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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第1章 幼蕾淡くほころぶ
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第八話 天に愛されて生きるには

 手紙の主は、生駒八右衛門(いこまはちえもん)と言うものからであった。信長が愛する吉乃(きつの)の実の兄である。これはその男から信長へ、吉乃の窮状を知らせる文であった。


 吉乃の病ことに(あつ)く、床上げの儀、もはやかなうまじ。


(なが)の患いなのだわ」


 ぽつり、と信長は言う。吉乃がすでに病み伏して、もう数年の歳月が流れていた。治療に手を尽くしてきたが、この上はもはや治る見込みはなく、今は立ち上がって歩くことすら難しい状況なのだ、と言うのだ。


「兄上はずっと、吉乃どののご看病を…?」

「いや、病みついてよりしばらくは、知らなんだ」

 信長の声には、後悔がにじんでいる。


 しかしそれも無理もあるまい。

 この二、三年は信長が、織田家の存亡を懸けた戦いを挑んでいたときだったのである。

 あの桶狭間ばかりではない。統一したとは言え尾張織田の結束はまだ(たが)の緩んだ古桶のようにもろく、内外に問題は山積みである。ひとたび信長が目を離せば、どこから水が漏るか分からない。


 寝食すらも忘れそうになる日々の中で若いころは、足しげく通っていた生駒屋敷ともつい疎遠になりかけていた。だが八右衛門からの一報を受けると信長は、多忙を極める日々の中、どんな犠牲を払っても吉乃への見舞いを続けたのだと言う。


「だが気づいた時には、すでに遅し。吉乃の定命(じょうみょう)尽きるはいつとも知れず。死ぬるは明日か、それともあくる月かと言う有り様」

 信長の声は昏い。この国いちの権力者である兄は、兄なりに持てるすべてを注いだのだろう。

「この信長にも、如何ともならぬことはあるだわ」


 そんな信長をみて市は、思わずかける言葉を失った。


 この天魔のような兄にでも、不可能なことだってあるのである。考えてみれば当然のことだが、市にとっては太陽が去ったような驚きだった。確かに、理屈は分かる。国を興し、城を築き、どれほどの強兵を率いようとも、死病によって尽きゆく最愛の人の寿命を止めることは出来ない。それはまったく別儀の話だ。


 しかし、自分になす術もないことを思い知らされ、打ちのめされたその苦しい心中を胸に秘している兄は、紛れもなく天魔ではないひとりの人間である。そしてそれでも誰にも救いを求めずなお、織田信長としてこの戦国の世に在り、誰よりも強く生きようとしているのだ。この兄に、誹謗されるようなことなど何もないではないか。


「帰蝶めに不義理を致していること、それは承知の上だでや」

 と信長は、訴えかけるような目を火偸たち兄妹に投げかけた。

「だが吉乃は、この信長の子を三人もなしながら、いまだにわしからなんの報いもなし。余命いくばくもない今となって与えられるは、御台所(みだいどころ)の御殿に他ならぬのだわ」

「それで、兄上は吉乃どのを、御殿に迎え入れようと小牧山城を…?」

 信長はうなずいた。言うまでもなく新造の城にしたのは、清洲にはすでに帰蝶のための御殿があるからだろう。

「吉乃はもはや永くはなし。…それまでの間だでや」


 信長はいつも、決断に迫られている。


 帰蝶もまた、信長にとっては、岳父斎藤道三によって授けられた愛妻に他ならない。だがそれをおしてさえ、信長は死にゆく吉乃に、どうにかして自分を愛してくれた報いをしたいと考えたのだろう。


