第三十四話 苦渋の采配
「この長政に…義兄上を攻めよと?」
長政は、無惨な表情になった。
「父上は、ご自身の采配の責任を取らぬおつもりか」
「お前に浅井勢を駆らせるのが、父の采配のうちなのだ」
久政は底響きするような、錆び付いた声音を出した。
「口惜しいが、我が采配にては信長は討ち取れぬ」
「なるほど。行く手は、織田徳川三万の軍勢でござる。あわよくばここで、長政の命も散らそうと言う謀か」
「長政さまッ!越前本国より、朝倉の後詰め(応援)が詰めかけまする!」
遠藤がここぞとばかりに、横槍をさしてきた。
「これは勝てるいくさにござるッ!勝ち馬に乗れるを、あえてお譲り下されるのは、久政公が親心とお心得あれいッ!」
「黙れ」
長政は、遠藤への殺気は収めていない。だが、と、心臓に楔を打ち込むような痛みを堪えて、理性を踏みとどまった。
「父上、長政が出撃致したのならば、市たちは今まで通りの処遇、手だし無用でいて下されるのでござるな?」
「そうだ。長政、お前が当主として信長討ちを決めたれば、継室はそのまま。されど、それを拒むと言うならば、お前は当主として失格、あのお市どのも裏切り者の汚名を着ようぞ」
(誰が裏切り者だ)
と、長政は言い返しそうになったが、どうにか堪えた。だが、道理から考えればどちらが裏切り者なのか。
信長の違約にも確かに、浅井家として、言うべきことはあるが、信長の戦線が延びきったときに朝倉家の後詰めと呼応して、背後を襲うなど、初めから意趣があってのことと、思われても仕方がない。
(いや、意趣があったのだ)
六角承禎と言う男の差し金で。あの老獪な策士はつまり、この絵図を完成させるために、おのれの城や家臣まで棄てて動き回っていたのだ。あの老人の策謀を甘く見ていたわけでは決してないが、結果として承禎が描く絵図の一端を担うことになってしまったと言うのは、笑えない皮肉である。
「…急ぎ、若狭へ出兵致しまする」
長政は、ついに覚悟を決めて言った。この上は、久政の提案に乗らなければ、長政はすべてを喪うばかりだ。
「おお、やっと心を決めてくれたか」
勢い込む久政に、長政はすかさず言った。
「ついては、出陣前の憂いを払いまする。…お市たち織田方の女房たちの動揺は、この長政が取り鎮めて参ります」
「良かろう」
即座に、久政は許可したが、それに割っていったものがいる。言うまでもなく、長政を怪しむ遠藤である。
「いや、しばらく。それにはこの遠藤も同行致したく存じまする」
「控えよ遠藤。…お前がこの長政の奥へ立ち入るは不届きと思わぬか」
「されど!お市の方は、敵…いや、織田家にござる!」
「今、敵と申したな遠藤。…それは市への侮辱、ひいてはこの長政への侮辱と取るぞ」
長政の底冷えする殺気を当てられ、さすがの遠藤も居すくんだ。
「し、しかし…」
「措け、遠藤よ。それくらいは、許してやるがいい。当主として長政は、おのれらの為を思い、舵取りを変えるのだ。それくらいの自由はあってもよかろう」
と、久政は懐の広いところを見せて取りなしておいて、
「されど、出陣前に女色を近づけるは禁事と言うことは心得ていよう。…すなわち言葉を交わすだけ、触れることはならぬ。そして話をする際はこの父が同行する」
(なるほど)
と、長政は思った。これが父の論法なのである。強硬派の遠藤を連れてきたのは、長政に仮初めのとりなしを与えるためなのだ。
久政に油断はない。たとえ長政とお市が接触しようと、織田方への通報を防ぐ自信がある、と言うことだ。策士としてはこの久政の懐も、深い。実父ながら、長政は密かに舌を巻いた。
(父には、この長政の武勇に代わる知謀があるようだ)
そして知恵者の特権は、工夫次第では、他人の武勇を我が物のように操れることである。
(今は逆らわぬ方が良いな…)
長政は一瞬でそこまで、算段した。策謀に限らずだが、こうしたことには時の勢いと言うものがある。
承禎や久政のごとき知恵者は、熊手で塵をかき集めるようにして、その時運を手繰り寄せようとするが、一旦それを手にすると、運の続くうちはその流れに抗うことは、無謀でしかないのだ。
(耐えることだ)
知恵者は、すべてを手にしようとする。だがその欠点は、物事を完璧に把握しようとすることに、潔癖であることだ。だから今に必ず、ぼろを出す。反撃は恐らく、その流れに乗らなければ、不可能だろう。
「心得ました父上」
長政は、快く答えた。以上のような利害計算はほとんど一刹那に判断をつけたのである。ここから先は、万に一つも取りこぼしが出来ない。長政の失策でまず、害を被るのは、浅井家内織田家である市たちなのである。
「若狭に急ぎ出陣!?長政どのが兄上への後詰めですと!」
市は素直に驚いていた。
久政からは、とりあえず信長への裏切りは伏せるように、釘を刺されている。この小谷から小者一人でも勘づいて、織田陣へ走れば、この奇襲は無意味になる。この朝倉、浅井の両面作戦を企図したものは、よほどにこれを信長への死に手にしたいらしい。
「しかし長政さま、それにしてもいかにも急ではありますまいか?…若狭の兄上から、後詰めの要請でもありゃあしたので?」
(鋭い)
何気なく口にした市の疑問に、長政は苦笑した。答える言葉を喪ったのだ。実際、戦況が急を要していないのである。もし後詰めを必要として長政を頼るならば、一報は市たちにも必ず、伝わっているはずなのである。
「後詰めは、念のためのものだ。これから越前から朝倉家本隊が、必ず出てくる。…万一を考えて長政は抑えてして、睨みを利かせるようには、言われていたんだ」
「はあ…そのようなものでありゃあすか…」
長政はとっさに取り繕ったが、市は納得しきっていない顔だ。
(それでいい)
市の勘の良さは、信長譲りだ。危険が迫れば、それは必ず威力を発揮するに違いない。
(ここで、それとなく本当のことを告げしまってもいいのだが)
久政が油断なく、会話をうかがっている。長政が本心を言うことは出来ない。そこでここへ来る間に一つ、工夫を考えていた。ここは一か八かであるが、それに望みをかけるしかないと思った。
「ついては一つ、頼みがあるのだが」
と、そこで長政はさりげなく、切り出した。
「頼み?」
「そう、義兄上へ手土産を持参したい。いくさの吉兆を祝いたいのだ。あまり時間がなくて悪いが、急ぎ用意してくれないか」
「はあ…手土産…」
市は眉をひそめた。これでまず、いつもとなにか違うことを悟ってくれれば良いのだがと、長政は祈った。
言わずもがなこの手土産が、信長の命運を握る。




