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終の人  作者: 百島圭子
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しばらくすると教会の鐘の音にも慣れてきた。時差ボケも収まり、鐘の音で浅い眠りから一気に現実に引き込まれることもなく朝まで眠ることができるようになった。


 土曜日。運河沿いに花屋、チーズ屋、生地屋、魚屋、八百屋が軒を並べる。いつにも増して多くの人がやって来る。絵里は一つ一つの店を覘いては客同士のやり取りを眺める。市場にもスーパーにも遠くの公園にも地図なしで自転車遠征できるようになっていた。もう立派な住民だ。


「おはよう、元気?」

「おはよう、うん、元気よ。」


お隣の骨董品屋は土曜日だけ店を開ける。主人のヤンは七十過ぎに見えるが身のこなしから六十代に違いないと絵里は予想していた。


「これ可愛いだろう。二百年くらい前の絵本なんだ。」


ヤンの手は優しく絵本を取り上げ絵里に差し出す。表紙の少女が微笑みかける。赤や緑やピンクが淡い色使いで暖かくさせてくれる。


「古いのに保存がよかったのね。しっかりしてる。」

「レポレロ型っていってページが折りたたまれていて伸ばすと2メートルくらいになるんだよ。」

「えーこんなに小さな本なのに?!」


驚く絵里を見るのが楽しみでヤンはいつもシルクハットの中に鳩を仕込んでおいた。


 市場へ買い物に行く習慣はヤンに会うことを含めた楽しみになっていた。運河沿いにゆっくり歩く。水面の光が寒い冬の終わりを待っている。行き交う人たちはみな大柄で絵里は子供のように小さい。ガリバーの逆バージョンの物語が書けそうだ。


「あっ・・」


 人込みにいつもハンスを見つける。近づけば違う人だとすぐにわかる。背が高いだけ。金髪なだけ。そんな人どこにでもいる。でもハンスはいない。ハンスは近づくと消えてしまう。海のあぶくのように。


 オランダ支社の立ち上げは日本と違って緩やかだ。いや、遅い。のんびりしている。苛立っていた絵里も徐々にヨーロッパのペースに慣れてきた。ハイヒールで小走りに動き回っていた日々がスニーカーで風を楽しみながら歩いている。


立ち上げメンバーは五人、フランス人一人とスティーブンを含めたオランダ人三人と絵里。オランダ人は開放的で裏表がない。少なくともわずかな経験から絵里はそう思っていた。付き合うのがとても楽だ。いいことも悪いこともなんでも話す。そして次の日に持ち越さない。


絵里は心地よく仕事していた。こんなにのびのびと働いていいのだろうか。ほとんど家で仕事をし、会議はオンラインだから、生活の中に仕事がするりと溶け込む。生きている実感がある。どうしても会わなければならない時はオフィスに行ったり、自転車で十分の家からスティーブンが来てくれる。たまに絵里が行くこともあった。


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