34
「絵里、林檎持ってきたよ。」
スティーブンが来るのを忘れていた。
「どうしたの?なんだか嬉しそうだね。」
微笑む絵里のまわりにはいつにも増して光が舞っている。自分にだけ見える幻影をスティーブンは楽しんだ。そして自分にだけ見せてほしいと望んだ。
「そう?いつもと同じよ。引継ぎのレポート作っていたら思っていたよりうまくやれたかなって自分を褒めてたの。自画自賛の笑顔かも。」
世紀の大発見を内緒にしておきたい。スティーブンに見せたら、きっとすぐに翻訳して教えてくれるだろう。それでは味気ない。それらしい言い訳をして繕ってみる。ひとつひとつエリザベートの文字を書き起こし翻訳してみる醍醐味を独り占めしたい。すべて訳し終えたらスティーブンに教えてあげよう。
「今度、フランスから来るクロエって、家族で引っ越してくるんだよ。旦那と赤ちゃん連れて。」
「へえ~大変ね。クロエとはこの前メールでやり取りしたわ。今度オンラインで会議する予定なの。スティーブンも入る?」
「いや、俺はまだ一緒にやることないから。今は家探しを手伝わなきゃいけなくて。」
「子供連れなら広くないとね。」
「うん・・・」
どこか歯切れの悪いスティーブンと林檎の皮を剥き始める。先週約束した林檎ジャム作りのためにたくさんの林檎を運んでくれた。スティーブンはどんなに小さな約束でも必ず実現してくれる。
「これくらいの大きさでいい?」
絵里は手のひらの一かけの林檎をスティーブンに見せる。宿題の工作を父親に褒めてほしがる子供のように見上げる。
「どれくらいでもいいよ。この林檎は煮ると形がなくなるから。」
「そうなんだ。アップルパイに入っているような形のある林檎煮なのかと思った。」
「だってジャムだろう。」
「そうか、そうね。」
ジャムを作る約束から林檎がやって来て二人で皮を剥き鍋に入れている。絵里はスティーブンとの些細な幾層もの時間が愛おしくなる。この優しいせせらぎはもうすぐ流れを止めるだろう。自分が止めるのではなくそう決まっているのだと絵里は予定通りに演じることにした。
スティーブンが帰ったあと林檎の香りで充満した部屋はまだ暖かく絵里の感覚を鈍らせる。スティーブンとの生活が上映される。幸せかもしれない。誰かに頼っていくら叩いても壊れないシャボン玉の中で遊んで暮らすのは楽しいかもしれない。愛してくれる人を愛することが幸せなのだろうか。絵里の想いは甘酸っぱい香りに乗って家の中をいつまでも漂っていた。




