
「…結局、離れたところで何の解決にもなってない…」
ふいに、千景がこれまでで一番暗い、重い声を発した。後悔、自責、自己嫌悪、苛立ち、今まで溜めてきたであろう黒いものが爆発寸前まで上昇してきている様子。
何か励まそうとしている朔馬にも気付かず、千景は下を向いて言葉を続ける。
「アタシはあの時から何も成長出来てない…!いくら良いタイムを出したって、アタシの中身は全然変わってないんだ…!」
それが、千景の本音だった。止めようとしても、洪水のように溢れてくる気持ちは身体中を物凄い速さで回っていく。これまで表に出さず奥底で溜めてきたものが、数年間の時を経て外に出ようとしている。もしかしたら、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。自分を近くで見てくれていて、心を許せる、そんな誰かに。
「今日だって…!無視してやるって決めてたのに、体が全然動かない…だから、せめて迷惑だけは掛けさせないって…それだけは、絶対やらないと、って…」
言葉と言葉が上手く繋がらなくなってくる。気持ちを吐き出せば吐き出すほど、全身を走る血のスピードが高まり、何かを必死に抑えるように呼吸が乱れていく。固い床に置いた手をギュッと丸めて微かに震える様子は、千景の内側にあるものをよく表していた。荒めの深呼吸をすると、髪を強く掴んで、束ねていた紐に手をかける。
「千景ちゃん」
ふと、朔馬の声が響く。しかし、今の自分はその顔を見る資格はないと思い俯いていると、突然肩を掴まれ体の向きを変えられた。その衝撃で、解けかけていた髪がぱさりと静かに落ちる。目の前には、真剣な表情をした朔馬がいる。予想もしていなかった展開に、千景は「朔馬さん…?」と狼狽えた。
「一人で抱え込む必要なんてないんだ。怖かったら逃げて良いし、いつだって頼って良い。全部話せなんて言わないけど、全部閉じ込めなくたって良いんだ。少なくとも俺は、千景ちゃんの味方だから。辛い時は、甘えて良いんだよ」
これが、朔馬が抱いていた本音だ。正直に言うと、千景に頼って貰えるような存在ではなかったことの悲しさや、後悔や怒りも、言いたいことは沢山ある。千景が逃げた本当の理由も今知ったのだ。そして、千景は問題を一人で全て解決させようとする節があることに気が付いたのだ。人間が自分で抱えられる量には限界があり、限界が来た時は誰かに助けを求める。しかし千景はいじめのことを、周りに迷惑を掛けまいと一人で隠し続けてきた。だから、誰かを頼ることにも抵抗があるのだろう。それは美点でもあるが、いつか自分を壊しかねないものだ。このままではいつか千景は崩れてしまう。そう思ったからこそ、朔馬は無理にでも千景と顔を合わせた。
杏色の瞳が真っ直ぐに千景を映す。肩に触れる大きく厚い手は、まるで千景を包み込むかのように優しく温かく、数年前の夏芽と姿が重なる。
そして、気が付いたら朔馬の胸に顔を埋めていた。
「怖かった……怖かった…!」
暗い気持ちを溜め続けていた箱の一部が崩れ落ちる音がする。冷たい氷が日の光でゆっくり溶かされていくような感じが全身に巡る。堰き止められるものがなくなった沢山の感情たちは、今だと言わんばかりに心に昇っていく。
視界は水が広がったように滲んでぼやけ、細い息はやがて嗚咽になり、朔馬の服を掴む手は震えていた。ワインレッドが静かに顔を隠す。
「思いっ切り泣いていい。誰も責めたり笑ったりなんかしないし、俺が全力で受け取めるから。今くらい、本音で叫んでいいんだよ」
その一言に、まるで川が氾濫するかのように千景は大声を上げた。
「うわああああ!!」
泣きじゃくる千景を、時折背中をさすったり髪を梳いたりしながら、朔馬は静かに抱きしめた。
(やっぱり、女の子なんだな…)
普段は気が強くて意志の強い面がよく見られるが、触れた時の筋肉の薄さ、抱きしめた時の全身の小ささ、辺りに弾ける涼やかな木苺のような酸味のある香りからは、男女の違いを強く感じ、思わず千景も一人の少女であるということを意識してしまう。意識してしまったら、震える千景を優しく抱きしめることしか出来なかった。
「…すみません、見苦しいところを見せて」
