見ているだけで
汚れたシーツの入った籠をかかえて、洗濯場にいくと既に侍女たちが洗濯をしながら井戸端会議をしていた。
ここにいるのはみなアーナ帝国の軍の兵舎専属の侍女だ。
私、エメリア・ハルバートの担当している第五師団兵舎は他の兵舎より洗濯場から遠い。同じ時間に仕事を始めれば当然こうなる。
私は他の侍女たちの邪魔にならないように、洗い場の一番隅を陣取る。正直、既に盛り上がっている中に入って行くのはやりにくいことこの上ない。ただでさえ、この洗濯場に来ている侍女たちは私より年下で、何をするにも壁があるのだ。取り立てて嫌われているわけではないと思うけれど。
私は十七歳でこの仕事に着いた。実家の子爵家であるハルバート家の経済状況が悪かったからだ。ここの仕事は楽ではないぶん、給金がいい。それから八年。ハルバート家は何とか持ち直し、今は兄が家を継いでおり、もう、送金の必要はなくなった。
高給ではあるが、長く勤める女性は少ない。その証拠にここに勤めている侍女は十人だが、ほとんどの子は十代である。
この国の女性の結婚適齢期は二十歳前後。二十歳を過ぎた未婚の貴族子女は、仕事をしていること自体、体裁が悪いとされている。もちろん二十歳以上の職業婦人がいないわけではないが、たいていは既婚者だ。つまり私は変わり種である。
彼女たちの関心は軍のエリートたちとの恋だ。それは当然だろう。この仕事をしている女性たちのほとんどは下級貴族の娘だ。家に持ち込まれる縁談を待つより、その方が確実で、よりよい物件を選ぶことができる。全員ではないが、結婚までの『腰掛け』のようなつもりでこの仕事をしている者も多い。
「カーライトとターナーって、どっちが好き?」
「私はカーライトかなあ」
侍女たちは手を動かしながら、話に花を咲かせている。
別に聞きたいとは思わないのだけれど、聞こえてくるのだから仕方がない。彼女たちの話題は、騎士たちの品定めから、オシャレ、食べ物、そうして下世話な噂話と多岐にわたる。
どこでどうやって仕入れてくるのかは知らないが、彼女たちの話題は尽きることがない。
「そういえば、オーギュスト団長が、この前美女と一緒にレストランから出てきたのを見たって」
「えー、嘘。どこの誰?」
その名前に思わずびくりとして、私は耳をそばだてた。
ニック・オーギュストは、第五騎士団の団長だ。侯爵家の次男坊で、若くして団長になった実力者だ。現在二十八歳。眉目秀麗で、女性の人気も高い。
「私も聞いたわ。宝石店に女の人と入って行ったって。きっと婚約指輪を買いに行ったのよ!」
別の侍女が熱弁する。
「本当に? 今までそんな噂なかったじゃない?」
「本当よ。見間違いではないみたい」
「そんなぁ」
侍女たちが悲鳴をあげる。
オーギュストは今まで浮いた噂こそなかったが、とにかくモテる。
真面目なオーギュストが遊びで女性と付き合うことはないだろう。きっと、将来を見据えた相手に違いない。
姦しい声を聞きながら、私は黙々と洗濯を続ける。
そうなのだ。いつかこうなることはわかっていた。氷水を頭からかぶったような気持ちだ。
私は、ニック・オーギュストが好きだ。
彼と私は年が近いことと、彼の気さくな性格もあって、私を『友人』と呼んでくれる。私は彼を友人と思ったことは一度もないけれど、それは私の問題だ。
彼との物理的な距離が近いせいで、つい忘れてしまいがちだけれど、彼は本来、とても遠い人で、友人という立場ですらおこがましいとわかっている。
完全な片思いで、身分も違って、どう頑張っても手の届かないことがわかっている相手だ。
いつか諦めなければいけないとわかっていても、この仕事を続ける限り、そばで見ていることは出来ると先延ばしにしていた。
「でさ、昨日食べたパンがね」
話題はまた別のものに変わっていたが、もうその声は私の頭には入ってこない。
私は昨日届いた兄の手紙を思い出す。
会ったこともない男性との縁談の話だった。
