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あなたを灰色に

作者: 夜辻進慈

【その色で夢を描き出す】

 寒空の下、春一番が吹き抜け桜の花弁が宙に舞う。校門近くの桜並木は学校を淡い桜色に染めている様で、無機質な鉄筋コンクリートを優しく包み込んでいた。風に吹かれた桜の花弁は茶色一色の地面をもその淡い桜色に染め上げ、風に舞い上げられてはまだ生きている様に、自分の存在を主張する様にひらひらと舞った。

 また突風が吹き抜け桜の花弁が宙に舞う。するとその一つが風に導かれ、開け放たれた窓の一つを潜り抜けて教室の中に舞い込んだ。

 無数に立ち並ぶ焦茶色のイーゼルに白いキャンバスを乗せて、色とりどりのエプロン姿の生徒たちがその上に絵の具を重ねていく。絵を描く事に集中している生徒たちは、たった一枚の花弁を気にも止めず、各々の創作活動に熱中している様だ。そんな生徒たちの間を華麗に掻い潜り、教室の中を舞い、花弁はとうとう腰を落ち着けた。

 花弁が死地に選んだのは一人の少女の髪だった。さらさらとした細い茶髪は、肩くらいまで伸ばされており、ふんわりと内側に丸まって、小さく丸い顔を包み込んでいた。髪と同じ茶色の瞳はアーモンド型の目に収まっており、その視線はイーゼルに乗せられた灰色のキャンバスに注がれている。

 彼女のキャンバスは他の生徒とは異なった色を乗せており、そこに彼女が赤い絵の具を乗せても、青い絵の具を乗せても、結果として全体は灰色に落ち着く。それが、その絵にとっての死地だからだ。

 色とりどりの絵の具を混ぜ合わせたパレットから白色を掬い取り、丁寧に、灰色の上に乗せて塗りつける。すると灰色の水が光を反射した。黒色で建物に陰影を付け、水で質感を与えるが、水色で塗っても水は灰色のままで、赤色で塗ってもポストは灰色のままだった。

 どんな色を塗り重ねても、その作品はいつまで経っても灰色のままだった。様変わりしない作品だが、その作品は繊細で、鮮やかに色付けられてはその均衡が崩れてしまうのではないかと思えた。つまり、その作品は美術的な要素を確かに含んでいるのだ。しかし、その作品は暗く、薄く、まるで死んでしまっている様だった。

 するとその時、画材の音以外しない静かだった教室に、横開きの扉を開く音ががらがらと響いた。中で絵を描いていた生徒たちはびくりと飛び上がる様に、一斉に顔を上げる。生徒たちの視線は一瞬で、開かれた扉の先へと注がれる。

「やっほー、みんな。久しぶりだね!」

 それと同時に長い金髪姿の女性が意気揚々と入ってきて、一斉にその場の空気を支配した。派手なシャツの上から緑の迷彩柄の上着を羽織った、色の濃い女性だ。すると、その女性の元気が良すぎる、騒がしい挨拶で、その場の生徒たちに笑顔が満ちた。

「先輩!」

「莉子先輩!」

 その女性は、昨年のこの学校の美術部の部長を務めていた人だった。コンクールではあまり成績を振るわなかったが、派手で現代芸術的な、革新的で小難しい作品を描く女性だった。兎も角、人気で後輩からの信頼の厚い人だった。なので教室に入ったばかりだというのにもう彼女は後輩たちに取り囲まれていた。

 すると、その後ろから彼女と同世代、つまり昨年の三年生たちがぞろぞろと、軽く挨拶をしながら教室に入り、歓声や笑い声と共に迎えられた。

 この学校の美術部はそこそこ有名で、部員数も他校の美術部と比べれば多い方だろう。故にこの賑わい様なのだろうが、灰色の絵を描く彼女は少し出遅れてしまった様で静かに自分の席に佇んで、仲間が先輩たちと再会して騒いでいるのを見守っていた。

 だが、その彼女の背後から彼女の絵を眺め、突然話しかける男性がいた。

「一段と繊細なタッチになったね、君の絵は。」

 『うわぁ、びっくりした。』と心の中で呟きながら、少し飛び上がった彼女はその男性に振り向いて、柔らかい顔立ちの顔を見上げた。

「急に話しかけないでください、先輩。」

「相も変わらず辛辣だなぁ。咲絵(さきえ)は俺が一番手塩にかけた、自慢の後輩だと思っていたのに、とうとう俺の卒業までその口の悪さは治らなかったね。」

 余裕たっぷりな表情で微笑む彼は別段整った顔立ちと言うほどではなかったが、柔らかくて甘い印象で、いかにも"好青年"と言った様だった。特に、そのふわふわとした感じの、男性にしてはやや高音の声は聞く人を魅了し、眠気を誘発する事で人気を博した。掴み所の無い性格と声から、『雲の様な人だ』と言われる事は多い。対して、溜息を吐き首を横に振る彼女の声は鋭く突き刺した様で、通常会話すらも棘が生えてしまいそうな声だった。

 すると柔らかい印象の彼は、咲絵と呼ばれた彼女の焦茶色のボブヘアに手を伸ばし、その上に乗っていた美しい桜の花弁を取り除いた。

「桜ですか? ありがとうございます。」

「いや、別に。」

 そう言って、彼は指で摘んでいた桜の花弁を、イーゼルの上に、灰色の絵と並べておいた。絵の灰色は際立ち、たったそれだけで大きく様相を変えた。

「あ、東雲(しののめ)先輩。」

 教室の前から、静かに話す二人のことを見て、その内柔らかい印象の男性の事を呼ぶ声が聞こえる。それを契機に、すぐに彼を呼ぶ声が教室に満ち溢れた。すると彼、東雲明希(あき)は「ふっ。」と優しく微笑を溢して、教室の前に歩いて行った。

 彼は昨年、春のサクラアートコンクールで銀賞、夏のトウキョウアートコンクールでは待望の金賞を受賞した、美術部の中でも人気の高い先輩だ。無論甘いフェイスや、優しくて柔らかい性格も人気の理由の一つだが、やはり賞を受賞した先輩とそうでない先輩では、後輩たちからの印象も変わってくるのだろう。特にその年は不作の年と言われていて、彼以外に三年生で銀賞以上の成績を残した先輩はいなかった。それ故に彼は、とても目立つ部員となった。

 更に、二年生、即ち彼らの一つ下の代もまた、不作の年と呼ばれており、このまま衰退の一途を辿ることになるのかと思われていた。だが、結果として一年生、即ち更に一つ下の代は一年生の頃から12月のウィンターカップで銀賞、1月の札幌全国大会で金賞と銅賞、審査員特別賞を受賞など、功績を挙げた。所以(ゆえん)あって、二年生たちは少し肩身が狭いところがある。

 と、ここで二年生、中でも不作筆頭の彼女、煤宮(すすみや)咲絵は、教室の前に歩いて行った東雲に(なら)って、教室の隅の方から前に移動した。

 だと言うのに、それからは軽く挨拶してすぐに各々自分の席に戻って作品作りに戻ることになったのだが、三年生が見て回っているので現役生の一、二年生たちは少し落ち着きがなかった。三年生が作品についての意見を言ったり、或いは雑談に花を咲かせたりして、先程までの静かな空間はすっかり壊れてしまったが、一人を除いてとても楽しそうにその賑やかさを満喫していた。

「……壊れちゃったね。」

 どちらの意味だろう。掴み所のないふわふわとした雲の様な東雲の声に、煤宮は黙ったまま灰色に混ぜ回せた絵の具を、華やかな桜色の上に乗せる。絵の中に散らばる数片の桜色は彼女の作品に色を付けたが、それによって彼女の繊細な作品は崩れてしまった様に見える。その桜色を灰色で塗り潰せば、崩れることで得られた色を失い、代わりに繊細な美しさが還元された。

「難しいよね、煤宮の作品はさ。」

「……難しい? まだまだ下手なだけです。」

 少しだけ口を尖らせて言うと、「そんな事はないよ。」と東雲が筆を取る。そして煤宮の許可もなく、彼女のパレットの上に乗せられていた桜色に少量の赤色と黄緑色を混ぜて、彼女の作品にそれを少しずつ乗せた。

 桜の花弁が散りばめられて華やかになった作品はそれだけで雰囲気を大きく変えるが、やはり先程までの繊細さは崩れてしまった。美しい作品で、それこそコンクールで入賞できそうな作品に様変わりしたが、東雲は筆を筆洗に入れて、煤宮に頷いた。

「やっぱり君の作品の良さを保ったまま作品に華やかさを持たせるのは難しいみたいだ。」

「…そうです? この作品で提出しても良いですか?」

「駄目に決まってるでしょ?」

(そもそ)も、どんなに繊細な絵だとしても、人の目を惹く華やかさが無ければ賞なんて取れませんよ。」

 (もっと)もな話だと思ったが、東雲の表情は暗くなった。その間にも、煤宮は東雲が乗せた絵の具を取り除き、上から灰色を塗り重ねていく。やはり色はすぐに消えてしまい、代わりにその絵の繊細さが際立った。

「じゃあ、煤宮は何でその絵を描くの?」

 一瞬、煤宮の筆を操る手が止まった気がした。だが、すぐに煤宮は黙ったまま、東雲の桜を灰色に塗り潰していく。目を細めて唸り声すら聞こえてきそうな表情をしていたが、その手から乱雑な様子は見られない。

「煤宮が好きなんでしょ、そういう絵が。」

 今度は明確に、煤宮の手が止まる。色が滲んでしまうのですぐに筆を作品から離すが、しばらくして、彼女はまた灰色を作品の上に乗せ始めた。

 まるで作業の様だ。面白みのない、淡々とした作業。煤宮からは何の感情も感じられない。まるで灰色だ。白でも、黒でもない…()()()()。はっきりとしない、彼女のことをそのまま絵にして表した様な灰色だった。