 そしてその吉乃がすぐに亡くなるとなれば、小牧山に新たな御台所を作っても、帰蝶の面目は立つ、そう考えたに違いない。


「で、市よ、ここまで聞いておのれはどう思うた?」

「えっ、ええっええ!?…この市めが?どう思うたか…でござりまするか!?」


 市は悲鳴に近い声を上げた。信長がこんなことを問うてくるのも、滅多にないことだが、男女の情愛の問題など、まだほんの処女(むすめ)の自分に答えられるはずもない。


「なぜ顔を赤くする?」

「なっ、なぜって!その…いやッ!そっ、そもそも市のような小娘の話など!聞いてどう(おぼ)し召されまする!?」

「おのれも一応、女子だでや。興味があるで」

「一応って…兄上無礼な!…されど市にッ男女の情と言うか…夫婦のことなど、まだ分かろうはずがありますまいッ!」


 市は顔を真っ赤にしながら、ぶんぶんと首を振った。武略の話は好きだが、この手の話題は本当に苦手なのである。


「なんだ答えられぬか。先途はなんぞこの兄に物申したげな顔をしておったではないか」

 信長は、悪戯っぽい目線を向ける。もうこんな話は沢山だ。

「あっ、市は…その、兄上の好きなようにはからうがよきと心得まする!…とっ、ともかく、その吉乃さまと言うお方も、清洲の帰蝶さまも傷つけることのなきよう!」

「で、あるか。心得た」

 信長は目を細めてうなずくと、火偸たち兄妹に向き直った。

「仔細、これである。他に疑うことあらばこの場で聞け。わしが直に答えるでや。両人その口に戸は立てぬ。帰蝶めにはありのまま思うたことを伝えよ。いずれ、わしからも帰蝶と二人きりにて話したいと告げるのも(わす)るな」

「かっ、上総ノ介さま…!」

 世に隠れもなき潔さである。忍びの兄妹は思わず、顔を見合わせた。無論、これ以上、文句があろうはずもない。


 確かに信長の決断は、世には批難される向きもあるだろう。正室の帰蝶本人にもまた、含むものが出来ないとも言えない。だがそれらを、信長は甘んじて受けると言う。


 権力でごまかすわけでも、武力で闇に葬るでもない。満天下、万民の目につく、堂々たる御殿を建ちあげ、死にゆく吉乃のため、おのがすべきことを貫く、と言うのだ。


 一己(いっこ)の男として、人として、これを覚悟と言わずして、なんと言おうか。


(たっと)い)


 その顔に朝陽が射すように市は、信長の態度をまばゆく思った。


 そうか。そう言うことだったのか。

 あの兄が、ことごとに天に愛されてみえるのには、きっと理由がある。そう常々思い、自分には同じ血筋でそれがない、なぜなのかと日々悩み暮らしてきたが、ほんの少しだけそれが分かった気がする。


 ただただ、信長はひたむきなのだ。己の野望や、生き様ばかりでなく、それと決めたら、道理の(そし)りを恐れず、とにかくひたすらに想うべきことを想い(こいねが)う。だからこその潔さなのだ。


(市もいつか…兄上がごとく生きれるか)


 このことは、男か女であるかは関係ない気がする。決意の潔さで、非業の運命を振り切った兄を、市は初めて素直に尊敬できた気がした。嫉妬まじりの怒りを覚えることなく、信長と言う男を、真っすぐに見つめることが出来たのは、市が少女(むすめ)の時代を卒業しつつある、その証でもあった。


「市、たまには遠乗りに付き合うでや」


 ある日の昼下がりのことである。市は、信長から突然声をかけられた。近習も連れずすぐにでも出ると言うのだ。


「えっ!?あっ、兄上!これからでござりまするか?」

 信長は、うなずいた。これ以上、否やは言わせない。

「馬は用意させた。遅れをとるでにゃあぞ」


 急いで支度をして出ると、市の甲斐駒の(くつわ)を曳いて出てきたのは、火偸と埋火である。二人も信長につい先ほど、声をかけられたのだった。

「あ、兄上はなんのつもりじゃ…?」

「分かりませぬ…」


 会話をしている暇とてない。信長の馬はすでに、清洲の城外を駆けている。


(あに)さま、上総ノ介さまがお駆けになられた方角はもしや…」


 そのとき、信長の行先に勘づいたのは、埋火である。言われて、火偸も、すぐにそれと気づいた。


「北でござる」


 清洲から北は、木曽川流域の田園地帯である。水稲(いね)がたわわに実ってたなびく緑の海を、信長は駆けすぎていく。市たちはすぐに気づいた。信長の馬足は水路に沿って走っている。木曽川から水を引いた堀をたどっているのである。


 かくして清洲から二里半(約・十キロ)。

 いつしか信長の馬は、水堀に囲まれた土居(どい)の端を走っている。続く市たちもすぐに、気づいた。これはひどく広壮な屋敷の外周を走っているのである。


(いづくの城か)