「そんなこと…」
大泣きすること数分間。溜め込んでいたものを吐き出せたのか、千景は小さく謝って朔馬の胸から離れた。ついさっきまでの自分を顧みて恥ずかしくなったのか、それとも赤く腫れ上がった目元を隠したかったのか、目は合わせてくれなかった。
「でも、ちょっとすっきりしました。ありがとうございます。…やっぱり、朔馬さんは変わらないな……」
「ごめん、何か言った?」
ありがとうございます、までは聞こえたのだが、その先の言葉が小さすぎて朔馬の耳には届かなかった。しかし千景は、「それで良い」とでも言いたげに、はぁ、と息を吐いた。そして、ちらりと朔馬見ると悪戯っぽく目を細めた。
「いいえ、何でもありません。朔馬さんは優しいなって、そう思っただけです」
(優しい、なんて…)
優しい、そう言われてきたことは今まででも何度かあった。しかし今は、目の前の女の子一人助けることすら出来なかったことから、その評価を素直に受け取れなかった。今の自分に、優しさは殆どないと朔馬は感じていた。寧ろ、周りを巻き込まないよう考えていた千景の方がよっぽど優しい。
しかし、千景は朔馬のことを優しいと言ってくれた。それは朔馬への信頼もあるだろう。なら次に考えるべきなのは、千景が再び泣かせないようにする方法だ。登下校中等、いつも行動出来るような、それでいて、あの三人を追い返せるようなそんな人物が居れば…と考え千景の方を見る。光を乱反射したような潤んだ瞳を見た時、その条件に当てはまる人を思い出した。
「朔馬さん…?どうかしました…」
「千景ちゃん。明日から一緒に学校行こう。それから一緒に帰ろう」
「えっ…?」
千景は鳩が豆鉄砲を食ったような目をして朔馬を見つめる。突然そんなことを言われたら、誰でも困惑するだろう。しかし朔馬にはちゃんとした理由があったのだ。
「また今日みたいなことが起きた時、誰かと一緒の方が良いだろ。俺なら予定合わせやすいし、向こうも男がいるって分かったら変に強く出ないだろうし」
「……お気持ちは有難いですが、アタシとしては朔馬さんに迷惑掛けさせたくない気持ちの方が強いです」
「つまり俺を巻き込みたくないってことか?」
「…だって、朔馬さんには関係ないことですから」
溜めがあったのは、千景も本当は良い案だと思ったからだろう。しかし、誰かを巻き込みたくない、それが慕っている先輩なら尚更、と言ったところか。
しかし、その優しさからいつまでも自分の領域に入れてくれないとなると、ここは少し強引にでも言わなければいけないと考える。そうでもしないと、千景は自分を、更には多くの人を拒みそうだから。
「悪いな、俺はやると決めたら結構引かない性格なんだ。だから、千景ちゃんが断っても一緒に行く。良いか?とりあえず、明日のランニングは六時に俺の家の前集合な。異議があるなら分かりやすく簡潔に述べた後、代案を提案してくれ」
いくら相手に手を差し伸べても、向こうが手を取ってくれなければ意味がない。ならば、自分が迷っているその手を取りに行って引っ張って行けばいい。
千景は暫くぽかんとしていたが、揺るがない瞳を見て本心だと理解したらしい。ふっ、と一息吐いてから、少し困ったようにも嬉しそうにも見える笑みをして朔馬を見つめた。
「強引ですね。いーですよ、それで。異議ありません」
千景が提案を受け入れてくれたことに、朔馬は心底嬉しそうな表情をする。そんな様子の朔馬が、千景は四年前の真っ直ぐな瞳と重なった。
(だって、そういうところが…そういうところに、勇気づけられたんだから)
千景の中では、朔馬はただ憧れの先輩ではない。落ち込んでいる自分に勇気をくれる、救世主でありヒーローのような存在だ。
ずっと変わらない姿に、朔馬には聞こえないよう小さく息を吐く。心の中にもう暗い気持ちは無く、代わりに熱いような温かいような感情で満たされ、全身に巡っていく感じがする。
明日の朝へ期待が膨らんでいることを感じながら、千景はそっと目を閉じた。視界が暗くなっても、胸の内は、眩しすぎるほどの灯りで照らされていた。
お読み頂きありがとうございます。
長かったですよね、ごめんなさい。次回はきっと楽しい話です(てきとう)




