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ウィークリーマンションに荷物を置くともう約束まで時間がなかった。新しい人生の幕開けとなる最初の生活の舞台で大きく深呼吸をし、化粧直しもせず足早に池袋の家電量販店に向かう。
入口は相変わらず大音量の宣伝が流れ多くの人が行き来している。絵里の頭痛が始まる。人込みは苦手だ。ハンスはまだ来ていないようであちこち探してみる。今日の場所は神楽坂よりわかりやすいはずだ。
店の奥のレジの行列からまわりより頭ひとつ抜き出たハンスが絵里に長い手を振っている。何か手に持って並んでいる。入口の脇で会計が済むのを待っていると、絵里は仕事であることを忘れそうになる。結婚して十三年、最後のデートはいつだったろう。終わったばかりの結婚生活を今は思い出したくない。
「早く来て必要なものを買ったよ。今日はもういいや。」
ハンスの屈託のない笑顔に絵里は彼の子供の頃の顔を想像する。
「了解。じゃあ、明日の打ち合わせをして今日は解散しましょう。ランチします?」
「和食がいいなあ。」
あてもなく取り敢えず人込みを抜けて歩き出す。三倍の歩幅に絵里は小走りでついて行く。
「ここ行ってみても大丈夫?」
ハンスは日本食レストランではなくゲームセンターをみつけた。
「ゲームするところよ。」
「一度やってみたかったんだ。」
二人はピンク色の氾濫する店内に入っていき、ハンスはゾンビと戦うゲームを始める。主人公になったハンスは襲ってくるゾンビから逃げたり、戦ったりするのだが、何度やってもすぐに食べられてしまう。ゲームの中で逃げまどう様と元モデルとのギャップが絵里のお腹を捩らせ笑わせた。こんなにゲームの下手な人を見たことがない。真剣な顔のハンスにまた笑った。
最後にこんなに笑ったのはいつだっただろう。直人を視界に入れないようにしてから絵里は本当に笑ったことがなかった。数年?いやもっと久しぶりかもしれない。
ハンスは面白くなさそうに顔を顰めて、
「もういいや、行こう。」とシューティングゲームの音に追い立てられて外に出た。絵里は目じりの涙を抑えてハンス少年の後を追いかける。