 市が見上げる土居の向こうには、はるか高楼が夏の陽に蒸れている。

「まさか敵城か」

「敵城ではありません。…ここは生駒屋敷です」

 いぶかる市に、埋火があわてて答えた。


 確かに地では、小折城(こおりじょう)とも称することがある。

 だが武家屋敷ではない。深い水堀も、高い土居も夜盗除けで設えたもので、あくまでも商人屋敷なのである。


「生駒は馬商いで、身代を太らせた富家にて。その商いは美濃は元より、遠く飛騨にも及ぶと聞いておりまする」


 と、事情を知る火偸が言う。邸内には土蔵も三棟、建っているそうな。


 堀にかかる橋を、信長は下馬もせず駆けすぎていく。門番は心得ていて、その乗馬姿を見ただけで、信長と分かって素通りである。すでに話をつけてあるのか、遅れて入った市たちも、同様に招き入れられた。


「お待ち申し上げておりましたで。信長旦那…そっ、それとお市さまあッ!?」


 いそいそと家宰顔で出てきたのは、藤吉郎であった。信長の来訪は知っていたが、まさかお市たちを連れてくるとは、まったくの想定外だったのだろう。


「んッ!こんの禿(はげ)ネズミめがッ!こんなところで飼われておったのかッ!?」

「おッ、お市さま!あの夜のことはどうかッ!どうかッ、もうご勘弁のほどを!」


 藤吉郎は腰砕けになって、叩頭した。かわいそうに、出会いがしらの土下座である。


「許すものか。さてはお前、この屋敷の財力を利用して兄上に取り入ったのだな!?」

「いっ、いやそんな無茶苦茶な!て言うか財力って…この藤吉郎めにまさか、そのような力があるわけにゃあで!」

「嘘をつけ!」


 どうもこの藤吉郎が出てくると、市の(かん)の虫が騒ぐのだ。


「お市、その辺にするでや」

 信長が見かねて、割って入る。

「お前はいざ知らず、この禿ネズミめは、中々の使える男よ。得難き出来物なのだわ」

「さッ、されど兄上!こやつめはどうも信におけませぬ!」

「そう言うな。こやつめも忙しき仕事の合間を縫って、甲斐甲斐しゅう我が吉乃の世話を焼いたり、病状を知らせてくれるのだわ」


 信長の言うことは間違いではなかった。そのあと、信長にあの手紙を出した当主の生駒八右衛門が出てきて挨拶をしたのだが、藤吉郎は算用に明るく、生駒家ではその商いの才を買って、経理や取引ごとなど武骨者には出来ぬ役割を与えているのだと言う。


「あの…お市さま、これで分かって頂けましたか。くれぐれも誤解なきよう。この藤吉郎めは決して野盗にはござりませぬで…」

「野盗と親しくしていたではないか」

「あっ、あれは!川並衆(かわなみしゅう)と言う連中で、ここへお世話になる前の腐れ縁と言うかなんと申しますか…」

「ふん、すでに話が臭うでにゃあか。胡散臭しッ!怪しッ!」

「そんなッ」

「ええ加減にするでや市!おのれと言うやつはッ!」

 ついに信長に怒られた。

「ふん」

 しかし、市は頬を膨らませて顔を背ける。とにかくこの藤吉郎は生理的に受け付けないのである。


「詰まらぬ話は、もうええでや。吉乃は会えそうか?」

 信長の問いに、八右衛門はうなずいた。

「今日は幸い、朝から加減がようござる」

「で、あるか」

 信長は奥へあごをしゃくった。つまり今日は、市たちと、吉乃を直接対面させるために連れてきたのだろう。

「兄上、まだ心の支度が」

「やかましい」

 吉乃と会うと聞いて、市はさすがに狼狽(うろた)えた。

「次に騒いだら、(たた)ッ斬るでや」

 腰に差した長刀の柄を叩いて、信長は市を睨みつける。

「ぎょ、御意に」

 生唾を呑んで市は、答えた。どうして今、自分たちに会わせるのかその真意は分からないが、この兄は本気である。


 信長はさっさと行く。長い渡り廊下の濡れ縁には、日が(かげ)るほどの巨大な樫の老大木の木漏れ日が落ちている。


(この奥に、吉乃どのが…?)


 市と火偸たちは、息を詰めて顔を見合わせた。





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