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神楽坂の大通りから一本入ると駅から続く喧噪がぱたりと収まる。見番横丁を突き当たって小栗通りにつながる路地は石畳みが黒塀と一緒になって時間の錯覚を起こしてくれる。芸者小路の細い路地を抜けると約束した日本料理の店がある。古い一軒家の出で立ちで入口の足元に四角錘の行灯が置かれてある。
ぼんやりとした明かりに店の名が「ひより」と浮かんでいる。看板というには小さすぎ、しかも日本語で書かれた目印にデンマーク人が気づくとは思えない。絵里は駅で待ち合わせるべきだったと後悔した。
まだ約束の五分前だが携帯で連絡を取る。店の前で携帯の画面から目を挙げると、路地の角から背景には馴染むことのない細長い白人が絵里を見つけて手を挙げた。
「すごく素敵なところだね。今日はありがとう。」
ハンスの高揚した観光客らしさが絵里を安堵させる。
「よかった。わかりづらい場所だから見つけられないんじゃないかと思って。ごめんなさい、駅とかで待ち合わせればよかった。」
「大丈夫。僕はボーイスカウトやってたから道には迷わないんだ。携帯もあるし。」
靴を脱いで座敷に上がる。女将さんが注文を取ってくれる。今日のおすすめや飲み物やこの前に来た時の話やら絵里は数回来ただけなのに常連客のように気持ちよく接客してくれる。流石に評判の店だけある。ハンスは二人の日本女性のやり取りを映画のシーンのように眺めていた。言葉がわからなくても絵里のそつのなさは伝わる。店の人に敬意をもって優しく話す絵里が鮮やかだった。
運ばれてきた白ワインで乾杯をする。
「じゃあ、プロジェクトの成功を祈って。」
「僕の初めての日本上陸を祝って。」
「乾杯。」
次々に登場する日本料理は美しく桜の季節を表現している。ハンスは本物の日本料理に一つ一つ感激の言葉を伝えようとする。ヨーロッパの日本料理とは全く違う。ぎこちなく箸を使う大きな長い手を絵里は新鮮に見ていた。きっとたくさんの高級レストランで高級料理を口にしてきただろうに、小鉢一つに興奮して話すハンスが可愛く見える。
大の男を可愛く思えるなんて恐ろしく年を取ったように感じた。でも素直で可愛い。若い時から売れっ子モデルで高級車、高級ホテル、高級女、高級シャンパンしか知らないんだろうとぼんやり思う。派手な生活を想像する。
「絵とか文学とか映画とか好き?」
ハンスは仕事の話も業務連絡も端折って絵里の鍵をこじ開けようとする。
「ええ、大好き。オスカーワイルドとか・・」
「えっ本当?」
ハンスはテーブルをコンコンと叩いて驚いた顔を作る。
「僕も大好きだよ。画家は?現代美術が好きなんだ。でもキスリングとかも好き。」
「えっキスリング、知っているの?私の一番好きな画家なの。」
二人の周りの空気は少しずつ、しかし劇的に混ざり合っていく。二人を一つの空気が包むまでそれほど時間はいらなかった。