「描きたい絵があるのなら、賞にこだわる必要なんて無いと……個人的には思うよ。」

 少し自信なさげに、声が小さくなった東雲を見て、煤宮には『気休めのつもりだろうか。』と感ぜられた。実際、気休めの様な言い方だった。小さく溜息を吐けば、東雲が撤回する様に慌てて口を開く。

「ただ、まぁ……そういう世界で生きていくなら自分の強みを最大限に活用出来る力はあったほうが良いんじゃないかな?」

 『この先輩はいつだって最適解を与えてくれる。』と、少し残念そうな表情を浮かべた煤宮は、東雲の事を見上げながら、頭の中にはある一人の男の顔を過らせていた。思い出したくもないのに。


「お前の絵は暗い、暗過ぎる。」


 その男は、彼女の父親だった。なぜその男の事を思い出してしまったのか、彼女自身分からなかった。だが、自分の作品の暗さや、繊細さを活用出来ないことを指摘されると、常に脳内に現れるのはその男だった。

 きっと、東雲に煤宮を貶したり、否定したりするつもりはない。だが、結果現状として彼女の絵は大衆からは認められていない。人口に膾炙する作品でなければ、十分に認められた作品とは言い難い。誰か一人が認めたところで、画家としての人生にとっては些事だ。


「これでは、いかに美しい景色も映えない……見ろ、彼らの美しい作品を。」


 目頭が熱くなり、誰にも聞こえないくらいの小声で『うるさい……』と呟くと、東雲がすぐに『え?』と聞き返してきたから、『何でもありません。』と冷たくあしらった。きっと、今優しくされたら涙で灰色が薄れてしまうから。




 帰路に立ち、一人静かに歩き慣れた道を進んで行く。もうすっかり日は落ちて、風の強いその日はいつより寒く感ぜられた。人通りもあまり多くはなくて、街灯も多くはないその道は寂しくて、煤宮の心の中を表している様でもあった。

 家は間も無くだが、家が近づくに連れて、煤宮の足取りは重く、ゆっくりになっていった。その視界は暗く、狭まっていった。

 別段、家が嫌いな訳ではない。母親の温かい食事が好きだ。小学生の時に取った絵画コンクールの賞は誇りだ。独りきりでいられる自分の部屋が好きだ。父親の取った絵画コンクールの金色が誇りだ。それなのに、その金色は彼女にとっては絶望を与える呪いの象徴であり、見る度にじわじわと首を絞められる様な、小さな小さな彼女以外何も入らない水槽の様だ。

 井戸の中の蛙は井戸の中でふんぞり返っているらしいが、水槽の中の彼女は溺れて、沈んでいく一方だった。


「お前に、絵画において特出した才能がある様には見えない。」


 そこで再び父親の言葉を反芻した彼女は、目頭が熱くなるのを感じた。学校にいる時は側に東雲や他に先輩、同級生、後輩がいたから堪えられた涙も、独りでいると自然と零れ落ちてしまう事もある。それでも、家が近いからと強がって、意地を張った幼い子供の様に、彼女はぐっと涙を堪えて、暗い道を右に曲がった。

 黒に塗り潰された道の先に、豪華な平家が黄色い明かりを灯して待っていた。安心と心配と、楽しさと苦しさとをパレットの上で混ぜ合わせて、ぐちゃぐちゃの汚い色に心を染めつつ、一歩、また一歩と家に近づく。

 家の門に手をかける頃には混ざり合って真っ黒になった心だったが、門を通り抜けると突然白が混ぜ合わされる。数段の階段を登り、大して疲れてもいないのに激しく主張してくる胸を押さえて、鍵穴に鍵を挿す。扉を引けば、金属製の重みのある扉は音も立てずに開いた。途端に、隙間からきらきらした光が溢れて暖かさが彼女を優しく包み込んだ。

「ただいま。」

 誰もいない玄関に形式だけの挨拶を小声で落とす。ローファーを脱いで踵を揃えていると、扉が開く音がして、廊下の先に目を向けてみれば、彼女の母親が顔を出してこちらに笑いかけた。

「おかえりなさい、咲絵。」

「ただいま、母さん。」

「今日も随分遅かったのね、お疲れ様。」

「ううん、遅くなってごめん。」

 母親の顔はどこか苦しそうだった。

 母親に倣って扉の先、居間に入ると、ソファ越しに見たく無い背中が見えた。声をかけようか迷った末、ゆっくりと口を開いた。

「た、ただいま。」

 白髪が増えたその背中に挨拶をしてみる。と言うのも、この時間に彼が居間にいることは珍しくて、ここで挨拶をするのも久しかった。するとその男はくるりと首を回転して彼女に振り返り、その姿を確認するとすぐに前に向き直ってしまった。

「ああ、帰ったのか……」

 そう呟きながらも、その目線はソファの前に置かれた机の上に注がれている様だ。恐らくはコンクールの広告か、仕事の誘いの手紙、それかファンレターみたいなやつだろうと思って、彼女はそれ以上言葉を交わさないことにする。だが、父親の方はそのつもりはない様だ。

「また、絵を描いていたのか?」

 振り向きもせず、何かを手に取り紙を破きながら発せられたその言葉。その言葉が何を意味するのかよく分かっている彼女は、立ち止まり、父親の方に振り向いた。

 机の上に視線を落として、こちらのことなどお構いなしに連続して口を開く。どこか焦燥を感じる様な話し方だが、水で描いたような表情をしていた。

「今年お前は高校三年生だ。人生の分岐点だ。そんな事に、時間を浪費している暇はあるのか?」

 腹が立った。腹の底から赤黒いものが上がってきて、胸の中を真っ赤に焼き尽くす。思わず火を吹きそうになったが、何とかそれを堪える。

「……浪費?」

「違うのか? お前にとって、絵を描くということに勉強以上の価値があるのか?」

「あるよ。あるから、描いている……」

 とは言えど、どんなだと聞かれれば答えられないだろう。それが悔しくて、煤宮は唾を飲んで父親の言葉を待つ。父親の表情を窺えば、憐れみを向ける様な表情で煤宮のことを見つめていた。

 言葉が見つからない。こんなにも明確な色が滲み出ているというのに、頭の中は白に染まっていく一方で、胸の黒と頭の白が混ざり合って、

「灰色だ。」


「……は?」

 言っている意味が、まるで理解できなかった。彼女は真面な反応をすることすら出来ずに、ただその場に立ち尽くしていた。父親は、破った紙をばらばらとごみ箱の中に捨てていく。桜の花弁の様にひらひらと舞ってごみ箱に落ちていく紙を見つめている表情は、どこか悲しげだった。

「………灰色だ、と言ったんだ。」

「…どう言うこと? 意味がわからない。」

 表情が歪むのが自分でもよくわかった。やはり意味が分からなくて、もう一度聞き直す。すると父親は、作業をする手を止めて、彼女の方に向き直った。その顔はひどく疲れた様な、その一方で呆れた様な表情をしていた。

「頭と心で考え方が違ったり、考えが衝突したりすることはよくある。お前の頭は、正解が見えている。」

 そこまで言ったところで、彼はまた作業に戻り、彼女から目線を逸らす。今度は、封筒の中から紙を取り出して、それに目を通し始めた。

「だが、お前の心は、それを否定したくて駄々をこねている。嫌いなものを全て真っ黒に塗り潰して見えなくしてしまいたい…そう思っているんだろう? 子供の癇癪(かんしゃく)と同じ、灰色なんだ。」

 その言葉は、彼女が学校で、帰路で、必死に押さえ込んでいたものを決壊させるには十分過ぎた。ぼろぼろと、嗚咽も無く、ただただ涙が目から零れ落ちる。頬を伝い、顎の先から地面へと、雨の様にぽつり、ぽつりと落ちていく。

「ちょっと、そんなこと……」

 母親が仲裁に入り、涙を流す彼女を心配しながら、奥の廊下に導こうと手を引いた。しかし、煤宮はその手を乱暴に払い除けて、鼻を啜った。

「だから…何? 灰色だから何? そうやって、私を否定して…何か楽しいの?」

 震える声、嗚咽混じりに言葉を紡いでいく。奥歯を噛み締め、服の袖で涙を拭い、もう一度鼻を啜る。

「私の全てが無意味だなんて、父さんに決められたく無い。」

「……お前の全てが無意味だと言った覚えはないが、お前が今、絵を描く事に何か意味があるのか?」

 そこまで言ったところで、と言うよりは言い終わるより先に今度は強引に母親に手を引かれて居間の外へと導かれた。母親はそのまま何も声をかけずに、父親の元へと戻って行った。恐らく、彼女なりの配慮というものだったのだろう。

 居間の外に出された煤宮は、涙を堪えることを放棄して、とぼとぼと力なく廊下を歩いた。突き当たりは自分の部屋で、入ると同時に後ろ手に扉と鍵を閉める。そうして独りきりになって、肩掛けの鞄を適当に投げ出すと、ずるずると力なく崩れ落ちた。扉に背中をつけて、決して開かぬ様にと呪う様に、自分の世界を守る様に、膝を抱えて顔を突っ伏して嗚咽を堪えようとする。

 涙が制服の黒いスカートを濡らし、部屋の中には小さな嗚咽と、時計の針が動く音だけが響いた。部屋の中に蔓延する絵の具の匂いが、今は涙の微かな匂いにかき消されてしまっていた。だが、彼女にとっては今に限ってはそれも好都合だったのかもしれない。

 なぜ今日に限って父親が居たのだろうか。普段ならばまだ仕事に没頭している時間帯のはずだと考えると同時に、なぜあの時帰宅を告げる挨拶をしてしまったのだろうかと後悔した。あの時話しかけなければ、会話をしてあんな事を言われる事もなかったのではないか、と。

 だが、それ以上に彼女は自分が絵を描く事に、何かしらの意味があると思えない事が何よりも苦しかった。漠然とした、それこそ稚拙な理由しかなかったのだ。父親の言葉は、図星を突いていたのだ。

