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「ただいま。」
「あれ、早いじゃん。」
直人はヘッドホンを片耳だけ外して部屋から出てきた。
「夜また出かけないといけないから。」
絵里は何年ぶりかの心臓の鼓動を感じ始めた。拍動。忘れていた心臓が動いている。
「話があるんだけど。」
「何?ちょっと待って。」
ゲームを途中で中断するのは耐えられない。直人は切りのいいところでコントローラーを手放しリビングにやって来た。
「俺、あんま腹減ってないから夕飯もう少し後でいいや。」
「私出掛けるから適当に食べて。」
「ふうん、わかった。」
「・・・離婚したいんだけど・・」
心臓が喉で鳴り、こめかみが痛い。離婚を考え出したのは最近のことではない。結婚して十三年。考えなかったのは最初の数年だけ。離婚という反旗がはためき出しても風はその日によって強さを変え、吹かなくなるのではないかとも思われた。足元の土から耕し直すには継続した力が必要だった。力が湧くほど絵里の心は健康ではいられなかった。だから風が吹く。風が収まらないのをわかっていながら、包まれた空気に波を立てられなかった。
「何言ってんの。なんでだよ。俺が悪いのかよ。浮気だってしたことないぜ。」
絵里がもう一緒にはいないことに何年も気づかないふりをしてきた。そのまま隠してしまっておきたい。少しでも長くこの決して居心地がいいとはいえない我が家を守りたい。絵里とは一生を共にすると一度決めたのだ。
「結婚したときからずっと定職に就いてって言ってるじゃない。その場しのぎで分かったって言うばっかりで何も変わらない。もういい加減無理。」
何度吐いた台詞だろう。言い慣れた文章は脳を通らず口から滑り出してくる。
「仕事行ってるじゃん。今たまたまないだけだよ。」
「新しい仕事の面接行った?いつ行った?」
「・・・また行くよ。」
絵里には直人の気持ちがよくわかる。自分が直人なら絶対に離婚なんかしない。一日中好きなことして、住むところも食べるものもあって何も困らない。なんでそんな生活を捨てるようなことをするだろう。直人をこの家から出すのは難しい。出ていくわけがない。
結婚した時に絵里の貯金と信用で手に入れたこのマンションもくれてやろうと考えていた。絵里には一人になる自由のほうが不動産より価値があった。何の未練もない。
「私、住むところ見つかったら出ていくから。」
初めて聞く台詞に直人の言葉がつまった。絵里が出ていくわけがない。十年以上の時間は何にもまして直人には説得力がある。
「どうすんだよ、このマンション。俺が管理費とか払うのかよ。」
直人の返答は絵里の腑に落ちた。離婚という選択肢が正解であることを答え合わせの前にわからせてくれた。私は愛されていないのだ。ぼやけていた事実は焦点が合って際が明確になる。私は愛されない。
「家賃よりずっと安いでしょ。それくらい働きなさいよ。」
「俺は絶対離婚なんてしないからな。」
独立を宣言して国旗を掲げたジャンヌダルクが、無言でリビングから続く狭い廊下を凱旋し絵里の部屋に入っていった。終わった。もう決めたのだ。なぜこれまで瓦礫の下でうずくまっていたのだろう。戦火で崩壊した世界は過去になり、手にした自由に喜びが湧いた。心臓の高鳴りが全身に広がり消えていく。もういい。もう我慢はいらない。