再来夢魔の夜
数日と間を置かず、大量の寝汗にぐっしょりと濡れそぼり、声にならぬ絶叫を上げ乍ら浅く不完全な眠りから追い出される様にして目覚める夜が幾つも積み重ねられた果てに、私は到頭耐え難ねて再び夜の市街へと足を向けた。明日もまた早くから何時もの労苦があり、目の前にある数多の神秘もこの宇宙の多様性も理解せず、また理解する気も無いうつけ共を相手にしなければならず、この儘不充分とは云え眠りの時間を放棄してしまったら、薬を飲んでも消えてはくれぬ頭痛がどれだけの助手を得るだろうかは分かってはいたが、物狂おしい嵐が捌け口を求めて私の中で暴虐の限りを尽くし、目覚めの時間を息苦しい悪夢の残滓で圧倒し閉塞させようと狙って来ているからには、私には先ず狂わないでいること、じわじわと喉を絞められて行く様なこの恐怖の奔流を少しでも分散させてやることが、最優先で片付けねばならない事項であったのだ。街灯に照らされて中途半端な眠りを貪るペテルスブルグの街は何時に無く湿り気を帯びて石畳までもが汗をかき、ぐったりと項垂れて四肢を投げ出し、泣きそうな位に疲れ果て、屠殺を待つ豚の様に怯えていた。刑吏に引き立てられて行く囚人の様に両側をがっちりとコンクリートで固められ、申し訳無さそうに肩身狭く、しかし秘めやかに怨嗟を込めて流れる川に沿って私は歩き、人間共から餌を与えられてびっくりする程肥った猫や、紙袋に包んだ酒瓶をだらんと片手にぶら提げた儘街灯に凭れる様にして突っ立っている、この社会の理不尽への憤懣を晴らす為の恰好の迫害対象たる浮浪者、生活排水に汚れたドブ川の中で何とか繁殖を成功させようと阿呆の様に喚いている水鳥達に、限られた土壌の中でみみっちい覇権争いを続けて狭苦しく圧し合い乍ら苦しい呼吸を繰り返している街路樹達等、目立って目にする生命の明白な徴候を全て嫌悪し、憎悪し乍ら、このぎりぎりと締め付けられる様な得体の知れない圧迫感から、何とか気を逸らそうと気を焦らせた。幾ら短いとは云えこの不愉快極まり無い夏の間すっかり私を見捨ててしまった様に見える神秘の驚異を味わいたく、私は彷徨い歩いたのだが、大気を塗り潰している絶望的なまでの散文性は、私がふと力弱く想像の手を伸ばそうとする度にそれを叩き落とし、意識の窓枠を膨らませようとするとそれを滅多打ちにし、この私がより大いなる私とひとつになる機会を悉く押し潰していった。私がこの不様な、他の生き物の屍体を食わぬと維持して行くことの出来ぬ肉体を養う為に、買い叩かれた挙げ句に安く売り飛ばしてしまった時間に本来占めるべきであった充実した生の感触の亡霊が、目眩の様に不規則に私の許を訪れ、切れぎれに低く太い声で怨み事を囁き呟いて行ったが、私はそれらを振り払うことが出来ぬ儘に、わんわんと微かに耳鳴りのする重い頭のバランスをふらふらと危なっかし気に取り乍ら、出口の無い噴火寸前の絶望を持て余してそれだけで精一杯だった。
ひとつの世界が今や破裂しようとしていた。ひとつの気分、ひとつの様態、ひとつの局面、ひとつの視座が、己を喰らうのに飽き、己を喰らうものを求め、外へ、外へと許容限界の極限へと、宇宙が逆立ちを始める臨界点へと遡求し、より深々と呼吸出来る地平を、撓められたエネルギーが適宜に万物を力動させる為の動力として活用されるより広い基準を請い、探索して、何時その終焉が訪れてもおかしくない程の緊張状態に達していた。私はこの状態が長くは続かないことを知ってはいたが、しかし延々と際限無く遅延されているのかの様に見える破局の刻は私を散々じらし、いたぶり、弄んでいたので、私は世界の理に対して心を開こうとしている者であれば当然備えていて然るべき落ち着きと冷静な外科的分析力を失ってしまい、唯々凶暴な目も耳も持たぬ白痴的な力だけが、私をこの狂歩へと駆り立て、引き摺り回し、声無き嘲笑を浴びせていた。