 意味などない、ただ好きだから描いているだけだと反論すれば良かったのかもしれない。だが、彼女はそうしなかった。別段、彼女は絵を描く事が嫌いになってしまったわけではない。認められようが認められまいが、彼女は自分のために絵を描き続ける。しかし、賞を取ってみたいという気持ちももちろんあって、そう考えた時に画家として絵を描くことを生業としている父の言葉は、とても重くて、彼女の足枷の様になっていた。気付けば、もう海面が見えないくらい深く沈んでしまっていた。

 深く、深く、暗く、暗く、灰色さえも塗り潰してしまうような、絶対的な黒。深淵に沈み、光の届かない色のない世界の中、彼女は一人意識を失っていく。そして、『どうでもいいか。』と意識を手放した。

 そうしてその日は、そのまま泣き疲れて、座り込んだまま食事も取らず、深い眠りに沈んでいった。




 構図を変えて、今度はビル街ではなく住宅街を描くことにする。

 彼女はやはり、早朝から絵を描いていた。(そもそ)も、今は春休み期間中で学校に行く事自体義務では無い。部活動で学校を訪れる者もいるが、彼女ほど早朝から独りで作業をしている者は少数派だ。数名自主練習に励む運動部を見かけるが、文化部の中で早朝から作業をしているのは彼女だけだった。

 『異端』。それが彼女を表すに最も適した言葉だった。決して天才ではない。寧ろ凡才だ。ありふれた知識、単純な技術、光るのは皮肉にも彼女の絵の特性とも言える色の無さだけだ。誰も彼女の作品に見向きもしない。風変わりな絵だ、と評価する者も少しすれば見飽きたとでも言うかの様に、天才を求めてそばを立ち去った。

 だというのに、寧ろ、彼女は絵を描き続けた。天才を見返すことが目的でも、絵を描く事で生計を立てる事が目的でもない。なにせ彼女はずっと孤独だ。画家の多くが味わうものとは比にならない孤独を知っている。自分の描いた絵が誰にも見向きされない孤独だなんて当たり前で、親に否定され、画家に否定され、そうしていつの間にか自分でも否定をしていた。

 そこにあるのは何色にでも染められる白色で、何色にも染まらない黒色だ。光が差せば絵の具は溶けて、混ざって、名前のない灰色になる。色斑(いろむら)が甚だしい、醜く渦を巻く灰色になる。

 巨匠ゴッホを思わせる鮮明で華々しい色彩を持つ父の絵に憧れ、こんなにも色彩を失った絵を描くと誰が想像した事だろう。彼女が自身の絵を否定するのは、そういった自己憐憫が彼女の灰色に霞んだ絵を禍々しく塗り付けていくのが心のどこかで救いだったのだろう。もしも彼女の心を覗く事ができたのならば、きっとその醜悪さに人々は魅了され、「嗚呼(ああ)、なんと美しい名画なのだろうか!」と彼女を崇め讃える事だろう。そうやって心の中にだけ響く賛美と喝采が、彼女を絵に執着させるのだろう。

 だが、その一方で自分の絵を肯定する自分もあった。それは東雲の存在も大きかったが、彼と出会う以前から彼女は自分の絵には他者の絵には無い繊細さがあると知っていた。それが全体的な絵の価値を損なう原因になっている事も知っていたが、その繊細さが彼女の作品に価値を与えている事も知っていた。

 東雲は特に彼女の繊細な絵を評価するが、それはあくまで客観的な意見だ。彼女にとって、そんなものはどうでも良かった。他者に認められる事は画家として必要で、喜ばしい事だ。だが、彼女は昔からずっと父親に否定され、認められることへの執着などとうになくなってしまったのかもしれない。誰に認められても、自分の憧れた父に認められることはない、と。

 否定しても、肯定しても救われない、報われない。そんな無限に下まで続く螺旋階段を下っていくように、彼女は絵を描き続けていた。父親に認められたいという承認欲求がその根底にありながら、父に認められることはないという諦念がそれを否定するために、その螺旋階段に無限が生じているのだ。つまり、彼女は救われない。ただただ虚しいだけだ。この先父親に認められたとして、彼女はそれを喜ぶことすら出来ないのだから。

 灰色の桜が満開になったところで、一度筆を筆洗に突っ込んで溜息を吐く。すると疲労と一緒にやる気が溜息に乗って吐き出されたような気分になった。

「あー…………疲れた。」

 しばしばする目を二、三度ゆっくり瞬かせて、改めて自分の作品を眺める。至極普通な住宅街の一角に咲く満開の桜は、確かな桜色に彩られているにも関わらず灰色に見えた。繊細で、今にも消えてしまいそうな……そんな儚さを孕んだ灰色の絵だ。

 結局こうなるのか、と諦めを飲み込んで、どろどろと禍々しい色に染まった筆洗から筆を取り出す。きっと、この筆では鮮やかな色を描くことは出来ない。そんな筆に美しさを感じてしまうのはなぜだろうか。単なる無意味な共通項探しなのだろうか。

 筆を筆洗の中に戻して、重たい腰を持ち上げる。ずっと座っていたせいだろうか、そしてそんな日々を送っているだろうか、腰はひどく軋んだ。ゆっくりと、上に大きく伸びをするとバキバキと激しい悲鳴が身体中に響き渡る。自然と止めていた息を吐き出しながら伸びをやめ、もう数度目を瞬かせた。




 学年末試験の追試で昼過ぎに美術室を訪れた池田(いけだ)(あかり)は、いつものように「可愛くない制服だなぁ。」と彼女が(まと)う黒色のブレザー、スカートの外観を嘆いていた。臙脂色のリボンは既に首元から外して、左手でくるくると回していた。

 そうして誰もいない廊下を進んでいると、奥から数えて三つ目に、美術室が見えて来た。くるくるとリボンを回すのをやめて、鞄の中にしまう。足早に廊下を進んで、美術室の扉に手をかけようとしたところで、中から聞こえてきた声に反応して、反射的に手を引っ込めた。

「暗いな、お前の絵は。」

 その声の持ち主は恐らく、美術部顧問にして彫刻家の安藤(あんどう)春陽(はるひ)だ。更に、彼の言葉から、彼が誰の絵に対して評価をしているのかも推測ができた。

 小さく溜息を吐いて、改めて扉に手をかけると、音を立てないように静かに開いた。予想通り、彼女の視界にスーツ姿の安藤と、焦茶色のエプロンを着けた煤宮が入る。

 髪の毛を全部剃っていて、褐色肌がよく見えるのが安藤で、彫刻界では結構有名な人らしい。個展を開いたりした話も数度聞いた事がある。もう随分な年齢だが、美術の腕前は健在のようだ。

「こんにちはー。」

 控えめな声で言えば、二人がこちらに一瞬目をやるが、煤宮の方はすぐに安藤の方に向き直って、安藤も池田に軽く手で挨拶しただけで煤宮の方に向き直る。

「まぁ、つっても、暗い絵である事がいけねぇ訳じゃねえ。芸術の長い歴史の中でも、あるいは文学や音楽の長い歴史の中でも、暗い印象の作品でありながら、現代に語り継がれるほど認められた作品も多くある。」

 『叫びとか、人間失格とか、な?』安藤は自分の意見を自ら肯定する様に具体例を付け加えた。煤宮の事を諭している様にも見えた。

 二人の会話に少し耳を立てながらいつもの座席……前から2番目の一番右端の座席に腰かけると、隣の席の女子が小さな声で「おはよ。」と挨拶をするので、彼女も同じように「おはよ。」と笑顔で返した。

「でもな、お前の作品は駄目だ。」

 今日はまた随分と辛辣な物言いだな、と再び二人の方に目を向けてみれば、一瞬安藤と目があった気がしたのですぐに目を逸らした。

「お前の作品はそういう“暗い”んじゃない。お前の絵は、“()()()()”なんだ。」

 一瞬、煤宮もその言葉の真意を図り兼ねた。だが、少しして理解できたようで、僅かに無意識のうちに傾げられた首が元に戻る。が、彼女以外はよく意味がわからないまま、自分の作品作りに戻る。

「お前ほどの腕があればもっと出来る事があるだろう。」

 それは激励のようで、信頼のようで、呪いのようですらあった。実際に安藤がどういう意図でその言葉を発したのかは、本人にしかわからない。だが、少なくとも煤宮以外には激励や信頼のように感ぜられ、煤宮にだけは呪いのように感ぜられた。

「もう一度描いてみろ。」

 その言葉を区切りに安藤は立ち上がり、煤宮の頼りない「はい…」と言う返事を聞き届けてから遠くに座る(はやし)の事を呼び寄せた。林は一年生の代表で、冬の新人戦……と呼ばれている冬季一年生コンクールでは見事銀賞を受賞している、実力者だ。

 自分の右隣を煤宮が思い詰めた表情で通り過ぎていくのを見て、池田は小さく溜息を吐いた。




 ()()()()。それはまさしく、彼女の絵を表すに最も相応しい言葉だった。それは単に灰色というだけではなく、寧ろ()()という意味が大半を占めていた。

 彼女の絵を評価する上で多くの人がなんとなく共通の理解を示す廃色という表現は、文字通り廃れてしまった色のことを指す。それは一つの色を単体で見た時ではなく、全体の構図や色彩のバランス、陰影の程度など、様々な原因が相互に影響し合って、全体を見た時に色が廃れていると感じることを指すのである。

 つまり、彼女の絵は全ての色が廃れているというわけではない。だが、その作品は確かに廃れている様に見えて、審査員や閲覧者はそのように判断する。有名な芸術家の娘だとか、繊細であるが(ゆえ)に廃色になるのだとか、そう言うことは考えない。仮に彼女が壮絶な悲劇の人生を送ってきたとしても、彼らはそんなことを知らない。

 結局は、実力なのだ。才能のない人間に、立ち入る隙など無い。どの業界だってそうだ。才能のない人間は、才能のある人間の下で細々と生きていくしか無い。きっと誰しもが心のどこかで知っていて、認めたくないことだろう。

