プロローグ
『――あなたも私も救われるべき存在だ。』
彼女がそう言ったのは、いつだっただろうか。
敦也は詳しいことは全く覚えていない。とうに忘れてしまったのだ。そんなこと、程度だったのかもしれない。忘れてしまうぐらい、記憶に残らない一過性の出来事だったのかもしれない。それでも、何十年経った今でも、覚えていることはある。
彼女を心の底から愛していたこと。それは今も昔も変わらない。人を愛するということがどういうものなのかを懇切丁寧に教えてくれたのは、彼女だった。
はてさて、男女の友情などというものは、成立するのか?
敦也は過去を変えたいと常々思っていた。あの日出会ってしまった不思議な雰囲気を纏った女性は、酷く病んでいた。変な人だった。普段は個性的な正義感の持ち主なのだが、時折おかしなことを言い出す。妄想の塊のような話を、延々とするのだ。
敦也はそんな彼女のことを可哀想な人だと思っていた。自分のことを見て欲しいばかりに、おかしな話をして、嘘を言って構ってもらおうとしているのだと。
だが違った。彼女の言うことは妄言ではなく、すべて本当のことだった。
信じてあげられれば、彼女を救うことができたかもしれない……と敦也は後悔した。
「嘘吐きは嫌い……」
彼女が言った言葉で、今でも覚えていること。それはさっきの言葉とその言葉だけだった。
一人、暮れなずむ空を見上げて佇んだ。綺麗だ、と敦也は思った。昔ならば、空を美しいなんて思わなかっただろう。景色を眺めて黄昏れる余裕もなかった。自殺したいと願うほど追い詰められて、他人のことなんてどうでも良かった自分が、こんなにもこの世界を美しいと感嘆するなんて、あり得なかったのだ。
六十年ほど前に卒業した私立大学の正門の前で、敦也は感慨深げに校舎を見回す。ヴァチカン市国に匹敵する広大な敷地と西洋の城みたいに豪奢で真っ白な校舎。学校で飼っている犬や猫が遊び回れる庭園が覗く。目の前に広がる平面の風景は、どこまでも続いてゆくかのような水平線にも似た趣を醸し出していた。ある種の魔力を持った、思い出の深き場所。
すべては、ここから始まったのだ。
本日は土曜日で、全校が休校だったものの、熱心な学生が休日でも大学に来ていて、ちらほらと見かける。部活動をしているのか、研究に励んでいるのかはわからない。けれど、みんな輝いているように見えて、眩しかった。何かに一所懸命になる姿は、今の敦也の心にも込み上げてくるものがある。あれが青春なんだなと、懐かしさで思わず破顔一笑する。
あの頃は、何もかもがいやでいやで仕方がなくて、まさか自分がこんな人生を歩むことになるとは、思いもよらなかっただろうと。人として立派に成長した自分を今の学生達に見せるために、母校に足を運んだのだ。
ノーベル医学賞を取った医学博士として講演をするために、ここにこっそりやって来た。所謂サプライズ。白衣も着ておらず若者に変装しているので、誰にも正体を気づかれていない。実は国立の大学附属病院をこっそり抜け出してきたのだ。本来なら医療従事者のみんなに怒られて当然なのだが、院長でしかも世界的に有名な教授なので他人に叱責されることはない。誰も彼の上に立てる器を持っていないので、敦也は少し物足りなく感じていたのだ。誰かに叱って欲しいなと敦也は思っていたりする。自分を叱ってくれた人達は、もういなくなってしまったから。
敦也は老人になっても、ちょっぴり……いや、かなりやんちゃをしていた。自分の跡継ぎになってくれそうな人物を捜し求めて、色々な場所でこっそり講演会を開いていたのだ。お金はもらっていないので、ボランティアでやっていた。
それは、死期を間近に控えた人間が最期にやることと同じだった。
自分の遺志を継いで欲しい。この思いを、次の世代に託したい。
胸ポケットに入れた携帯電話に百件を超える着信があった。留守伝言を再生する。
『大守先生。至急病院までお越しください。急患です』
「ああ、今行く」
携帯に向かって老いぼれた声を放つ。
夕日が綺麗だな、と伝う滴を頬に。微睡み、やがて意識が溶けていく。深い、深い闇の底へ。
……これは、大守敦也と香名椎菜が生んだ、愛と悲劇の物語。