兄は働きに出た私に後ろめたさを感じていて、良き縁談を探すことで償おうとしている。
もちろん、根底では私のことを案じてのことだ。
今までは兄から持ち込まれる縁談は、全て断っていた。オーギュストを好きなまま、他の男性に嫁ぐなんてできないと思っていたから。
でも、いい機会なのかもしれない。
このままここにいても、私の想いが叶うことはないだろう。見ているだけでいいと思っていたけれど、オーギュストに恋人がいると聞いただけで胸がじくじくと痛む。
彼が婚約し、結婚するとなった時、私は耐えられるのだろうか。
少なくとも今は無理だ。
オーギュストに恋人ができたのなら、これを区切りにこの恋の幕を下ろし、ここを離れるべきだろう。見ているだけでいい、なんて自分に言い聞かせていたけれど、そんなのは嘘だ。
縁談は必ずしもまとまらないかもしれないけれど、ここをやめれば、オーギュストに会うこともない。
会わなければ、いつの日かきっと忘れられる。
洗濯物をすすぎながら、私は心を決めた。
食堂のモップがけを終えて、私は大きく伸びをした。
今日の夜は食堂がお休みなので、仕事はこれで終わりだ。この時間に仕事が終わるのは久しぶりである。
私は荷物をまとめて、職場を出た。
空は茜色に染まっている。まだ明るい空に一番星が輝く。
今日は兵舎の食堂がお休みだ。
料理人にも定期的な『お休み』は必要だし、何より、騎士たちの息抜きにもなっている。
食堂が休みの日は、門限はいつもより遅く設定されており、明日は騎士たちの訓練もお休みだ。
今日は一部の騎士と兵舎勤めの侍女との親睦会があるらしい。私は行かないけれど。
仲が悪いとかそういう問題ではなく、入った当時ならいざ知らず、二十五歳の私が参加したところで、誰も喜ばない。
「エメリア」
不意に声をかけられ、振り返ると長身の男が立っていた。
ダークブラウンの短い髪。太い眉。彫りの深い整った顔立ちで、鍛え上げられた体躯。
軍の訓練着をラフに着崩しているが、それがまた似合っている。
「オーギュスト団長」
胸がドクンと音を立てた。
第五師団団長のニック・オーギュストだった。
相変わらず、優しい目をしている。
「遅いな。今帰りか?」
「はい。ちょっとだけ遅くなりました。団長こそ、親睦会には行かれないのですか?」
「ああいうのは、若い団員が出るものだ」
オーギュストは肩をすくめる。オーギュストは騎士としては『若い』とは思うけれど。それに出会いを求めて、彼が親睦会などに出る必要はないだろう。彼には恋人がいるのだし。
「エメリアは?」
「私も同じです」
そうは言ったもののオーギュストと私が同じのはずはない。私が親睦会に行かないのは、場を盛り下げてしまうからだ。恋人がいる彼とは全く理由が違う。
黄昏の中、二人並んで門への道を歩いていく。他の騎士たちは既に街に繰り出しているらしく、辺りに人はいない。
色っぽい場所でもなんでもなく、ただの帰り道。
こっそり彼の端整な顔を見上げた。二人きりで歩いていても、いつもと変わらない顔。胸が騒いでいるのは私だけ。最初からわかっているけれど、やっぱりつらい。
「エメリア、退職願いを出したって聞いたが」
オーギュストが口を開いた。
「お耳が早いですね。人事部に提出したのは昨日ですのに」
人事部は『次の人が決まるまで保留にさせてほしい』と言っていた。
完全に受理されてない状態でも、団長クラスには情報が流れてしまうようだ。まあ、大した機密じゃないけれど。
「なぜ、急に?」
「えっと。縁談がありまして」
「縁談?」
オーギュストの目が見開かれた。私と縁談は結びつかないモノなのだろう。
八年も男性がたくさんいる職場にいたにもかかわらず、恋人がいたことのない私だ。その気持ちはわからなくもない。
「ヴァーンズ子爵だったと思います」
「だったと思うって、ひょっとして、どんな相手なのか知らないのか?」
オーギュストの顔が険しい。
「どこの誰かはわかります。面識がないだけで」
