プロローグ
どこまでも青く透き通った空と、白い入道雲を映しながら、まっすぐ天に伸びる大きな塔。
軌道エレベーターと呼ばれるその塔の麓には、鈍く灰色な街が地平線の向こうまで広がっていた。
この煤けたアパートの窓から望めるその景色は、ここがいくら小汚くて不便でも離れがたいと思わせるほど素晴らしい景色であったが、その部屋の主たる田中には、今日に限ってそんなものにかまう余裕がなかった。彼はしなしなと壁に寄りかかり、そのままぺたんと床に座り込むと、情けなく緩んだ顔のまま居間の中央を見やった。そこには、使い慣れたちゃぶ台が一つ。そして、その上で青白い光をまとっている何かが一つ。
スペースクワガタである。
窓から差し込む穏やかな日差しの中、ややおおきめとはいえありきたりな黒い見た目とは裏腹に、輝きだけはやけに神秘的なその宇宙生命は、田中を見守るかのように静かにたたずんでいた。
一方、田中の心は穏やかではなかった。彼は小中高と生きもの係を歴任したし、大学も生物を専攻するほどであったが、唯一クワガタだけは苦手だったのである。
耐えかねたのか、田中はちゃぶ台から視線をそらすと、天井を仰ぎ見て瞼を閉じた。秒針の音が静かな居間にこだまする。
そうして数分後、ゆっくり瞼を開けた彼のまなざしには、ここ数週間で一番の真剣さがこもっていた。
震える両足を手で押さえつけ、背中で壁を伝って立ち上がる。やや顔を背けながらも、そっとスペースクワガタに近づいていった。
スペースクワガタは変わらず佇んでいる。田中の額を汗がつたう。
さらに近づく。ちゃぶ台がもう目の前だ。クワガタの光が顔を照らした。
田中は、なんとか横目でクワガタを捉えながら、遠慮がちにその上に手をかざす。
スペースクワガタは動かない。
鼓動の音と、秒針の音が、心をせかしてくる。
肩で息をしながら、そのままゆっくり手を下ろしていく。
あともうすこし。
ほんの数センチ。
そうして触れる瞬間。
時計の針は、12時を指し示した。