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終の人  作者: 百島圭子
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熱は下がったのだろうか。体調はよくなったのか。とっくに熱も下がっているに決まっている。起きた瞬間からハンスと過ごした時が過ぎた。四か月何も連絡はなく思い出と過ごす。長い時も、人を殺すほどの暑さも、時が経てば必ず去って行く。


繋がれた時は記憶の底にしまわれ、どれだけ経ってもまだ掘り起こされる。輪郭がぼやけても絵里には大事な時だった。時計の音が聞こえてこない。沈黙が絵里を縛り付け動けなくしている。耐えきれなくて送ったテキストにも返事はなく、いつまでもいつも待ち続けている。


家では飲まなかったお酒を飲むようになった。毎日飲んでいると少々の量では酔わなくなる。自分が娼婦のように思えてならない。妄想が酒の力で喜んでいるのか、いや、この自己分析が大量のデータから割り出された正確な統計であることを認めざるを得ない。


自分を愚かだと笑い飛ばす力は既にない。すぐいなくなる人をなぜ本気で愛してしまったのか、自分がつまらないくだらない人間にみえる。軽い女だと言えるなら幸せだ。恋する娼婦は惨めなだけ。本当に愛されている、真実の愛だなんて、憐れだ。


ハンスのほんのお遊びだと判決がでているのに、愛することを止められない。絵里は自分を持て余す。いくら飲んでも酔わせてくれない酒にも頼れない。一番好きな人とは一緒になれないのよ。昔、女友だちが言っていた口癖を思い出す。  


昼休み、気晴らしに外に食事に出ると来年のカレンダーが店先に登場し始めていた。今年も終わりか。新しい年が来ることに興奮していた子供の頃が懐かしい。今は毎年同じ。橋が落ちてくることはない。半年。離婚して、家を出て、引っ越して、一人暮らしが始まったのに少しも新しい興奮がない。


標本にされた絵里の心は小さなピンでとめられてガラスケースの中で乾燥剤の匂いを吸収している。干乾び始めた心はそれでもケースの中でハンスの連絡を待っている。身動ぎ一つせずに静かに耳を澄ましている。私は男に愛されたことがない。利用されるだけ。絵里は黙って見ている。愛されない絵里の心が標本ケースの中で動かない空気と一緒にじっとしていた。


 オフィスに戻ると廊下の向こうで河田が呼んでいる。

「ちょっと会議室に来てくれない。話があるんだ。」

「はい。」


河田の後に続いて会議室に入りドアを閉める。


「来年からオランダに支社を作ることになったんだけど、立ち上げのブランディングを手伝ってほしいんだ。一年だけ行ってくれないかな。フランスから行く予定の人が産休になっちゃって、一年繋いでくれたらその後はその人が引き継ぐから。産休明けるまで。」


 独り者で身軽な自分に白羽の矢が当たったのだと絵里は直感した。いい機会だ。日本に何も思い入れはない。橋が落ちてくることはないが、急に環境が変えられることがあるのだと人生の仕組みに驚く。


「はい、わかりました。」

「いいの?そんな二つ返事で。」


 絵里が離婚したことは知っていたが、こんなに簡単に承諾するとは河田の予想に反した。顔に出さないが大変なのだろうと自分なりに絵里を気に掛けていたつもりだが、女は思っている以上に強いのかもしれない。河田は抵抗できず自分の結婚生活を重ねる。


 絵里は席に戻りすぐにマンションの契約を確認する。荷物の発送やら、税金、住民票、銀行、生きているうちに絡みついてくる蜘蛛の糸を一本一本確認して外していかなければならない。連絡先が変わることを知らせておかなければいけない人を携帯電話でチェックする。


ハンスには赴任のことは言わない。的外れな意地だろうか。淡い未来の期待を戒めたいのか。絵里はハンスに拒絶されたのだと哀れな心に何度も言い聞かせる。


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