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こんな東の果ての国で興味の同じ人と同じ空気の中で話をしている。ハンスの好奇心は瑞々しくジパングから絵里に移っていく。
「絵里は恋人いないの?」
「・・・もう別れたところ。」
嘘をついているのだろうか。まだ離婚は成立していない。でももう終わった。絵里は薄いグラスの縁から白ワインで言葉を流し込んだ。
「僕は二年前に六年付き合った彼女と別れたんだ。ひどい別れ方だったからもう当分恋人はいらないよ。仕事もすごく忙しいしね。」
ふとハンスの横顔が冷たい彫刻の大理石になり絵里の心を捉えた。派手な生活の薄っぺらい日常にハンスを置いていた絵里は自分のステレオタイプが恥ずかしい。冷たい大理石の中に閉ざされた暖かい蒸気に触れてしまったような気がした。
絵里は仕事関係の人間にここまで心を開いたことがなかった。正式に離婚が成立していないのに別れたなどと決して言わないだろう。私的なことはほとんど一切口にしたことがない。他人の私生活にも興味はない。なのにこの遠い寒い国から突然現れた白人に自分のことを話している。自分ではない自分に困惑しながら滑り出す言葉の羅列を見ている。いずれにせよ三週間で去って行く黒船にきっと害はない。絵里はグラスに残った白ワインを飲み干す。
「じゃあ、そろそろ行きましょう。明日は機材の確認とか、必要なものを揃えたいんですけど、アシスタントの方と相談したほうがいいですか?」
「いや、僕がいつも全部やっているから。明日昼頃連絡くれる?」
「はい、わかりました。タクシー呼びますね。」
「電車に乗ってみたいんだけど。」
もうすぐ四月だというのに駅のホームは風が強く冷たい。風の少ない場所を探して、ハンスはkioskの裏を陣取り絵里を呼ぶ。向かい合った絵里の手を花束のように持ち上げて暖かい息を吹きかける。ハンスを運ぶ電車が来るまで数分あっただろうか、絵里には永遠の一秒になった。
翌朝、後悔が絵里を目覚めさせた。なぜ仕事相手に私生活を話してしまったのか。馬鹿だった。距離を保ちたい。それは仕事のための安全なのか自分のための安全なのかわからない。ただ絵里はハンスの無邪気さに付き合うほどの軽い心は持ち合わせていなかった。三週間だけの仕事の付き合いなのだから。
取り敢えずウィークリーマンションを契約した。兎に角、すぐに家を出たい。休みの日に探せばひと月のうちに新しい部屋が見つかるだろう。午前中に家を出る。午後にはハンスと待ち合わせている。荷物は持てるだけ詰め込んで、残りは部屋が見つかってから送ろう。決断すれば後は流れていく。絵里は自分が流れを堰き止めていたことを今では説明できない。
直人は部屋から出られなかった。絵里の音が玄関から聞こえる。もう引き留める根拠がない。声を掛ける勇気もない。ドアを開ける愛もない。絵里がドアを閉める音がいつもと違って聞こえる。
絵里がいなくなった部屋に直人は足を踏み入れる。段ボールに二人の十三年は入っていないのだろうか。テーブルに離婚届が黙って置いてある。封筒には会社の住所があり切手も貼ってある。直人の署名を待っている。絵里はいなくなった。ほんとうに。
台所で食べられるものを探す。得意の野菜炒めを作る。絵里の嫌いなスパイスを多めに入れて好みの味に仕上げる。直人は真空の中で続いていく生活を一口一口味わって食べた。