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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第1章 幼蕾淡くほころぶ
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第九話 姫たちの涙

 歳月で侘びた古寺のように、そこは何事も動かぬまま静まり返っていた。生駒屋敷は馬借の大家である。取引に忙しく立ち働く者たちもどこかには必ずいるのだろうが、吉乃の病床へ続くこの渡り廊下は、そこだけ時間が停まったかのように穏やかな陽に蒸れているばかりである。


何故(なにゆえ)じゃ…)


 市はこの、薄く木漏れ日が降りそそぐ濡れ縁を眺めた時から、他人の屋敷に足を踏み入れたとは思えない居心地よさを感じていた。まるでここは、戦乱と言われる現世(うつしよ)から、蚊帳の外へ差し置かれたような、現実離れした安らぎがあるのだ。


 桃源郷と言われれば、それをそのまま信じてしまったろう。


 市と藤吉郎のいさかいに、あれだけ腹を立てていた信長ですら、気づけば普段見たことがないと言うくらいに顔の表情や物腰に、厳しい力が籠っていない。


「信長さま、これはまあ!佳き日にお越しを頂戴いたしまするで!」


 やがてタスキ掛けに布巾を被った地味な小袖の女が出てきて、頭を下げた。病身の吉乃の身の回りをしている侍女である。名を、須古女(すこじょ)と言うらしい。


「今日は加減が良いと八右衛門から、聞いたでや」


 須古女は目を細めてうなずいた。病床と思われる奥の間は、すでに開け放たれている。しかしそこには床はひいておらず、美しい打掛をまとった女が伏していた。


「また吉が身を案じて来て下されたのですね。忙しき御身で…嬉しゅう存じます」

「吉乃…」


 何か言いかけた信長はそのとき、明らかにむざんな顔をした。が、努めて機嫌を装った。それで市には分かってしまった。わざわざ髪を整え化粧をし、美しい打掛まで羽織ったこの女性が、床を払ってもよいほどに、恢復(かいふく)しているはずがないことは。最愛の吉乃本人を目の前にした信長が、痛いほどに分かっているはずだった。


「吉乃はもう大分、ようございます上総ノ介さま」


 吉乃は伸びやかな声音を張って、信長を見上げた。いわゆる狸顔と言うのか、涙型に垂れた黒目がちの瞳が大きく、ふっくらとした顔つきの笑顔の優しい女性だと、市は思った。


 信長は自分が鋭い風貌をしているせいか、こう言う顔つきが好みなのかも知れない。何とはなしに傍にいるだけで人を安心させるような包容力ある女性に魅力を感じるのだろう。


 健やかな頃と同じように迎えようとする気遣いの吉乃に、市は信長への愛を感じつつも、どこかで病魔の陰を探してしまう。だが吉乃は、気丈な女性だった。声の張り、立ち居振る舞い、それをおくびにも感じさせまいとしている。


 信長もそれと知って、吉乃の病状を気遣わぬふりをしている。何気ない会話をかわす二人は、すでに長年馴染んだ夫婦としか見えない。清洲城にいるときの信長からは想像も出来ない腰の落ち着けようだ。


(これが相思相愛(あいおも)う間柄と言うものなのか…)

 そのやり取りを見ていて市は思わず、陶然としてしまった。


 市にも、信長にも、理想の夫婦関係や家族団らんと言う手本はない。

 そもそも父の信秀は、世間では『器用(きよう)の仁』と称されるほどの出来物で、二人の母である土田御前の機嫌なども適当に取りはしただろうが、他にも多くの側妾やその子らがいすぎて個別の情愛などかけようもない。


 それで信長は早くから、おのれの居場所を求めて家庭を旅立った。そうして流れ着いたこの生駒屋敷で出会った吉乃とは、信長は誰にも阻まれず純粋な愛を育むことが出来たのだ。男女の愛は、自分には分からないと言いつつも、市にだってその尊さは分かる。


 自分だっていつかは他家へ嫁ぐだろうとは漠然と考えているが、そのとき、まかり間違って、本当に相性が合わない相手のところへ嫁がなくてはならないことになったらどうしよう。そう思うことはある。


 古今、婚姻など家の政略である。相思相愛の恋愛から夫婦になることなどそもそもありえない、と言うのが武家の常識なのだ。


(この市にも、いつか見つかるものなのか)