 彼女にとっても、そうであった。




「だからさ、もうちょっと豪快くらいでいーんだよー。」

「あ、ちょっと…燈!」

 帰路…と言っても学校から最寄りの駅までだが、道中の桜並木、桜の木の下で、煤宮は池田に髪をくしゃくしゃにされて、頭を乱雑に撫でられていた。そのせいで彼女の細くてサラサラとした髪の毛はあちこちに、水飛沫のようにはねた。寝癖のようで、少し不恰好だ。

「……咲絵はさ、あんまり賞とか興味ない?」

 その言葉に、煤宮は沈黙で返事をすることしか出来ない。ばつが悪くて、寂しそうな表情で池田から目線を外す。

「最初の頃に言った気もするけどさ、私も全然興味ないの。自分の描きたい絵が描ければそれで良いって。」

 (もっと)もな話だ。煤宮は小さく「そうだね。」と言って頷いた。実際自分もそのつもりで……周りからの評価をあまり気にせず、自分の描きたい絵を描いている。

「そう、思ってたの……」

 変な言い方、変な間合い、変な沈黙。煤宮は小首を傾げて池田の方を向く。池田は、少し恥ずかしそうな、笑いを堪えるようで泣くのを堪えているような、難しい表情をしていた。が、突然彼女の表情が、雲が消えてしまった様に明るく晴れ渡った。

「でも、やっぱり認められたいなぁって!」

 一瞬で満開になった彼女の表情は、桜よりも華やかで、太陽よりも輝いて見えた。何がそんなに楽しいのか分からない煤宮は、頭の上に(疑問符)を浮かべて、今度は明白に首を傾げた。

「……何? 白い粉でも飲んだの?」

「至って真面目だよ!」

 突然笑い出すので「変になってしまったのか?」と茶化せば、彼女は全力で弁明してきた。この年頃で薬物に手を出す青年も少なくはないと聞く。

「…自己承認欲求、ってやつ…なのかな。正直自分でもよくわからないんだけどさー……」

 決まり悪そうに前を向いて、赤い顔を隠す。散る桜に紛れれば、自分の頬が紅潮していることを気付かれないとでも考えたのだろうか。

「やっぱり、誰かに認めてもらわないと……描いていけないなぁって、思ってさ。」

 その顔は、恥ずかしいのを隠すようでありながら、どこか恍惚(こうこつ)としていて、深く深く、何かを求めるような情熱の赤色を孕んでいた。

 確かに、画家は孤独だ。誰にも認められない時期も、描き続けなければならない。そうでないと、二度と誰かに認められる機会すら訪れないからだ。だから、孤独であることを理由にして、他者から認められない事を自負して、許していてはならない。そうしているうちは、自分すらも自分の絵を認められないからだ。

「……燈ってさ、優しいよね?」

「いや、なんで疑問系なわけ? 『優しいよね!』で良いじゃん!」

「よくわからないことを言ってるようで、何となく励まされてるし……」

 池田の、恥隠しのように挟み込まれた言葉を無視して続けると、彼女は首を傾げて、それから少ししてニタニタと笑い出した。

「な、なに?」

「いやぁ、煤宮が他人(ひと)を褒めるなんて珍しいからさ。」

「私をなんだと思ってるの?」

 呆れたように、目を細めて言うが、その実煤宮は、自分自身でも「確かに私が他人を褒めるなんて、珍しい事なのかもしれない。」と思っていた。

 自分のことでいっぱいいっぱいになっている時は、他人への評価も疎かになりがちだ。そういう意味では、煤宮は改めて池田に感謝した。

「……ありがとね。」

 静かに呟いた言葉だったが、池田はその言葉を聞いて、嬉しそうにしたり顔を浮かべた。正直言って、少し気持ち悪い。だが、口に出せばまたあれやこれやと(うるさ)く言ってきそうなので口を噤む。本当は、喉まで言葉が出かかっていたけれど、呑み込んで事なきを得る。

「もうちょっと東雲先輩の前でも素直ならねぇ……」

 池田は意味ありげに、変な口調で言った。その意味が分からないわけではないが、煤宮にとってそれは分が悪い話題だったので知らんふりをしてそっぽを向いた。

「ねぇ! ……ねぇ!」

 いい加減煩かったが、紅潮した顔を見せない為にも、決して煤宮は池田の方に振り向かなかった。その様子を見て、池田の方も煤宮のてこでも動かない固い意志を察したのか、大袈裟に溜息を吐いて諦める。

「そんなんだから卒業しちゃったのよ? 卒業式の後で告るんじゃなかったの?」

 池田が「まったく、仕方のない奴だ。」とでも言うように問い詰めると、煤宮は、

「耳が痛いよ…」

 と返した。瀕死の彼女にとっては、精一杯の返事のつもりだった。

 前に向き直れば、池田は特に彼女の顔を覗き込むこともなく、呆れ顔で前を向いていた。と、安堵していると、突然池田がこちらに顔を向けた。

「春休み中たまには遊びに来るって言ってたけどさ、コンクール前にそう言うことできるほど器用じゃないでしょ?」

 図星を突かれて、煤宮は呻き声と共に倒れそうになってしまったが、なんとか持ち堪える。彼女のHP(ヒットポイント)はとっくに0だった。

「こ、コンクール後に…どこか…に呼び出せば……」

「咲絵にそんなことはできないでしょうが。」

 煤宮は心の中で呻き声を上げて倒れた。オーバーキルだ。心の臓をナイフでぐさりと刺されたようで、胸を押さえ痛みを抑えるように「うっ…」と、声を漏らす。

「兎にも角にも、過ぎたことは仕方ないから……コンクールまでに、その後どうにか会う方法を考えないとね。」

「……」

「うん? なに?」

 池田の話を聞きながらも、煤宮は心ここに在らずといった感じで、じっと地面を見つめていた。池田が優しく問うても、しばらくは答えられなかった。

「…その、私は……先輩のことは、もう……」

「……諦めるの?」

 改めて言葉にすると、胸が痛む。先程のナイフで刺されたような痛みではなくて、針でちくちくと突かれているような、そんな小さな痛みだ。

 池田が、(うつむ)く煤宮の顔を心配そうに覗き込むと、煤宮はやや頬を紅く染め、寂しそうで悲しそうな表情をしていた。これを見て池田は、少し意外だったもので前に向き直り、小さく溜息を吐く。『どうしてこんなにも自信がない癖に、画家などを目指しているんだろう。』とでも言いたげな表情だった。

 まぁ、彼女は自分の絵に自信があるから画家を目指しているわけではないのだが、それ以前に池田はそんなことを知る由もなかった。

「……まぁ、咲絵がそれでいいって言うなら、私も別にいいけど……」

 悩みながらの言葉は心なしか震えていて、納得のいかないと言うような表情によく似合っていた。

「けど……後悔しないの?」

 結局は、それが言いたかったのだろう。声の震えも全く無くなっていて、心配するような、優しい声だった。だが、煤宮としては一番聞きたくない言葉だっただろう。後悔しないわけない、諦められるわけがない。だのに、それすらも肯定できない。

 その時、二人の背後から強い風が二人の間を吹き抜けて、反射的にほぼ同時にスカートを押さえる。激しい風だったが、ただの突風だったので特にスカートが捲れることもなく、小さく安堵の息を吐く。

 すると、先程の風で吹き飛ばされてしまったのだろうか、桜の花弁が粉雪のようにひらひらと降った。その光景を見て、煤宮は『花吹雪とはよく言ったものだ。』と感心していた。

 突風に見舞われてから、少しの間歩みを止めてしまっていた二人は、言葉もなくゆっくりと帰路を歩き始める。だが、そこには目には見えぬ距離が確かに出来ていて、桜が必死にそれを繋ぎ止めているようにさえ見えた。

「と、とりあえず、コンクールのことから、考える…から……」

 歯切れ悪い声に池田は、何とも言えないどこか不満げな表情を浮かべていた。だが、煤宮は俯いたまま、決してその顔を見ようとしなかった。




 電車に乗って、降車駅で池田より先に電車を降りて、そうしたらまた、独りの帰路だ。降車駅に着く頃にはもうすっかり真っ暗で、田舎というほどではないが全くもって都会ではないので、こんな時間になってからは人通りもほとんどない……誘拐や強姦にはうってつけだ。

 そんな暗がりを一人で歩くのは危険だったが、煤宮はそんなことを考えていなかった。ずっと、頭の中を昨日の父の言葉が反芻(はんすう)していた。

 昨日は偶然父が仕事を終えていただけで、タイミングが悪かったのだろうと割り切っても、今日も何か言われるかもしれないと不安に思ってしまう。大体、今になって突然何を言い出すと言うのだろうか。今まで自分の仕事ばかりでろくに子育ても、家事もせず、今更父親のふりをすると言うのだろうか。

 煤宮にはそれが許せなかった。自分が自由でいるのに、他人に不自由を強制する様な父親が嫌いで、絵を認めてもらいたいだなんて忘れてしまっている。

 歩いていると、あの角が近づいてくる。そこを右に折れればすぐ家だ。

 昨日は突然のことで驚いて、予感していなかったからつい涙が溢れてしまったが、今日は大丈夫と思う一方、既に泣いてしまいそうだった。家に近づくにつれて口が歪んでいくのが自分でもわかった。

 今日は紛れも無い黒色が心を埋め尽くしていた。頭は彼女の父の言う通り白い色なのかもしれないが、それと溶け合うでもなくただただ塗り潰していくような、暴力的な黒色だ。

 鍵穴に鍵を挿し、捻ると鍵はがちゃりと音を立てて開いた。鍵を抜き取り扉に手をかけると、途端に手に力が入らない様な気がした。いつもよりもずっと重たい扉を引いて、溢れ出る光の先に丁度、彼女の父親が姿を見せた。

