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金沢の武家屋敷跡に移動する。ハンスに続いて絵里はタクシーに乗る。今朝の太陽は透き通った空気を通して煌めいている。ハンスの瞳は空気よりも青く透明で白い光の滴がぽろぽろと零れ落ちた。初めて見る光。零れ落ちた光を手のひらで掬い集めたい。でも一瞬で空気に溶けてしまう。光の刹那を知りながら狭い座席で触れ合う体が昨日とは違う。少しの躊躇いもなく触れるハンスの長い脚が愛おしい。
武家屋敷の「こも掛け」はもうすでに外されていた。土塀と石畳の対比をハンスは慎重に選んでいく。アシスタントの動作が急に忙しくなり撮影が始まる。
小一時間するとハンスは納得した様子で次の指示を出し、絵里は次の撮影場所である茶屋街に案内する。
時代劇の一場面を歩いているような楽しい錯覚を味わっていると手をつなごうとする長い腕が伸びてくる。ハンスはアシスタントの存在など少しも気に留めない。自分以外はみな西洋人だからか絵里は時代劇の舞台で手を繋いで見せる。
男の人と手を繋いだのは何年ぶりか十年以上か。自分の中の少女がまだ生きていたとは思ってもいなかった。スカートの裾が翻ることなどお構いなしに駆け出す少女を止めなかった。このままついて行きたい。どこまでも。小さな驚きの笑顔がハンスには新しく美しく見える。
木造二階建ての家々が連なる茶屋街は整然と観光客を迎えている。細い路地の遠近が気に入ったらしくハンスはしばらくシャターを切り続けた。
次は野村家に移動し、屋敷内部や甲冑の撮影が始まる。屋内の光の調整に手間取ったが、予定の時間を少し残して日本庭園の撮影に進んだ。ハンスは二人の僕を従えて王国を支配していた。絶対的な権力を振り回し世界を構築している。決して妥協することはなく、外からの言葉では絶対に動かない。自分の世界を信じ切っている。王国の君主として君臨する。
「ご協力ありがとうございました。お世話になりました。お陰様でいい写真が取れました。」
絵里は野村家の屋敷を管理している人にお礼を言い丁寧な日本人のお辞儀をする。アシスタントの片づけを手伝う。喜んで僕の一人と化す。外に出ると薄暗い景色の中に気の早い行灯が灯っている。機材とアシスタントをタクシーに詰め込んで、王様は絵里と歩いてホテルに帰るとお達しを発布する。
石畳は何度も舗装し直されているのか道によって石の形が違っている。肌寒い空気を行灯の明かりがところどころ溶かしている。ハンスは建物の影や看板の裏に死角を見つけると、
「comeおいで」と素早く言う。
小鳥が羽ばたいてくるのを知っているから。デゥミ・ポワントの羽ばたきでジゼルがやって来ては自分の胸に停まる。小さなキスを渡すと小鳥はまた忙しく飛んでいく。朝日がこの美しい月の後ろで静かにジゼルを見つけるのを待っていることは誰も知らない。いや、賢い絵里は勘づいていたかもしれない。ただ無意識に意識して目を背けたのかもしれない。光の中で朝露になるまで踊り続けたい。
「日本では公共の場でキスしているのが見つかったら刑務所行きなのよ。」
ハンスは目を見張って極東の掟に唖然とする。絵里はその顔がとても雑誌には使えない素材に見えて笑い声をあげてしまう。
「嘘よ。」
「冗談だろう。信じかけたよ。」
絵里の笑い声はハンスの笑い声に重なっていく。
少し先にボート乗り場が見える。ハンスは急に走り出してチケット売り場や入口を探している。
「もう暗いから終わりよ。」
絵里は諦めきれないで柵の中を覗き込むハンスに声を掛ける。
「今度見つけたらボートに乗ろうよ。」
「また今度ね。」
今度などないと冷たく頬を叩かれても、絵里はどこかから伸びているオールを手繰り寄せようとする。掴んだ手を放さない。そうすれば消えることはないと信じた。