屈辱がやけっぱちさを生み、絶望がネジの狂った私を誘い出したが、果てし無い脱出への衝動は何をしようが何を考えようが抑え難く、この時間の進行に抗い、反乱の狼煙を上げ、永遠をその手に掴み取ろうと足掻いていた。譬えてみればエンジンをめいっぱいに吹かし乍ら、何処へも出発しようとしない車の様にひたすらに熱と消耗とを空回りさせて、私は無力にも夜の蒸気の中を歩き続け、忘れ去られた諸世界が懲罰として、或いは呪いとして、私の上に降り掛かって来るのをぼうっとした頭で熱望していた。
突如、何の前触れも無しに、或る乾いた認識が、混乱した切れぎれの思考の積み木細工の間から顔を覗かせた。私がここ最近幾晩も魘れ、目覚めと共に意地の悪い満面の笑みを浮かべて跡形も無く消え去って行ってしまう悪夢の数々———いや、「数々」のではない、あれは多くの顔を持ったたったひとつの悪夢だった———に悩まされ、苦しめられたのは、〈夢魔〉が予兆として私の許を訪れたのが原因であった、あの禍々しい巨大なオーロラが天空一面を不気味に覆い尽くした白夜の晩、誰も居ない真っ暗な校舎で、頭上で繰り広げられる毒々しい光の乱舞を見上げていたあの時の私をいきなり打ちのめしたあの衝撃的なまでの予知の感覚の内に、時間と云う断面に囚われずに世界の真実相を今自分は目の当たりにしているのだと云う無根拠だが揺るぎの無い確信の内に私が一瞬垣間見た光景の中に居たあの汚らわしい力、悪夢の中でもとりわけ獣じみた下等な欲望をぎらつかせたあの厭らしい誘惑者が、何の積もりか私にあの魔の甘言を弄しに遣って来たことが原因であったと云うことが、理由やきっかけは判らないが、一気に全面的に白日の下に曝け出されたのだ。地球と云う物理的生態系に宿痾としてこびり付いている絶対悪、あらゆる生命にとって害悪でしかない、適応も共存も峻拒する捉え難い宇宙的規模の化合物、実体化した欲望、具現化した飢渇、受肉した盲目的衝動、我々の魂の根底を脅かすもの———その一部、その切れ端が、何処か私の気付かなかった謎の径路を通って、私を破滅の深淵へと連れに来ていた。私は怒りと戦慄に全身をわなわなと震えさせ、落とし所も考えぬ儘に拳を振り上げ、断固とした「否」を私を陥れようとしている世界に対して突き付けた。
と、それは、柔らかいクッションの様な肉体が、焼き過ぎたパンの様にパリパリと割れ砕けて行く様な感覚だった。夜が私の目の前で砕け散り、幾重にも谺する遠い咆哮を響かせ乍らその彼方に隠されていたものを露にし、私は茫漠とした眩いばかりの闇に包まれた虚空に唯一人投げ出され、無数の星雲が私の手の届く所にまで迫って来た。私の目の前に現れたのは途方も無く巨大な蛇、エーテルと云う鈍い水の中で頼り無気に細い触手をあちこちへと伸ばす超銀河団だった。私には、それが正に私を呑み込もうとしているのだとはっきり分かった。それは私を呑み込もうとしている。だがこれが現実の物理的実体を持った事象である筈が無いとも解っていた。これは幻覚に過ぎない、暑気と疲労とにやられて具象的な対象を求めがちになった熱を帯びた頭脳が、偶々私の中にあった数多のシンボルの中から、人間の感覚では到底捉えることの出来ない、唯推測の力を借りてのみその朧な輪郭の片鱗が何とか掴めるに過ぎない、余りにも巨大な星の蛇を選び取り、自らに対して挑戦を行わせたのに過ぎないと。目に見えているものを鵜呑みにせず、その背後にあるもの、その裏側にあって、この認識の場を支えている構造、そこに入念に匿された意図について考えを巡らせよと、警告する声があった。私はひとつの惑星が生まれ、死に絶え、膨れ上がった恒星に呑み込まれて消滅する程の間、身じろぎせずに神経を集中させ、様々な可能性に思いを凝らして、この幻視の光景の相対的な真価の程を正しく評価すべく努めた。