 いや、見つけようと思って見つかることはまずあるまい。そうではない人の方がほぼ大半なのだ。


「市めッ、さっきから何を黙って見とりゃあす?」

 信長がいつものいらだった声音を漏らしたのは、そのときだ。

「せっかく連れてきてやったのだわ、話せ。いつもの喧しさはどうしたでや?」

「やッ、喧しさとは兄上!この市を、なんと思うとりゃあす!?」

 からかわれて市は、信長譲りの甲高い声を上げた。


「今の(おっしゃ)りよう。上総ノ介さま、そっくりです」

 すると吉乃が忍び笑いをこらえながら、潤いの多い瞳を市に向けてきた。

「貴方が、お市どの。お話はかねがね、うかがっております。何でも我が家の藤吉郎めが、お市どのにとんでもない粗相を致したとか」

「いッ!いやそれは!そんなことは、滅相もなくッ」

 ぶんぶんと首を振って、市は顔を赤らめた。

「何を焦っておりゃあす?」

「焦ってなどッ!兄上ッ、他にも何か余計なことを仰っておりませぬでしょうな!?」

「他に余計なこと。ははッ、おのれがびびって馬より転げ落ちたことか」

 と、信長は、口を大きく開けて笑った。市が見ると吉乃も小袖で口元を抑えて笑っている。話のだしに使われたのは不満だが、市もいつしか、この屋敷の住人のように安らいでいた。


 なにせ清洲の城中でこのような会話をすることはない。武者溜まりでも詰めの間でも奥でも、人々は息を詰めて話をしている。それは、信長が生まれる前からそうだったに違いない。そんな織田家から出て、信長はこんな居心地のいい場所を手に入れていたのだ。そして今、それを喪おうとしている。


 ともに和やかに笑いさざめきながら、市は信長を想う吉乃の笑顔が、風前の灯火であることがどうしても、信じることが出来そうになかった。


「藤吉郎、お市どのたちに罪滅ぼしをなさいませ」

 やがて吉乃が、隅で畏まっている藤吉郎に命じたのは食事の支度だ。

「ははっ、例のものなればすでにたんと用意がござりまするが」

「ではそれですぐに膳を。わたしも頂きます」

 と吉乃が言うと、なぜか藤吉郎は目を丸くした。吉乃は朗らかに微笑んだ。

「今日は楽しい食事になりそうです」


 ほどなく、藤吉郎がしつらえたのは、一汁一菜に飯ひと椀、簡素だがたっぷりと盛りつけを多くした、いかにも若い武士たちが好みそうな昼餉である。わけても飯はひと手間、菜っ葉を刻み込んで、(ひしお)と炊き込んだ当時の武士なら誰でも喜ぶ菜飯だった。


「おおっ、これだわ。藤吉郎でかした!これが食したかったのだわ」


 信長はいつもの気難しさもまったく見せず、目を輝かせている。若い頃から生駒の屋敷ではこれだったのだろう。品数は多いが、冷めかけの清洲城での食事と違い、盛大に湯気が立ち上っている。


「こやつめ、面はまずいが炊事は大したものだわ。いずれは台所奉行でも申しつけようでかんわ」

「えッ、それは(まこと)にござりまするか!かたじけのうござりまする!」

 藤吉郎は顔をくしゃくしゃにして、信長にかしずいた。


 いつもながらその芝居がかった体は気に喰わなかったが、市にもこの飯の美味さは分かってしまった。何しろ十八の育ち盛りである。こんもり山盛りの菜飯がみるみるうちに、なくなってしまう。


