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終の
皿に張り付いた玉ねぎがこの先の数時間を瞬時に頭に描いていく。食器を運んで、洗って、冷蔵庫に足りないものをみつけ、エプロンの汚れを気にして、今日洗濯しようと思う。明日は生ごみを捨てられるのだったろうか。台所の床掃除をしたいけれど疲れた。明日の支度をして風呂に入って眠る。
ほんの数秒で今日の終わりまでが見える。そして朝がくる。六時四十五分に起きる。化粧して会社に行く。絵里にはもう怒る情熱も嘆く自己憐憫もみつからない。ただ見せられた夜を抜けるだけだ。
直人に皿洗いを頼む言葉を口にするのも疎ましい。働くように言いもしなくなったのに食器を片付けるように言うのもあほらしい。
「今日さあ、凄いバイクあったんだよ。別に探してたわけじゃないんだけど、そういうときのほうが出会うんだよねえ。そういうのあるじゃん。何とかの法則とかいうやつ。そろそろ買い替えようかと思ってたしさ・・・・」
直人の言葉が長く伸ばした絵里の細い髪の毛の間を通り抜けていく。また出費か。一体、この男にどれくらい金を使ったか、髪の先を摘まみながら考えた。おもむろに髪を一つに束ねて立ち上がり風呂場に向かった。
絵里の視界に自分が入っていないことを直人はもう気にしなくなった。沈黙で密になった空気の隙間に手を伸ばして絵里に触れようという衝動に襲われることもある。でもその先が楽園とは限らない。
こんなところに黒子ができている。シミ?このまま朽ちていくのか。生き物は残酷にその価値を見せてくる。鏡の虚空を掴んでも落ちていく。逆らうことはできない。生き物は朽ち果てなければならない。もうすぐ終わるのだ。悲しみも感慨も喜びもなく静かに絵里は理解した。四十か。
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駅から外堀通りへ大手町に向かっていけば鎌倉橋がある。この辺りは昔、川がたくさんあったらしい。銀座、築地、京橋辺りの川を埋め立てなければ東京もヴェネチアみたいになっていたかもしれない。通勤しながら毎朝同じことを考える。高速の下をくぐって抜ける時はこの橋が今落ちたらと思う。
毎朝同じことを考える。落ちてほしいと願う。絵里の願いは届かず会社の看板が見えてくる。古いビルだがリフォームを重ねてそれなりのお洒落な構えになっている。フランスが本社の家具屋には見た目も重要だ。
「おはようございます!絵里さん、聞きました?」
薄いピンクのブラウスは斎藤の明るい頬を照らして一層可愛らしく輝く。下の名前で呼ぶのは帰国子女のせいか、今どきの子なのか、彼女の印象を軽くさせる。男に媚びることを躊躇なくこなす斎藤に絵里は安心していた。きっと上手に生きていくのだろう。
「おはよう、何の話?」
「来期のカタログのことですよ。河田さんがやっと承認が下りたって・・・」
斎藤はどんな人に出会って、どんな人生を作るのだろう。白いふっくらした頬とすらっと伸びた指先のネイルが楽し気に笑っている。斎藤がこれから誰かと出会って恋愛して結婚して一から関係を築いて、と想像すると可哀そうでならない。
「河田さんに絵里さんが来たら会議室に来るように伝えてくれって言われて。」
「ありがとう、わかった。すぐ行くから。」
新卒だから二十二、三かぁ、自分のほぼ半分である斎藤がもはや羨ましくはない。