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アシスタントも合流し、翌日からはスタジオでの撮影が淡々と進んでいった。絵里はただ流れが滞らないように、撮影の順序から空調や飲み物まですべてに目を光らせた。厳しいハンスに最高の仕事をしてもらうように彼の周りの空気まで制御したかった。普段の優しい眼差しとは別物の鋭い青い目線は絵里を突き刺してしまう。スタジオの空気は張り詰めアシスタントたちが地面を這うように動き回っている。
短い休憩に差し出す紅茶は緊張して動かない空気に湯気を漂わせる。ハンスの僅かな微笑みが絵里の視線の軌道に乗ると暗号が音のない空気を通して伝達される。二人しか知らない時間が極秘機密になって交わされる。お互いの視線に乗った暗号は二人の心で解読されていく。誰にも気づかれずに。
数日スタジオ撮影した後、金沢に移動し二泊三日の屋外での撮影が始まった。
夕方、金沢駅から金沢港方面にタクシーで向かう。最近できたばかりの高層ホテルは穏やかな辺りの景観から浮き上がり、合成写真のように聳え立っている。
絵里は各人の部屋をチェックインし、夕食のアレンジをする。寿司が食べたいというハンスに反してベジタリアンの二人が難色を示す。結局二手に分かれて食事を取ることになった。絵里は寿司屋とベジタリアンレストランを手配してタクシーを呼んでもらう。
フロントと絵里のやり取りをハンスはまた無意識に見ている。絵里の横顔に揺れるピアスも、話しながらトントンと床を蹴るつま先もハンスの視界を独占する。
フロントで勧められた寿司屋は客が十人くらいしか入れない小さな店だった。店先には笹が植えられ暖簾の下の足元は打ち水をしたようで黒い石が光っている。カウンターに六人、座敷に四人といったところだろうか。
入った途端に香る酢飯と檜が混ざったような寿司屋独特の空気が溢れる。この清潔感が絵里は大好きだった。金沢の寿司をハンスにたっぷり味わってもらいたい。ハンスは高揚した面持ちでカウンター席に着く。店中をぐるりと見渡し、
「本当の寿司屋だね。」と相変わらずの少年ハンスになった。撮影中の人物はどこに行ってしまったのか、絵里は少年にもどったハンスに優しく話しかける。
「板前さんにお任せしましょう。食べられないものはないでしょう?」
美しい濃紺に近い青いボトルの加賀鳶で乾杯する。柔らかい華やかなうま味のある大吟醸は仕事を忘れさせ二人を楽しませた。
「日本酒飲んだことある?」
「初めてだよ。こんなに美味しいんだね。」
寒い国の人はいくら飲んでも酔わないし変わらない。それでも味はわかるようで絵里はほっとした。次々と目の前で踊る新鮮な寿司にハンスは毎回飽きずに喜ぶ。絵里は食べるのを忘れてハンスのすべてを胸の中に受け入れた。
二人は今、日本の端っこで現代美術から日本の柳の木の下には幽霊がいることまで話した。尽きることなく二人からは言葉が溢れてくる。音符と音符の間でも、文字と文字の間でも二人は心地よかった。むしろ、音のない、文字のない虚空にある二人の繋がりに無抵抗に包まれていった。