 扉を閉めたくなった気持ちを抑えて、少しの間を置いて彼女は家の中に入り、後ろ手に扉を閉めた。「ただいま。」と、小さな声で言うが、父親は黙ったままこちらに向き直った。彼の部屋の方を向いていたから、おそらくは仕事に戻る途中だっただろう。煤宮は「うわ…タイミング最悪だったな……」とどうしようもない後悔を感じながら、父に背を向けてローファーを脱ぐ。

「良い作品だ。」


 突然の小声。

「え?」

 思わず煤宮は半分脱ぎかかったローファーをそのままにして、ゆっくりと父親の方へと振り向いた。父の表情は、貼り付けた様な無表情だった。

「繊細で、マネを思わせるような、ほぼ完璧な写実主義者の作品だ。」

 どの作品が、誰の作品が、とは言わない。それが何を意味しているのかは伝わっているという確信があった。彼は、その作品の作者と会話しているからだ。

「……わ、たし…は……」

「だが、色合いは未熟で、その状態でもう何年経ったことやら……お前は、何がしたいんだ?」

 言いたいことは結局変わっていない。だが、父親が彼女のことを褒めたり、認めたりするのはそれこそ何年も前のことである。

 だというのになぜだろう。彼女の中に喜びは全くなかった。彼女は心のどこかでこれを求めていたはずなのに、喜ぶどころか怒りすらも感じられる。『わざわざそんなことを言う為に私の作品を見たのか?』と。

「お前の努力や力量を認めよう。だが、やはりお前に、天才と渡り合うだけの才能は、無い。」

「……何? 言いたいのはそれだけ?」

「こんな時間まで絵を描くのは時間の無駄だ。勉強をして、もっと将来のことを考えなさい。」

 衝動的に飛び出そうになった言葉を飲み込んで、彼の言葉の意図を考える。本当は今すぐにでもその言葉を否定して、払い除けて、自分が絵を描く理由を守りたいだろう。だが、その時の彼女は不幸にも冷静だった。

「父さんは、そんなに私が絵を描くことが許せないの?」

「……」

 沈黙。

 少しして、父の顔に驚いた様な表情が浮かんだ。先程までの貼り付けた様な無表情より、よっぽど人間味のある、色のある表情だった。

「画家だから……画風の合わない私の絵は、見るに堪えないものなの?」

「……まさか。お前の絵が美しいことは、私が一番わかっている。」

「どう言う意味? 褒めてあげるから言うことを聞けって言いたいの?」

 思わず強い口調になってしまう。そんなこと、あるわけもないのに、彼の言葉ならばそんなことだってあり得てしまう気がしていた。煤宮は後悔して唇を噛み締めた。冷静に、しかし暴虐性を投げつけた様な赤黒い色が沸々と、彼女の中で煮えていた。

「美しい絵が、必ずしも人々に受け入れられるわけでは無い。お前の絵は、繊細であるが故に色をつけるだけで壊れてしまう……廃色であるほかない絵を、人々は受け入れられないのだろう。」

 その時の彼の頭の中には、彼女の描いた灰色の鳥の絵が印象強く思い出されていた。羽の一枚に至るまで丁寧に描かれた、自分には描けない繊細な絵を。

「画家は、孤独だ。誰にも相手にされなくても、描き続ける他ない孤独な職業だ。不安定な職業で…色をつければ全て失ってしまうこともある。」

「そんなに嫌ならやめればいいんじゃないの?」

「そう思った時にはとうに手遅れだった。子供の頃、ろくに勉強もしなかったツケが、今になって私に返ってきたのだ。」

 彼が握りしめた拳を震わせているのを見て、煤宮はようやく気付いた。ずっと冷静なつもりであったが、冷静であったのは表面上だけで、こんなにも明白なことにずっと気づかないでいた。

 彼は、煤宮に自分と同じ誤ちをしてほしく無いのだろう。画家を目指すことを否定するのも、勉学に勤しむように言うのも、全ての根底にそれがあるのだろう。貶されて、煤宮は当然許せなかったが、それと同時に不器用な父なりの優しさに触れていたのだ。それを自分は、怒りで見えなくなっていただけだったのだ。

 互いにもう少し、互いを考えることができていたならば或いは……

「だから、お前には……」

「私は、絵を描き続ける。」

 父の言葉を遮って、彼女は震える声を絞り出した。

 たとえ父親が自分の事を考えていてくれたのだとしても、彼女には今までの彼の態度を、到底赦せなかった。それ以上考えている余裕は彼女にはなかったし、互いに互いのことを考えるには(いささ)か遅すぎた。




 いつか、腹を割って話さねばならないと分かっていた。私も、意味もなく娘の絵を否定していたわけでは無いのだから。不器用な父親としての、弁明ではなく謝罪を、彼女にせねばならないと、分かっていた。

 受験というものに背中を押される形で、私はついに彼女と話す事になった。昼間に勝手に部屋に立ち入ってその繊細な絵を盗み見たからだろう。娘の絵だという事を忘れていても、十分賞賛できる美しい絵だった。私の憧れた写実主義の巨匠、マネを思わせるようなタッチのそれは、まさしく私が追い求めていたものであった。ただ一つ、色彩の豊かさを除いては。


『ひまわりの人みたいな絵……お父さん、すごい…』


 他の誰の声よりも、誉高い賞よりも、娘からのその賞賛が、憧れが、私の生き甲斐だった。そして、娘の生き甲斐なのだと勘違いをしてしまった。今思えば、私の惰性だったのだと思う。

 彼女に色彩の美しさを教えていたはずだったのに、私はいつの間にか彼女に、繊細な筆の扱い方ばかりを教えていた。自分では届かなかったその美しさを手に入れる為に、マネの絵を再現する為に、娘を利用していたのだ。結局私は、絵を通じて夢を追い求め、娘の夢を奪ってしまったのだ。

 父親失格、画家失格……自分でも嗤いが堪えられない。私は自らの手で、自らの生き甲斐を壊し、否定し、絶望していたのだ。そうして過ちに気付いて、私は彼女に絵を諦めろと呪いを吐いた。今思えば、私のあの一言が、彼女をこんなにも苦しめることになったのだろう。

 画家の世界は、実力において才能がそのほとんどを占める。そんな世界において、才能がないだなんて言うのは他のどんな言葉よりも彼女の胸に刺さったことだろう。それと同時に、私の胸を深く、深く、貫いていた。




 お母さんに挨拶もせず、何も言わずに自分の部屋に閉じ籠った。これ以上、自分の中に入ってきてほしくなかった。傲慢な話だ。自分を助けようと優しくしてくれる母親に対して、自分の中に入ってくるなだなんて。

 勉強、勉強、勉強……暇さえあれば世の親というものはそればっかりだ。いつだって勉強しかないとでも思ってるのだろうか。自分だって、勉強なんてしてこなかった癖に。

 努力する事が間違ってるなんて思ってないし、努力できる事は凄いと思う。でも、それが全てじゃない。それよりも大切なことは、自分がどんな人間か、どうなりたいのかを理解することだと思う。

 そうやって考えるのが私という人間で、結果画家になりたいと思うのが私という人間だ。私には他の人たちがみんな変に見える様に、他の人たちもみんな私のことを変に見えていると思う。だけど、そんなこと気にしない。自分らしさを殺して、社会に適合する為にみんなと同じものを選ぶ意味が、私には分からないから。

 だから、勉強なんて大嫌いだ。絵を描くことは大好きだ。叶えたい夢があるから、夢を追って何が悪い。結果後悔しても、どこかで朽ち果てても、それでも私は自由に生きていたい……父さんだって、それで今、絵を描いているんでしょ…………




 翌朝、彼女は大雨にも関わらず、一睡もせずにいつも通り早朝から学校に向かった。出かける際に父の仕事部屋から光が漏れていたが、気に留めなかった。

 学校に着いてからは、ただひたすらに絵を描き続けた。何度も、違う景色を、違う構図で、違う色で、同じ想いで。描いては辞め、捨てては描き、ずっとそれだけを続けて、何日も経った。

 気付けば彼女の周りには彼女がここ数日で描いた絵の欠片が溢れていた。だのに、そこに完成した絵は、ひとつもなかった。彼女はそうして積み重なって出来たゴミの山の上に座って、新たなゴミを創り出していた。

 結果として、彼女は彼女の父親の警告通りの事態に陥っていた。彼女は、今までにない孤独を味わっていた。恐らくは、彼女の画家としての人生に反抗という強い色が付いてしまったせいだろう。廃色の彼女の人生が、その色に支配されて崩壊を始めたのだ。廃れて(なお)光に焼かれて崩れるとは、報われないものだ。

 彼女には、ここ数日の記憶は灰色に残っていた。数度安藤に作品についての指摘を受けたり、池田に心配されたり、東雲と作品について話をしたりした気がするが、よく覚えていない。どうせいつもと変わらないことを話していたに違いない。そう割り切って、他人との繋がりをどうでもいいかと切り捨ててしまっていた。

 自分が他者とは違うという確固たる自信。それが彼女をこの孤独の底に縛り付けているものであり、自分自身の存在を証明できる大切な命綱だった。

 父親とは、あれ以来一才口を聞いていない。互いに視界に入ることはあっても、何かを言うことは無かった。挨拶さえ、無くなった。母親との会話も、少し減ったような気がする。おそらく彼女が父親と喧嘩のようになっているからだろう。気不味い空気が、家族の中を醜い灰色に染め上げて、今にも崩れそうにしていた。

 しかし、煤宮にとってはそれすらもどうでもいいことになっていた。家族が崩れようが、友を失おうが、たとえ自分が壊れてしまおうが、どうでも良かった。寧ろ、そんな現状に対して快感すら感じていた。

 そんな状態の彼女は今朝も早朝から学校に赴き、灰色のゴミを描いていた。その日は、家を出る直前に父と玄関で出会して、身勝手にも機嫌が悪かった。それに、コンクールが迫り、焦りもあったのだと思う。