貴族の結婚なら、そんなに珍しい事でもない。一応、我がハルバート家も貴族には違いないのだから。
「会ってみて、相手から断られる可能性もありますけどね」
私は苦く笑う。
世間一般的に、私は既に『嫁き遅れ』という状態だ。若さを補えるほど美しいわけでもなく、ハルバート家は持ち直したとはいえ、財力があるとも言えない。相手にとってそれほど旨味のある相手ではないだろう。顔見世の結果、やっぱりダメってなる可能性は高い。
「エメリア、お前、正気か?」
オーギュストはなんだか怒っているようだ。優しい人だから、私を心配してくれているのかもしれない。
「私もきちんと恋愛をして結婚出来たらよかったとは思いますけれど。昔から全然モテないから無理ですよ。それに古株のさえない侍女がいつまでも居座っては、騎士たちも嬉しくないでしょう」
兵舎の侍女は、騎士たちにとって数少ない職場の女性だ。仕事ができることも大事だけれど、若くて綺麗な女性が侍女であるほうが、士気も上がると思う。
「なんにせよ兄が心配しています。もう二十五歳ですから、叶わぬ夢をいつまでも見ているわけにいきません」
私はオーギュストの横顔を見つめた。
こんなに近いのに、絶対に届かない。ずっとわかっていたことなのに辛い。
「ご心配なさらなくても、次の人が見つかるまでは辞めません。仕事はきちんと引き継ぎますし、兄も先方もそのことはわかってくれていますので、安心してください」
「そんなことはどうでもいい」
突然、オーギュストの声が大きくなって、私はびくりとした。
「兄を安心させるためだけに、好きでもない男に嫁ぐのか?」
オーギュストは怒っているようだ。
なぜだかわからないけれど。
ここにいたら、私はオーギュストを諦められないと思う。他の男と結婚を決意した今でさえ、胸がときめくのに。
「そんな男に嫁ぐなんて、絶対にやめろ」
オーギュストは突然私の腕をつかむ。その目が、怖い。
「でしたら、あなたが好きだと言ったら、私をもらってくれるとでもおっしゃるのですか? やっとあなたを諦める決意をしたのに」
オーギュストの目が見開くのを見て、しまったと思った。
彼は、私のために怒ってくれていたのに。反射的にとんでもないことを口走ってしまった。
「申し訳ございません。どうか忘れて──」
「わかった」
突然オーギュストの顔が近づく。状況が呑み込めないまま、唇が押し当てられた。そしてそのまま抱き寄せられる。
「俺がお前をもらう」
オーギュストは囁く。
「何を──」
意味がわからない。自分に都合がよすぎる夢を見ているのだろうか。
「エメリア、お前がずっと好きだった」
オーギュストの固い胸に包まれ、苦しいほどに抱きしめられている。
「誰でもいいなら、俺にしろ。俺と結婚しよう」
「でも団長には恋人が──」
「は?」
オーギュストは驚いた顔をする。
「レストランで美女と一緒のところを見たって噂が」
「レストラン?」
オーギュストは首を傾げた。
「ひょっとして、俺の妹のことか?」
「妹さん?」
どうやら観光で帝都に来ていたらしい。
「俺はずっとエメリアが好きだった。とんでもない誤解だ」
オーギュストが不機嫌そうに顔を歪める。
「でも、団長が私を好きなんて、信じられません。全然綺麗でも、可愛くもないですし」
オーギュストならより取り見取りで選べそうなのに。
「言っとくけど、エメリアは団員にすごく人気がある。俺が今までどれだけ他の男を牽制していたか、気づいていないだろう? 俺に相談もなしに辞めるなんて、どれだけショックだったと思う?」
「団長」
信じていいのだろうか。この人が私を好きだなんて。
「侍女は辞めてもいい。でも、結婚は俺としよう──嫌か?」
「でも、私では」
「俺は、お前がいい。お前じゃなきゃ、駄目なんだ」
「私も誰でもではなく、あなたが好きです」
日が沈み、濃くなっていく闇の中で、私たちは唇を重ねる。
甘い夜がおとずれようとしていた。