⑦
そちらへ顔を向けても、彼女は微笑みの一つもくれない。甘えを赦さない姿勢を崩さない。
「さっさと火を消す準備をする! 他の人にやらせるな。あなたがやらないとダメ! 自分の尻は自分で拭うもの! ほら、ウジウジ悩んでないで、さっさとしなさい!」
と言って、女性は敦也の尻をきつく叩いた。叩かれた箇所がじんじんと痛むが、背中を押すような、厳しい優しさが伴っていた。敦也は応援されているようで嬉しくなり、顔面蒼白の感情の死んだ状態から立ち直ることができた。
「え、でも……どうしたらいいのか……」
しかし、敦也は未だに混乱していて、何から始めたらいいのかわからなかった。頭の中は真っ白で、今は正に死地から生還したような戦士の気分だ。とりあえず、生きて還って来られて嬉しいとだけ、頭に浮かんでいるような、そんな感じだった。
何をすればいいのか、教えてもらわなければわからない幼児のように、自己という存在が迷子になっていた。
「アホなの?」
「アホ……って」
「どこかから水もらって来ればいいの。そこに飲み屋があるでしょう? そこのご主人にバケツと水を貸してもらいなさい。土下座してでも頼まないと。お金がないなら、私が払ってあげるから。ほら見て。事故現場が凄いことになってる。一刻を争う状態よ」
女性は例の現場を指差して、敦也に状況を掴ませた。立ち上る煙と炎。阿鼻叫喚する人々。地獄絵図という表現が相応しい、橙色と灰色のグラデーション。混ざり合うのは、死の音色。
いつの間にか、事故に無関係な野次馬が群がっていた。何があったのかと興味津々(きょうみしんしん)に覗いて、携帯で写真を撮っている。ソーシャルネットワーキングサービスにでもアップロードするつもりなのだろう。やるべきことはそうではないのに、この状況を見て愉しんでいるのか。
駄弁っている場合ではないと脳が判断したのは、それからだった。
「やべ……俺、やらないと。やらなきゃ。俺が……、みんなを助けなきゃ。俺がやったんだから、俺が悪いんだから、俺が頑張らないと、みんなが死……」
自分に言い聞かすように、敦也はぶつぶつと呟く。そこまで口にして、敦也は言葉を呑み込んだ。言ってしまうと、現実にそうなってしまいそうな気がしたから。
そんなのは、いやだ。
「今にも火が燃え移りそう。早く」
女性は敦也を急かすだけで、手を貸すつもりはないらしい。人命救助が最優先だというのに、彼女は敦也を立ち直らせることだけを考えているようだ。
彼女は何かが見えているかのような面持ちで、超然と腕を組んで仁王立ちしている。まるで――未来を見てきたかのように、恐るべき冷静さを保ち続けていた。