 白色だったキャンパスに灰色を乗せて、その上に灰色を乗せて、更に灰色を乗せて……やはり出来上がったのは灰色の絵だった。繊細で美しく、それでいて醜く色の映えない、廃色の絵。桜の大樹の下で転寝する少女を描いているが、それはやけに繊細なモノクロ写真のようで、加工を加えたような奇怪な作品に仕上がる。

 やはり色が気に入らないのか、いつしか東雲が自分の目の前でやってみせたように、パレットの上の灰色に、赤色と黄緑色を少々混ぜ合わせてみる。だが、残念なことにそれらの色は混ざり合って、最終的には醜い赤黒色になった。

 ぽたり。赤黒色が、彼女の灰色の(パレット)の上に滴り落ちた。灰色が、消えることはない。だが、一雫、また一雫と赤黒色が滴る度に、灰色を覆い隠すように赤黒色がパレットを染める。パレットは既に使い古されていて、赤黒色に染まるにつれて、ひびが入った。もうほとんど割れてしまっているに等しい。

 こんなにも不快感を感じるのは久しぶりのことであった。自分が壊れているだけなのに、何故(なぜ)だかそのことが許せなかった。恐らく、割れたパレットのひびから灰色が零れ落ちていくのが許せなかったのだろう。そして、赤黒色が侵入してくることに堪え兼ねて、とうとう彼女は立ち上がって、目の前のキャンバスを乱雑に掴んだ。ぐしゃりとキャンバスが表情を歪めて悲鳴を上げる。力任せに破こうとするのだが、

「咲絵。」

 思わぬ邪魔が入った。

 いつからそこにいたのだろうか。煤宮は驚いて飛び退きながら背後に振り向いた。その下瞼には涙が溜まっていて、今にも溢れてしまいそうだった。

「……先輩。」

 東雲が、煤宮のことを見つめていた。


 キャンバスを丁重にイーゼルの上に戻して、煤宮は屋上に連れ出された。本来生徒は立ち入り禁止であるが、東雲が教師の目を盗んで鍵を拝借してきたらしい。屋上には灰色のフェンスが建てられていて、間違えても落下しないようになっている。風は強く、早朝の、まだ太陽も十分に昇っていない為か、少し肌寒かった。

 煤宮は、背後で東雲が扉を閉める音を聞きながら、不貞腐れたような表情でフェンスの前まで歩いて行った。何でそんな表情になっていたのか、自分でもよくわからなかった。

「それで?」

 東雲が背後から歩み寄ってきたので、そちらの方に振り向く。反射的に足が一歩退いた。

「何があったの?」

 “何か”ではなく“何が”。掴みどころのない、深追いしない優しさが特徴である東雲にしては具体的で脚を深く突っ込んだ質問だった。それに驚いたが、それほどまでに自分が違和感を与えてしまっていたのだなと溜息が零れ落ちる。

「……別に、先輩には関係ありません。」

 刺々しい言い方で、ヤマアラシのようだ。攻撃的な棘では無く、「これ以上立ち入るな。」という、ある種警告のような、防御的な棘だと東雲にもよく伝わった。

「家族の……私の問題です。」

「……お父さんに、何か言われたの?」

 沈黙。それは、東雲の言うことが図星であると答えるのに等しかった。東雲も、その反応を確認して、小さく溜息を吐いた。

 東雲には、煤宮の気持ちがよく分かっていなかった。どんなに推測しようとしても、いつも分からなかった。今もそうだ。そして今、彼女の気持ちを汲んでやれない自分の無力さに絶望すると同時に、苛立っていた。

 背後で昇りかけていた太陽が、分厚い雲に覆い隠されて、その場はさらに暗く、寒くなった。その瞬間、東雲は煤宮の心が離れてしまったように感じられた。心の臓が寒さに震えている。繋ぎ止めなくては、離れないでほしいと手を伸ばした。きっと届くと信じていた。

「それで、いいの?」

 手は、届いたようだ。彼女の表情が(かす)かに歪む。居心地が悪くなったのか目線が下に沈んでいく。

「……いいと…いいと思ったことはありません。でも、もう…どうでもいいんです。」

 理論の通った矛盾だった。それを聞くだけで、彼女がどんなに葛藤してきたのか、苦悩してきたのかが手に取るように分かった。東雲は、こんな時になって初めて彼女の気持ちがわかることを自嘲する。それと同時に、彼女のそういう稚拙な気持ちに触れて、安堵した。

「なら、どうするのかは分かっているんでしょ?」

「……描く。」

「…いいや、違う。」

 嘘だ。つい寸前までは、自分もその通りだと考えていた。だが、彼女から発せられた言葉に込められた意味が自分の言葉に込めた意味と違うことに気づいて、答えを変えた。

「描ききるんだ。」

 彼女は少々困惑したような表情で東雲のことを訝しむような目で見つめた。彼の発言の意味を推し測っている。だから、東雲は笑顔で答えた。

「最後まで。途中で投げ出したりせず。」

「……あぁ…」

 彼女には伝わったらしい。今の不安定な心理状態の彼女にとって未来を見せるというのは一か八かの賭けだったろう。死人に未来はないからだ。

 しかし、納得したように息を漏らした彼女を見て、東雲は安心していた。このまま孤独に、一片の光さえ届かない深淵に沈み、そのまま消えてしまうのではないかと不安に思っていたからだ。

 すると、東雲の背後で雲から太陽が現れて、彼の事を明るく照らした。日食の様に眩しかった。煤宮には、彼がきらきらと輝いて見えた。だが、彼は逆に、煤宮の背後を指差した。何だろうと彼女が振り向けば、微かに朝焼け色に色付けられた寒々しい灰色が広がっていた。学校の影に隠れて、住宅地はまだ灰色だ。

「僕は、君のはいいろの絵が好きだ。」

「……」

「君の、はいいろが好きだ。」

 煤宮は、その言葉を聞いてはっとした。表情の変化の乏しい彼女だが、その時何かに気付かされたような、驚かされたような表情をしていたのは確かだった。

 そして、控えめに口角を上げた。子供みたいに、悪戯っぽく、嬉しそうな表情をしている。頬が紅潮して、廃色だけだった彼女の中に、人間味のある色が加えられていく。

 春の、少し寒くて暖かい不思議な桜色の風が、彼女の茶色い髪を揺らす。


 ―――先輩、わたし……私!


 開きかけた口は、東雲の背後から聞こえたガコンという金属製の重々しい扉が開く音で閉ざされた。東雲も驚いて、慌てて振り返る。見ると、開いた扉から白髪の教師が現れて、驚いたような表情をしている。

「な、うん? おい、ここで何してるんだ?」

 東雲は「やれやれ」と言うような表情で、しかし笑顔で、煤宮の方に向き直る。

「戻ろうか。」




「なーにが『戻ろうか。』だ! 女の前だからってカッコつけてんじゃねぇよ!」

 そのあと私たちは教師によって強引に扉の中に押し込まれて、屋上から追い出されてしまった。




 東雲の言葉を受けて、美術室に戻った煤宮は池田に軽く挨拶をしてから、再びイーゼルの前に腰掛ける。その表情を見て、池田は少し安心したような表情で、煤宮と東雲のことを少しの間見守った。恋する娘を見守る過保護な母親の様だった、と言えば彼女は怒るだろう。

 あれやこれやと煤宮がここ数日間の間に描いては途中で諦め、描くのをやめてしまった灰色のゴミたちをかき集める。東雲が屋上で言った『描き続けるんだ。』とは、きっとこういうことであろう。煤宮は自分なりに解釈して、描きかけのキャンパスに灰色を乗せた。

 作品が灰色であることなど気にしない。寧ろ、それで良かった。そう、ずっと単純なその一言が欲しかっただけなのだ、『好きだ。』という一言が。父親の、自分の欲望や娘への忠告が混同したような混色ではなくて、東雲のような単色の言葉で、認められたかっただけなのだ。自分の灰色を否定せず、溶け合って灰色に微かな色を与えてくれる様な、そんな言葉が欲しかったのだ。

 単純。ああ、全くなんて稚拙なのだろうかと煤宮は自分でも笑いが堪えられなかったが、それでも良かった。それこそ、どうでも良い。将来の夢だなんて、成就する時よりも未熟で稚拙でなければ抱くことすら叶わない。だから、稚拙なのは当然のことで、どうでも良いのだ。

 割れたパレットからは変わらず灰色が溢れていたが、今は東雲が灰色を両の手で掬って、消えてしまわないように守ってくれているような気分だった。だから、迷うことなくその割れたパレットを使えた。灰色に覆われていた世界の先に一筋の灰色の光が見えたような気分だった。途方もないような創作意欲と、承認欲求が渾々と溢れ出てきて、理屈を伴わない自信となっていた。

 それからの彼女の作品は大きく様相を変えた。と言っても、やはり灰色の絵であることに変わりは無いのだが。そしてやはり安藤からは批判される一方だ。だが、その絵には理解できぬ美しさが、確かにあった。何より、一人の画家としての自信のようなものが感ぜられた。

 そうして、全てのゴミを作品として描きあげた彼女は、久し振りに、コンクールの作品について考える。とは言えど、屋上であるものを見つけていた彼女は、作品の題材をほとんど決め終えていた。そのため、彼女はすぐに筆を滑らせ、繊細な灰色の絵を描いていく。




 コンクールの作品提出まで、あと二日。その日の早朝、東雲は煤宮に呼び出されて、慣れない早朝に美術室を訪れていた。最近は毎日多くのOB、OGが美術室に遊びに来ていたが、早朝に来る者は居なかった。

 一体こんな早朝に何をと思っていたが、美術室に入ったときには、既に煤宮が作業を始めていた時は驚きのあまり小さく叫び声をあげそうになったし、呆れて大きな溜息を吐いた。まぁ、冷静になって考えてみれば、彼女がここでする事はただ一つ…絵を描く事だけだ。その呪いの一片を与えたのは他でもない自分だ。

