執務室にて——こんにゃく
執務室に入ると、お父様は頭痛を堪えるように額に手をあてて天を仰ぎ、お母様は水も滴るいい女と化し、セヴァスは何故か私の方をチラチラ見ながら額に汗を滲ませている。
何この混沌……。
いったい誰が何をどうしたらこんな事になるのかしら?
私がドン引きしていると、お母様がジロリとこちらを睨んだ。
あ、これはヤバい……
「アグリ。ノックもせずに扉を開けるとは何事ですか。淑女にあるまじき行為ですよ」
「も、申し訳ございません……」
侯爵領に行けば農業やりたい放題と思ってテンション爆上がりしてました。
メイドのミーネは毎朝ノックも無しに部屋に入って来ますけどね……なんて言おうものならまた正座コースなので沈黙を貫く。
しかしお母様の怒りはまだ収まりそうに無いので、結局説教コースかな?
少しでもおべっか使っておこうっと。
「それよりお母様、濡れたままでは風邪をひかれてしまいます。私のスキルで乾かしますね」
農業と乾燥は切っても切り離せないものだろう。
穀物を長期保存する為に乾燥機を使ったり、干したりするのは定番である。
つまり私のスキルで使えないなどという事は、あるはずがない。
右手に魔力を集め、ドライヤー程度の温風になるようにイメージしてお母様に向けて風を送った。
温度がドライヤー程度でも、そこはスキルで作ったいわば魔法なので、乾燥時間はかなり短縮される。
「こ、これは風と火の合成魔法っ!?こんな事まで出来るのですか……」
合成なんてしてない元から温風の魔法だけどね。
私のスキルはイメージ次第で、農業に関わってさえいれば色々な属性の魔法が使える。
水や土が最も相性がいいと思うけど、やろうと思えば他の属性も出来るんじゃないかな?
ゴーレムはさすがに作れなかったけど。
え?スキルが「レベルアップすれば使える」って言ってる気がする。
そうなんだ……。
じゃあレベルアップする為にも、まずは侯爵領に行かないとだね。
濡れが引くと共に、お母様の怒りのボルテージも下がって来たようだ。
とりあえず説教は回避出来たかな?
と思ったが、お父様の方が真剣な顔で私に問うてくる。
「アグリちゃ……アグリ、殿下を帰らせたというのは本当なのか?」
あ、やっぱりお父様に確認せずに勝手に行動したのは拙かったみたいだ。
でもこちらにも言い分はある。
「殿下は眼が充血して顔も赤く紅潮するなど、かなり体調が悪いところを押しておられたようでしたので。私との話などいつでも出来る事です。それよりも殿下のお身体に何かあっては大変ですから、勝手ながら急ぎ帰宅していただきました」
私の報告に、お父様はこめかみを揉みほぐすように顔に手をあてて俯いた。
対応としては間違って無いと思うんだけど、お父様は納得していないようだ。
「はぁ」と何か呆れたかのような溜息をついていた。
あれれ〜、おっかしいな〜?
貴族の対応として申し分無いつもりだったのに。
令嬢としてはそこまでやっちゃいけなかったのぉ?
「それで、侯爵領へ行くというのは?」
「ご存知の通り、私はまだスキルの制御が難しく、侯爵邸の庭で練習していては、庭を更地にしてしまうかも知れません。学園の入学までに十全に使いこなせるようにしておきたいですし、広い土地のある場所で訓練した方がいいと思うのです。侯爵領であればお兄様もいらっしゃいますので、適しているかなと……」
「しかし、侯爵領に行けば殿下が会いに来づらくなるだろう?」
まぁそれも目的の一つではあるからね。
まだ殿下の魔眼にスキルを看破される訳にはいかないのですよ。
って言うか、別に殿下が会いに来づらくなっても困らないよね?
私がキョトンとしていると、お父様はまた大きく溜息をついた。
「まったく、婚約者候補としての自覚が足りない……はっ!?」
ん?お父様、今なんておっしゃいました?
よく聞こえなかったけど、こん……こんにゃくって言ったのかな?
生育まで数年かかる上に、寒さに弱い作物よね。
でも、だからこそ育て甲斐がある。
幸い侯爵領はわりと温暖な気候だし、こんにゃく栽培に着手するのも悪くないかも。
あれ?何かお父様が青ざめているんだけど、どうしたんだろう?
それを見たお母様が徐々に鬼の形相へ変貌して行く。
「あなた、まさか……」
あ、お父様が目を逸らした。
何が起きてるのか知らんけど、これは荒れるな……。
早々に退散した方が良さそうだ。
「ではお父様、そういう事で」
「あっ、待ちなさいアグリっ……!!」
お母様の怒りのとばっちりを食うのは勘弁願いたいので、私はさっさと逃げますよっと。
素早く扉を閉めると、執務室の中でお母様の魔力が膨れ上がったのを感じた。
間一髪っ!
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
夫人の魔力当てをギリギリ躱し、這々の体で侯爵は叫ぶ。
「ちょっ!ま、魔力を収めなさいっ!!」
「あなた、まさかアグリに『殿下の婚約者候補』になった事を言い忘れてたなんて言わないでしょうね?」
「ひいっ!す、すまんっ!!言ったつもりになってたんだが、よく考えたら伝えていなかったっ!!」
即座にソファーの横へ移動し、地面に額を擦りつける。
「どうりで、どうにもアグリの言動がおかしいと思ったのです!スキルを得たのであれば、次には殿下との婚約に向けて行動をとる筈なのに、そんな素振りを全く見せないのですからっ!!どこの世界に王族の婚約者候補になった事を言い忘れる親がいるんですかっ!!」
「こ、ここにいました……ごめん」
「ふざけないでくださいっ!!」
セヴァスは気配を消して嵐が過ぎ去るのを待った。