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母親は承知の上で不倫を許していたんだ。嫉妬しないのか。結婚は仕事だと諦めていたのか。でもこの女の子は理解できてないから時代のせいじゃないのかもしれない。それとも若いからわからないのかしら。絵里は直接会って話が聞けないものかとまどろっこしく爪を噛む。最近見たSF映画を現実に引きずり込んでみる。
当時の女性の生きる道は結婚しかなかったのだろう。貴族の娘が魚を売ったり工場で働くわけにはいかないし、嫁いで夫に養ってもらうしか道はない。だから離婚などできない。どんな夫でも文句を言わずに我慢するのだろうか。結婚も仕事か。
それとも・・・母親は娘に嘘をついてはいなかったのかもしれない。他の女を愛する男を愛していた。夫のすべてを愛して幸せだったのかもしれない。頭の上から冷たい塊が絵里の胸まで降りていった。相手のすべてを愛することが本当の愛なのか。何をしようとされようと愛することが止められない。
それが本当の愛なのかはわからないけれど。自分が愛されていないと確信しながら夫を愛する。愛する人の愛は決して自分には与えられない。愛されるから愛するのではなく、ただ愛する。指先が氷になり、立ったまま固まっていく。底のない漆黒の泥濘を覗き見てしまった。恐ろしい愛の深さが絵里のつま先まで氷にする。
豪華な鏡台の前に座り髪を梳いてもらう娘と梳いてやる母。琥珀に閉じ込められた美しい母娘は息をせず微笑んでいる。娘は母の愛に納得し同じ道を歩いていくのだろうか。母はそれが幸せだと生涯をかけて娘に示して見せるのだろうか。二人は静かに絵里に微笑みかける。
『太陽が落ちてきた。私は焼け焦げてしまった。今の私はもう違う私になっている。太陽が家にやって来てノックをした。ドアを開けるとあの神父様が立っていた。きっと私は驚いた間抜けな顔をしていただろう。神父様は教会の硝子細工の寄付のことでお父様に話にいらしたようだ。そんなことどうでもよくて・・・神父様はヨハネス・ファン・ロイスダール。そんなことどうでもよくて・・・神父様は私のことを覚えていて、花屋にいたことを覚えていて・・・神父様は私をエリザベートと呼んでくださって、私にヨハネスと呼ぶように言ってくださって。ヨハネスは私を見つめて微笑んで、瞳が青く優しくて、勉強会にも誘ってくださった。ああなんてこと。なんてことが私のこの退屈な人生に起きてしまったのだろう。』
この子エリザベートっていう名前なんだ!名前を持った主人公は急に彩られて話しかけてくる。絵里はますます引き込まれていった。とうとう恋が始まった。神父はヨハネス。両想いになれるのか。高校時代に友達の恋愛を応援した時を思い出す。好きとか嫌いとか、くっついたとか離れたとか、今から思えば可愛い遊びも十代の自分たちにはいたって真剣な一大事だった。
しかし中世ヨーロッパの平均寿命は四十代後半くらいらしいからエリザベートの年齢なら現代の日本の平均寿命に換算したらもう四十近くになる。二十歳過ぎたら人生の半分が終わったところだ。きっともうとっくに結婚しなきゃいけない年だろう。どうするのだろう。神父と結婚するのかしら。絵里は文字を拾うのがまどろっこしく感じてきた。早く先が知りたい。はやる心をなだめる。
『彼の愛に包まれて今ここが天国になる。彼の抱擁は無限の広がり。どこまでも尽きることなく私を満たしてくれる。こんな幸せがあるなんて。彼の唇は優しく、愛の言葉を注いてくれる。暖かい愛を口移しで与えてくれる。』