しかしその間にもその超銀河団の凡そ人知によってはその動きを見極めることが非常に困難な動きが明白な急迫性を持って私の居る方向へ向かって伸びて来て、その冷徹無比な表情の無い顔に〈夢魔〉のけたけた笑いを二重映しにし乍ら、私の破滅寸前だった世界を丸ごとすっぽり呑み込んでしまおうと迫って来た。これまで経験したことが無い程激しい熱狂的な恐怖が私を襲い、掻き立て、奮い立たせ、引き裂いた。私は余りの悍ましさに石化した様になり、周囲の闇がまるで泥濘か石油の様にねっとりと私に絡み付き、硬直させ、穢して行くのを感じ乍らも何も出来ず、蛇の向こうに見える異様な大きさをした薔薇色の超巨大星雲の美しさのことをぼんやりと意識していた。ひとつの創世の秘密が有り得ざる形で私の前に開示され、陳列され、例示されて行き、私は食われることのせめてもの代償が斯くも驚異に満ち、変幻絶えざる深遠な理に彩られていることを、慶賀すべきなのかどうか決め難ねていた。だが、それにも関わらず確かに私は知っていたのだ、万物そのものを表しているかの見えるこの奇怪な姿をした蛇でさえ、実は派生形態のひとつの変容体に過ぎないことを、ひとつの形の座を巡るこの空前絶後の闘争が、実は実感される程包括的なものではなく、その背後には、更に貪欲に生成と消滅を繰り返す無数の宇宙達の群々が、我々のこんなちっぽけなドラマなぞにはお構い無く更なる深みを目指して生誕を試みていることを。私は見掛け上の無限に騙されはしなかった。だが、いっそ易々と欺かれていた方がどれ程幸せだったろうか!
遠吠えを思わせる長い幻妖な悲響と共に蛇の姿がフッと私の視界から掻き消え、私は何の足場も目印にすべき有意の差異を見せる対象も持たない儘、虚空の中に取り残された、宇宙の脈動が私を何処かへ連れ去ろうとしていたが、その先に何が待ち受けているのかは分からなかった。私は始まる前のこの宇宙の姿とあのちっぽけな支流とそれを照らす街灯の並びを思い浮かべ、宇宙の姿が勝手にを作り変えられようとするのに対抗しようとした。分解しようとしていた世界が再び元の形に戻ろうとして動き、そして元の形の戻ったかの様に見えたが、実はそうではないかも知れなかった。時間の進行が目詰まりを起こしてしまったかの様に傷もののレコードじみた痙攣を繰り返し、私がすんなりとあの川縁に連れ戻されるのも、私がこの宇宙と合一するのも許してはくれなかった。私は差し止められた状態の儘暫く虚空を横切って行く無数の想念達の残骸をぼんやりと眺めていたが、数え切れぬ程の超新星爆発や大銀河団の崩壊や衝突が、それら独自の精神性を空しく虚空に散らして行くのを見ている内に、やがて遙か前方に赤い火がちらつきもせずに私を待ち受けていることに気が付いた。永劫とも思える歳月を閲してこの宇宙に運ばれて行く内に、それは次第に大きくなり、より赤い唇で縁取られた煌々と輝く巨大な口であることが明らかになった。終焉を迎える間近の赤色巨星の様な年老いた、しかし強大な活力を漲らせているその黄昏じみた法外な円盤は、何ものにも邪魔されること無く、唯々一心に、この私をその開口部の奥へと引き摺り込もうとしていた。この抗い難い求心力に、私は覚えがあった。もうずっと昔———と云っても、人間的基準での話だが———いや、これは未来のことだったろうか———とにかく、私があのシベリアの大地で一度だけ目撃した、鬼火達の魔宴の直中で強大な支配力を持っていたあの恐るべき霊的な渦に、それは酷似していたのだ。怖気立つ予感があり、私の手は目前に迫っている破滅を実効性のあるものとしてしまうべく、保護壁となる扉の鍵を回そうと動き始めた。私は腐ったジャムの様に崩れ出し、悲鳴は全て忌わしい蛇の腹の中へと消えて行った。