「おッ、お市さま、お代わりでござりまするかなあ!」

 何も言わぬうちから藤吉郎が甲斐甲斐しく、市の椀に二杯目の菜飯を盛りつける。

「いやあ、この藤吉郎めの心づくし、信長さまばかりでなくお市さまにも喜んで頂き、嬉しゅうござりまするで。これで少しは罪滅ぼしにしたってちょーだいませ」

「やかましいわ、しわッ猿」

 しっかりと菜飯を頬張りながら、市は憎まれ口を忘れない。

「おのれのせいでせっかくの菜飯が不味くなるだわ」

「お市めッ、それだけ食うて何を言うとりゃあす!」

 信長が叱ると、即妙に声を立てて吉乃が笑った。

「こんなに楽しき食事は久方ぶりです」

 吉乃はずっと笑みを絶やさなかった。

 だが市は、気づいていた。吉乃はほとんど菜飯には手をつけず、時々口をつける汁椀も、他の皆に出されたものと違って具のない澄まし汁であった。


「小牧山の御殿へ移ってほしい」

 信長が切り出したのは、ほどなくしてからのことだ。

 吉乃は病状を誤魔化している。

 そこでこの話をいきなり持ち出すのは、さすがの信長も気が引けたのだろう。まるで陽だまりのようだった吉乃の笑顔が、さっと(かげ)るのが市にも分かった。

「…吉乃はここで変わらず、殿のお越しをお待ちしとうござりまする」

「後生だでや」

 あの信長がまるで拝むように言い、吉乃の笑みは深い困惑の色を含む。

「八右衛門より、話は聞いておるで。…永くないと言うならば、せめて御殿へ。…もう、信長は吉乃を離さぬ」

「殿、吉乃は必ず床上げを致しますゆえ…」

 弱弱しく抗った吉乃の手を、信長が取ったのはそのときだ。市たちがいなかったのなら、身体ごと抱きしめていたに違いない。

「痩せただわ」

 ぽつん、と信長は、言った。自分でも口にしたことを認めねばならず、あえて言った口調だった。

「反対する者はおらぬでかんわ」

 信長は、火偸たちに目を向ける。兄妹は揃って、帰蝶が内々に黙認したことを報告した。

「ご懸念は無用に」

 二人が言い募ると、吉乃はついに無理を見せなくなった。


 辛い表情を見せて顔を背けたのだ。

「…もうこの足では、外は歩けませぬ」


 ついに出た。これが吉乃の本音なのだ。

 市は聞いていて、胸が締めつけられるようだった。


「無理に歩けば、その分命を縮めましょう。…上総ノ介さまといられる大事な時間が少なうなりまする」


 これにはさすがの信長も、強いる言葉を見失ってしまった。あの信長が絶望している。市は愕然とする想いだった。


 運命と言うのは、現実と言うのは、これほどまでに無情なものなのか。どれほどの不屈の心をもって抗おうと、叶わぬ望みは容赦なく人を打ちのめすものなのか。市には信長が感じている無力さが、手に取るように分かる気がした。


(兄上に、諦めは似合わぬ)


 市はかすかに唇を噛んだ。すでに、必ず来る別れを心に決めた兄に吉乃との最後の望みを達してあげられる方法はないものか。どうにかして吉乃を、小牧山城まで安全に運ぶ方法はないものだろうか。


 そこまで考えたとき、たった一つだけ手段があると言うことに市は気がついた。確かに絶対安全までは言い切れない。しかし、吉乃にこれ以上の負担を強いずに屋敷から出てもらうのには、この方法しかあるまい。


(とんでもない、と怒られるかも知れぬ)

 しかし、提案するなら今だ。

 市は勇気を出して、声を張ってみた。


「でっ、では輿(こし)は!?」


「なに?」

 うなだれていた信長と吉乃は、目を見開いて市を見直した。

「輿です」

 と、市は息を弾ませて答えた。

「いっそ、輿を遣わしては!あまり揺れぬよう、道を(なら)し、手馴れた男衆(おとこし)を担ぎ手に選びまする。…さすれば、吉乃どのの身体に障ることなく、小牧山の御殿へお越し願えるかと…思いまするのですが」

「で、あるか…」

 想いもしなかった市の提案である。信長は一旦は戸惑った顔をしたが、やがていつものように瞳を輝かせて、拳で手を打った。

「そうだでや。…うむ、おおッ!それは妙案だわ!そうか輿か!輿ならば立って歩かずとも、床ごと小牧山の御殿へ運び込めるだわ。で、あるな。で、あるな!…早急に手はずをとるだわ!吉乃…これで来れるか?信長が造った小牧山の御殿へ移ってくれるか?」

 吉乃は最初は目を丸くしたが、やがて細ったあごを引いてうなずいた。

「分かりました。…やってみまする」


 そのとき、市は見た。

 吉乃の瞳から頬にかけて、すっ、と、ひと筋の涙が這い降りたのを。それで分かった。吉乃もまた、絶望していたのだ。本当は、その本望は。叶うことならば、どこまでも信長の近くにいたい。それが紛れもない願いであったのだ。


「市、でかしたでや!おのれめはッ、たまには役に立つだわ!」

「たまには余計です、兄上」

 と言う市を、袖を拡げて強く抱きしめたのは信長でなく、病状を隠していた吉乃である。

「本当にありがとう」

 市もまた、涙を流してしまった。


(この人が確かに、兄上をこの世で一番、(しと)うてくださるお方)


 そんな人が、やがていなくなってしまう。

 そのことがどうしても、今の市には信じがたかった。

 抱き合ったまま吉乃のかぐわしい吐息の震えと涙の熱さを感じながら、市もまた、嗚咽をこらえることが出来なかった。





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