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搭乗のアナウンスが始まった。ハンスは駆られるように携帯電話を取り出し急いで絵里を探す。
「絵里?今飛行機に乗るところ。いろいろありがとう。」
日本を発つハンスの声に考える間もなく涙がこみ上げた。
「・・・気を付けて。」
「着いたらまた連絡するよ。」
「待ってる。」
何も言えなかった。約束もできない。通りすがりの旅人なのだと言い聞かせる。ハンスに愛されているのだと信じる自分を説き伏せるように宥める。それでも愛している。彼は戻って来る。何の根拠もない思いを溶かすことができない。電話を切ってハンスが日本から消えていくことを想像する。一緒に過ごした時間が小さくなって消えていってしまう。絵里は時間の断片が蒸発する前にしまい込む。
飛行機の窓から振り向いて微笑む絵里の優しさが見える。ハンスは絵里の写った記憶をすべて窓の外に置いて、いつもは見ない機内雑誌に手を伸ばした。鮮やかな記憶も必ず褪せていくことをよく知っている。真実ですら時間が溶かしてしまうことをハンスは知っている。
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「どうしている?元気なの?」
絵里は思い切ってテキストしてみた。日本を去ってから二週間、連絡を待つ自分がそろそろ嫌になってきた。数時間後、絵里の二週間が瞬時に圧縮される。
「週末友達と海に行っていたんだ。国境のところだよ。」とハンスは海辺ではしゃぐ様子の写真を送ってきた。夕陽の蜂蜜がかかった海辺もハンスもとろけるように美しい。
「綺麗な海ね。寒くないの?」
「海にはまだ入らないよ。」
つまらない天候の話をつつくと膨大な距離が二人に襲い掛かって来る。無抵抗に降参するしか手立てはない。
「風邪ひかないようにね。」
「絵里も気を付けて。」
久しぶりの会話は絵里を慰めるでもなく、ただアルファベットが空しく漂っているだけだ。絵里は色のない生活に戻り昨日と同じ時間を畳んでいく。