「え、いつもこんな早いの?」

「そう、ですけど?」

「えぇー……老人かよ。」

「誰がババアだ。」

 そこまでは言ってないよと肩を竦めながら彼女に近づくと、彼女は無言で、手前の椅子を指さした。イーゼルの隣に置いてあって何をするのかは明白だった。故に東雲にはよく分からなかった。

「……え…肖像?」

「目だけですけどね。」

「目? 目だけ描くの?」

「そうです。ほら、さっさと座ってください、先輩。」

 言われるがままに、理解が追いつかないまま椅子に腰掛けると、「動かないで下さいね。」と釘を刺されて、ずいずいと彼女の椅子と、キャンバスを近づけて来る。その距離感から、心の中で「マジで目だけ描くつもりだぁ。」と目を点にした。

「……何で僕の目なの?」

「描いてる人の目を描くわけにはいきませんから。」

 まぁ、確かに。確かにそうなんだけど、そうではなくて。誰かに弁明するように御託を並べて、東雲は自分の余裕のなさに目を伏せる。

「あ、ちょっと。目、閉じないで下さい。」

 そこでようやく自分の目が描かれていることを思い出した彼は、軽く謝罪してから目を開けた。

 少しすれば、煤宮は『時間がない』と言う雰囲気を全く隠そうともせず、筆を操り始めた。だが一方で、焦げ臭いのは空気だけで、彼女の絵を描く様は慎重そのものだった。知った風に、

「咲絵らしいね…」

 と呟いた。が、聞こえていないのか聞く気がないのか、煤宮は何も返さなかった。

 黙ったままひたすらに描き続けて、腰が悲鳴を上げ始めたあたりで、(にわか)に煤宮が小さく口を開いた。

「……この前は、ありがとうございました。」

 意外な言葉だった。東雲は狐につままれたような顔をした。律儀でそこそこ礼儀正しい彼女だが、こう言うことを、特に東雲に対して言うような印象はなかった。

「改まって、珍しいね。どうかしたの?」

 彼女は小さく、唸るように息を吐いた。どう答えたものかと答えあぐねている。少しの沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開いた。

「あの日の…空が忘れられないんです。」

 筆を置くことなく、手を休ませることなく、集中して、慎重に灰色を描き、紡ぐ。煤宮の脳裏には、あの日の朝焼け色と灰色の混じったような空が浮かんでいて、あの日の東雲の言葉が反芻していた。単色の、『好きだ。』と言う言葉を。

 何色とも捉え難い、しかし確かに感じた桜色を反芻させながら、煤宮は描く。東雲の灰色にも近い薄い黒色の瞳を、淡い桜色に染めて。

「そっか……咲絵を縛るつもりで言ったわけじゃなかったんだけどな。」

 そんな言い方は(ずる)いと、東雲自身も行った後で後悔した。彼女の次の言葉を縛る、傲慢な言葉であったと思ったからだ。

「良いんです。あのまま進んでいたら私、きっと立ち止まれなくなっていたから。」

 本心だった。冷静になって振り返ってみれば、あの頃の自分は何かに取り憑かれたように絵を描いていたし、周りが見えていなかったと煤宮自身思っている。だが、それ程までにしてでも成就させたい願いがあったのかもしれないと思えば、どこか寂しい気もした。

 すると、煤宮がキャンバスから筆を離して、筆洗の中に入れる。灰色が水を染め、なんだか汚く見えた。ぐちゃぐちゃで、ちぐはぐで、汚い灰色だ。自分の心の写鏡のようだと、煤宮は心の中で笑った。

「コンクール、頑張りますよ。」

「うん、楽しみにしとくよ。」

 そう言いながら、改めて東雲の眼を観察する。優しい雰囲気をまとうその瞳は柔らかく弧を描いていて、二重だからくっきりしているのにふわふわした印象があった。雲のように、掴みどころのない雰囲気だった。

 それが東雲明希という人物なのかもしれないと、煤宮は思う。やる気があるんだかないんだかよくわからない、それでいて絵に対する情熱は誰にも負けないくらい強くて、誰かを助けることに躊躇がない。清々しいほど快晴が似合うのに、雲と同じ灰色が似合うだなんて狡い男だ。

「先輩の目って、まんまるな垂れ目だと思っていたんですけど……ほんの少し猫目ですよね。」

「そう、なの?」

 本人がわかるはずもない、無駄な質問だ。事実、東雲の目はやや猫目である。瞳の形と全体のバランスを比較すれば一目瞭然だ。だが、ふわふわした印象のせいか垂れ目の方ばかりが目立っている。実際にはそんなに垂れ目じゃないのに、だ。

 瞳の色も、灰色に近い薄い黒色と表現したが、光を反射してその瞳の中に風景を写したりする。煤宮含め、多くの人の眼はそういう現象を起こす。だが、そのほとんどは気づかないほど些細なことだ。しかし色彩の問題か、東雲の瞳はその現象を度々引き起こし、それが外から見てもよくわかった。それが、彼女が東雲の目を好む理由の一つでもあった。

「はい……先輩、『にゃあ』って鳴いてみてください。」

「嫌だよ。こんな歳になって……」

 冗談を言いながら、半笑いに筆を筆洗から取り上げる。ぼとぼとと音を立てながら灰色の水が筆洗の中に溜まった水に落ちていく。絵の具が混じっているからだろうか、少しどろどろとしていて重たい水だった。筆洗の縁の部分に筆を押し付けて筆の中に溜まった灰色を絞り出せば、筆は更に灰色を吐き出す。

「いいじゃないですか。()()()()()()()()

「そんな棒読みで言われても…まぁ、普通に言われてもやるつもりはないけど。」

「ノリが悪いですね。」

「冷静に判断しただけだよ。」

 十分に灰色を吐き出した筆を持ち上げて、他の水溜りでほんの少しだけ水を含ませる。やや灰色が水の中に溶け出すが、少量ならば気にしない。その方が、作品全体に一体感が出て良い……はっきりとした色彩の作品には似合わないが、彼女の作品ならば別だと言う意味だ。

 そうして少しだけ水を含んだ筆を再びパレットの上に持ってきて、先ほどまで使っていた灰色に、(あらかじ)め用意しておいた薄い桜色を混ぜ合わせる。一見正反対で溶け合うようには見えない二色だが、少し雑に混ぜてやれば灰色の中に桜が散る。

「へぇ、そう言う風に使うんだ。」

 今度は東雲が質問する番だった。

「はい。悩んだ結果、これが一番私に合ってる。」

「なるほどね。完成した作品が楽しみ。」

「まぁ、気に入らなかったらもう一度書き直しますけどね。」

 東雲がそれを手伝うか否か、初めから聞いていないようだった。東雲はやれやれと、彼女の病的な自己本位性…否絵画本位制に呆れるも、少し嬉しそうに首を横に振る。

「……煤宮は、引退したらどうするの?」

 思いがけない言葉に、筆を止めて東雲の方に向き直る。黙ったままいると、東雲は迷いながら口を開く。慎重に言葉を選んでいるのが見てとれた。

「その…絵は、描き続けるのかい?」

「……はい。私にはそれしかありませんから。」

「そうかい……安心したよ。」

 よく分からない、と言うような表情をした煤宮は何も言わずにそのままキャンバスに向き直り、その上に筆を乗せた。煤宮は、東雲は後輩にどうなって欲しいだとか、そう言うことは言わないタイプだと思っていた。

 と言うのも、東雲はいつも個人の自由とかを尊重して決して無理強いはしないし、方向性の違いをわざわざ意見するようなこともなかった。少なくとも、進路や将来に関わる話については、一切。

「意外だったかい?」

 心を読まれた気分だった。煤宮は、黙ったまま頷いた。なんだか、心の中に手を突っ込まれているような気分がして、(くすぐ)ったかった。

「いつしか言ったと思うけど、咲絵は僕が手塩にかけた後輩なんだ。その行末くらい、僕でも気にかける。」

 煤宮が思う『意外』と、東雲が思う『意外』は少し違ったようだ。今朝は窓を開けていないのにも関わらず、風が二人の間を吹き抜けた気がした。おそらく、煤宮がそう感じただけだろう。

「画家になるか否かは咲絵次第として、絵は、描き続けて欲しいと思ったんだ。」

 意地の悪い人だ。煤宮は筆をキャンバスから離し、パレットの上の灰色を継ぎ足す。少しずつ、絵の欠片が紡がれていくような感覚だった。

「……私にとって、絵を描くと言うことは画家を目指すと言うことと同義です。分かってて言ってますよね?」

「まぁ、そうかもね。」


 なんだか、窮屈だ。何が窮屈なのかよく分からないけど、兎に角窮屈だ。動けない。いつもの先輩と、違う。何かが違う。その声も、表情も、優しさや意地の悪さも、確かに先輩だ。でも、何かが違う。


 ……窮屈そうだ。何をそんなに怯えているの? 僕は君に、何かしてしまっただろうか。僕は、君にとって……僕は、何者だ? 優しい言葉、どんなに並べても君には届かなかったその言葉が、あの日、あの朝伝えられたと思っていた。不純な動機じゃなくて、心から溢れ出た僕の本心の優しさを……


 煤宮は、とうとう絵を描き終えた。満足のいく、いい仕上がりだと感じた。無論、東雲に見せる気など毛頭ないが。小さな声で「よし。」と筆を筆洗に入れながら、改めて描いた絵を見てみる。

「ん、出来た?」

「あ、先輩にはまだ見せませんよ?」

「え、そうなの? 僕モデルだよね?」

「目、だけです。目だけくり抜いてくださるなら、見せてあげてもいいですけど?」

「なんてグロい事いうの⁉︎」

 他愛もない会話。お互いが人形に向かって話しているような、まるで実態を伴わない会話だった。

「……」

 『先輩』と、東雲のことを呼びかけようとした刹那、また風が、二人の間を吹き抜けた。ガラガラと音を立てて、美術室の扉が開かれる。

「しまーす。」

 省略された挨拶をしながら、池田とその友人らが美術室に入って来た。気づけばもう人が集まってくる時間帯になっていた。集中していたせいか、時間が過ぎ去るのが極端に速く思えた。

「おはようございます、先輩。」

 無論、煤宮への挨拶はない。「来てたんですか?」とか、「何してるんですか?」とか、あっという間に東雲は話の中心人物になった。

「おはよー、今日は午前だけいるよ。」

 どことなく、東雲の笑顔は目が笑っていないような……本心から笑っていないような気がした。




 後日、サクラコンクールでは、新三年生の中では煤宮が唯一審査員特別賞を受賞したきりだった。真二年生は流石というか、林の金賞を筆頭に、合計で四つも賞を受賞していた。

 だが、煤宮にとってそんな事はどうでも良かったのだろう。心の中にぽっかりと空いた穴が埋まらなくて、虚しかった。

 煤宮の中から、東雲へ想いを伝える気はもう、完全になくなってしまっていた。理由は単純で、複雑だった。東雲は、煤宮と釣り合わないと思ったからだ。相手の方がずっと重いと悟ってしまったのだ。

 池田に何度止められても、励まされても、否定されても、煤宮は考えを改めなかった。少しでも希望とやらを願ってしまう自分が、恐ろしかったからだ。希望など、抱きたくないのだ。立ち止まり、振り返ればきっとまた、東雲に手を引かれてしまうから。彼に、迷惑をかけてしまうから。

 何かしら理由をつけて逃げる。人は逃げる事を否定的に捉えることが多い。実際、逃げているだけでは勝てはしない。だが、煤宮にとって逃げとは大敗北でありながら東雲の勝率を極限まで引き上げる、切り札(ジョーカー)だった。だから、逃げた。だが、それがこんなにも虚しいことだとは知らなかった。後悔していないと言えば、嘘になるだろう。

 だが、煤宮に、後悔などをしている暇はなかった。否、考える暇を作りたくなかった。先生の言葉を適当に聞き流して、仲間からの喝采もほどほどに、後輩たちの方へ話題を向けて、どこかにいるであろう東雲から、逃げた。


 逃げて、辿り着いたのが家であったのは、そこからは逃れられないと自覚していたからだ。皮肉なことに、結局のところずっと逃げ隠れてきた父親からは逃げることも叶わないそうだ。

 腕の中には受賞したあの作品を抱えて。あの作品に、題名はつけなかった。提出する段になって、なんとなく『桜色のあなたを』なんて題名をつけたが、本当はそんな題名に合わないと知っている。なぜならその作品は灰色で、屋上から見えたあの日の景色を反射した瞳が、微かに桜色に染まっているだけだったからだ。本当の題名をつけるとすれば……

 いつもと違う、明るい空の下、煤宮は、帰路を進んでいく。すぐ先の角を右に曲がれば、家はそこだ。何度も、この家に帰ってきた。だのに彼女は、今日初めて家に帰るような気分がしていた。一度も出したことのない色を、パレットの上に出してみるような気分だ。

 コンクールで受賞したからではない。確かに彼女にとって、と言うよりは多くの画家、画家を目指す者たちにとって、受賞というのは悲願だ。受賞することが目的でないにしろ、コンクールに出した手前嬉しくない者はいないのだろう。ともあれ、彼女は悲願を手にして嬉しかったし、高揚を抑えるのに必死だった。

 ましてや、彼女にとっては父親の言葉を否定することに関してその糸口となり得る、大きな出来事だ。受賞を伝えられてからは、父親になんと言ってやろうかと、そんなことばかり考えていた自分もいる。だが、言うべきことは最初から分かっていたかのように、早々に言葉を選んで無駄な思考をやめた。

 それからというもの、彼女は帰宅までの間水で絵を描いていた。電車の中で池田にひどく東雲の事を問われたが、適当にあしらった。池田はもしかすると勘違いしたのかもしれないが、それすらもどうでも良かった。もう、東雲と関わることなどないのだから。それが、煤宮にとってのけじめであり、退路を絶つということだった。東雲によって教えられたからこそ、東雲とは関わらない。そうでなければ、また立ち止まってしまうから。

 これから彼女が父親に伝えることも、大凡(おおよそ)はそんな内容のことのつもりだった。霧を払い除けて、水溜りを飛び越えて、前に進み続けた。

 角を曲がり、家が目の前に立ちはだかった。だが、どこか歓迎されているように見える。それはおそらく、自分の中で家という物の価値が、捉え方が変わったからだ。こんなにも温かみのある障壁だとは、煤宮は知らなかった。冷たい父の言葉ばかりが、この家を包み込んでいたからだ。今思えば、その父親の言葉の真意がなんとなくだが理解できるし、ただ冷たいだけじゃなかったのだと思えた。もちろん、赦すつもりは毛頭ない。あの日の気持ちは変わらないが、今日、この日に、この温かさを肌で感じ取り心で理解できたことは、彼女にとって幸福なことであっただろう。

 そんな、いつもとは違う、しかしいつもと変わらない灰色を抱えたまま、門を潜り抜けて、数段の階段を登り、扉の前に立つ。ポケットから鍵を出して扉に差し込み、捻れば鍵はいつもより容易く開いた。

 前に向き直った時、目の前に鏡があった。丁度煤宮の全身を映し出す、大きな鏡だ。淵周りには褐色の錆が付いていて、随分と古い鏡だとわかる。煤宮は、自身の顔を見る。灰色に塗り潰された、ひどい表情をしていた。瞬けば、鏡は消えて、重々しい扉が立ち塞がっていた。

 幻覚じみた……白昼夢のようなそれが何を意味するのかは煤宮にとっては明白であった。だが、不安はすぐに拭われた。それは、自分がもう、乗り越えた事だったからだ。もう迷う必要などない。自分の色で、真っ白なキャンバスに足跡をつけていくだけだ。

 決心したように小さく息を吐き出して、煤宮は扉に手をかけるといつもよりゆっくりと扉を開いて、家の中に入った。昼間に家にいる事はここ最近は特に少なかったので、変な感覚であった。廊下は電気が点いていないのに明るくて、白い光に照らされた埃がきらきらと輝くダイヤモンドのようにも、行く手を阻む(もや)のようにも見えた。

 背中に背負った鞄と、左肩にかけたキャンバスバッグを玄関に置いて、いつものように靴を脱いでいると、扉が開かれる音がした。何の声もないことから、それが誰によるものなのか、煤宮には見当がついていた。振り返り、そこに彼女の父親の姿を確認して、僅かに顔を歪めた。

「ただいま、父さん。」

 表情を少しだけ繕って、久し振りに、丁寧に挨拶を投げかける。が、当の父親の方は表情一つ動かさず、厳然として彼女のことを見つめていた。かける言葉に迷っている。いつもと違う彼女の様子に、戸惑っている。

「……絵は、続けるから。」

 どうしようもないので、兎も角伝えようと思っていた言葉を伝える事にした煤宮は、少しだけ歯切れ悪そうに言う。少し、緊張しているようだった。普段の調子から、なんとなく怯えているのだろう。

「前までもそうだったけど……理由もなく描き続けるつもりは無いから。自分だけの理由で、描き続けるって決めたから。」

 自分には、自分にしかない特別な……自分だけの色があると知った。

 十人十色。小学生の頃彼女も含め、或いは彼女の父親も人生のどこかでその言葉を聞いたことがあるだろう。一人一人に色があり、それはとても尊いことだと教えられる。当然のようにそれが尊い事だと言うが、それはある種自分を縛る呪いのようなものでもあり、一概に良いものであるとは限らない。現に彼女は、その色のせいでこんなにも苦しめられている。

 だが、彼女はその色さえも自分にしか出せない色だと、絵画に使う事を選択した。それは、彼女がその色を尊いと認めたわけではない。今でも、そしてこれからもずっと、きっと、彼女の廃色は彼女にとって呪いだ。その色のせいで蔑まれ、疎われ、時に憎まれることさえあるのかもしれない。

 彼女が廃色を自身の色として絵画に使う事を選んだのには、いくつか理由があった。

 一つ。その色を否定した父親の言葉を否定し、撤回させる為。

 一つ。その色の使い方を教えた東雲に報いる為、或いは東雲との約束を果たす為。

 そして、

「私は、私だから。」

 自分という存在を、廃色で塗り固められた煤宮咲絵という存在を、証明する為。

「今まで、ありがとう。これからも…まだ、もう少しだけよろしく。」

「……」

「これは、私の人生だから。」


 これを喜ばしい事だと、申し訳ない事だと素直に思えない自分が愚かしい。いつから私は、こんな人間になってしまったのだろう。

 そんなこと、とうの昔から毎日、考えなかった日はなかった。だが、咲絵に紡がれたその言葉は、私の心を灰色に塗りつぶすには十分だった。

 (せめ)ぎ合う怒りと罪悪感。その全てを喪失感が、私の心を灰色に塗り潰していた。咲絵の…娘の門出、この家からの出港を喜ぶべきであるのに、とてもそんな気分ではなかった。なにせ、その娘を今まで散々縛り付けていたのは他でもない私だからだ。更に自己中心的な事を言うことが許されるならば、咲絵が画家として成功するのではないかという根拠のない予測が、堪らなく絶望感と怒りを私に与えるのだ。

 知らなかった訳ではない。彼女の才能や、想いを。紛う事なき咲絵の人生だ。今まで、私が勝手に口を出して、歪ませていた事が、大きな過ちだった。だが、親なら誰だって子供の将来の安定を願うものだろう……そんな事を言って、私はこの期に及んで咲絵に、或いは自分に、赦して欲しいなどと汚い事を考えているのだろうか。実の娘の人生を乗っ取っていた罪など、どんなに謝っても、決して赦されることなどないだろうと分かっているのに。




「……そうか。」

 父親の口は、引き攣っていた。何か言いたそうだが、必死で我慢しているというのが見てとれた。だが、咲絵は、自分の考えが変わらないうちにと、父親の視線を背中に受けながら、居間へと入っていった。

 父親の顔が灰色に見えた事は、とても言い出せなかった。

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