第三十話 心強き枷
それから市は無事、子をあげた。
初めての出産は大変だったが、いざ過ぎてしまうと、あっという間だ。自分がしていたことは何であったか、よく分からなくなるほどのあわただしさしか、記憶に残らなかった。
(これが、わたしの子か)
産着にくるまれているのは、女児である。長女、になる子だ。自分にそっくりだと、立ち会った女房が言っていたが、初めて見たときは面差しが誰に似ているかなど、目がいくはずもない。みな、猿のようだ。
「ははっ、赤子はみな猿だでのん。おのれめも、この信長に似ておるだなんだと、誰ぞが申したと言うが、産まれたときはいかにも奇妙な猿面であったぎゃん!」
市は昔、信長にそうからかわれたことを、思い出した。そう言えば信長は赤子の猿面をよほど変な顔だと見なしていたのか、自分の息子に『奇妙』などと名をつけて喜んでいた。
(乳臭い)
と、市は我が子を抱き締めて思ったが、それは自分の匂いなのだ。娘だと聞いたとき、自分が二人になったような妙な感覚だった。長政との初の子は、健やかに眠っていた。
姫の名は『茶々』である。
母親の市は知ることなく死ぬ。この茶々が『淀の方』として天下人の子を産み、その王城を枕に果てて死ぬのを。
「茶々か」
沈着な長政が、こんなに嬉しそうに微笑んだのを市は、初めて見た。長身の長い腕が初の娘を抱き上げた。父親が分かるのか、茶々は泣かずに堪えている。
「よく頑張ってくれた、お市」
折よく信長は将軍のもとを去り、長政もその任を解かれたのである。いざとなれば京から小谷はそう遠くない。少なくとも岐阜より近いのだ。
「なっ、長政どの…!」
久方ぶりの長政を、娘と共に迎えて市は、喜ぶより思わず、涙ぐんでしまった。
「此度はその…姫にて。次は抜かりなく、男子を産みまする…と言うかなんと言うか…」
「市…やはり姫は、父親に似ぬものだな。この子も、目付きが織田家だ」
長政はそう言うと、屈託なく笑った。
「ええっ、目付きが織田家でありゃあしたか!?まさか、兄上みたいに目付きが怖い…?」
「義兄上には似てないな。…見れば見るほど、市に似ているよ」
「え…いや、そにゃあなことは…」
市は改めて我が子の顔を見た。赤ん坊はみな猿だと信長に刷り込まれていたので深くは考えていなかったが、こうして見ると赤ん坊にもちゃんと面差しがある。
「む…これはっ、長政どのでわにゃあか!この色白ふくふくの感じといい、ほっぺの膨らみといい。市より長政どのに似ておりゃあす!」
「そうかなあ」
と言いつつ、長政は嬉しそうだった。
「やはり、市に似ているよ。…女子なら、必ず美しい姫になる」
滅多に見れない長政ののろけに、市は目を丸くしてしまった。
「まっ、まーたまた!長政どの…!」
茶々がむずかりだした。顔をしかめると、なるほどその神経質そうな表情は確かに、癇癖の強い織田家の気性を受け継いでいる気がする。
「あれ、機嫌を損ねてしまったかな」
「あっ、たぶん、お腹が空いたのだわ」
長政から茶々を受け取ると、市は胸をはだけ、乳を含ませた。さすがに母親だけにこうした一連の動作はもう、手慣れたものになっている。
「さすが、母上だね」
長政は、心底感心したようだった。
「…これでいつなりと、嫡男も迎えられまするぞ」
「いや、無理しなくていいから」
長政は苦笑している。
「二人目はいずれね。私もしばらくは城に戻っているし、その間は娘をかわいがろう」
「はい…ははっ、二人目は少し早すぎでありゃあしたか」
「うん、早いよ」
「ふふふ、まさか」
と、言いつつ立て続けに、市は二人目を産むのである。茶々の妹は『お初』。のちの浅井三姉妹が世に出ようとしていた。
(心強き枷よ)
守るべきものが増え、長政は、市たちの住まう浅井家を守り抜く決意を固めたのだった。
信長の上洛行は一旦終わったが、京都の争乱は解決していない。
義昭は将軍宣下を受け、幕府は成立したが、その命運はまだ、はなはだか細い。三好三人衆の軍勢に御所を攻められ、焼き討ちされるような立場なのである。大っぴらに襲われると言うのは将軍の権力はまだ公認のものになっていない印なのである。
「…とは言え、織田家は領土拡大に忙しいわ」
火偸と埋火を集めて、情勢を読むのは、帰蝶である。将軍家の朝倉攻めを憂慮する彼女は近江にあり、日々、影働きに余念がない。
「伊勢侵攻も展開中だし、義昭公に所望して堺を得たのも日が浅い。しばらくは京都のことには構っていられないかもね」
信長の目が戦国大名の本分である国盗りへ向くとなると、その分、京都を中心とした畿内での謀略者の暗躍を許すことになる。
「先だっての室町御所襲撃の大将の一人として、斎藤龍興の名を確認したわ。軍勢とした足軽どもは、銭で雇うしかないわね。問題は龍興に誰が、銭を出しているかよ」
ちなみに珍しくこの場は、市の寝室ではなかった。茶々がおねむなので、市は添い寝中なのである。集いには、なんと長政本人が参加した。場所は間近に琵琶湖を望む船宿、無論、忍び宿だ。
(やはり、知らぬ間にこれだけ情勢が動いていたか)
遠藤が長政に言い放ったことの恐ろしさが肌で実感できた。信長に逐われ、消息を絶ったと思われた二人の暗躍は、恐ろしいとしか言いようがない。
「と、言うわけで長政どの。こたび、足を運んでもらったのはその筋の事情通から話を聴くためです」
「事情通?」
帰蝶は頷くと、埋火を促した。見るとそこに旅装を解いた清げな武士が、端座していた。なんと、明智光秀である。
「京では、世話になりましたな」
長政は光秀とは、上洛の折に逢っている。上洛した信長と、今後の京都の動静について幕府側の識者として、細かいやり取りをしたのが、光秀だったのである。
「公方さまのご家来衆の明智どのがなぜここに?」
「縁者のよしみにござる。…実を言えば帰蝶どのとは、血縁にて候」
光秀は、微笑した。確かに京の事情通と言えば、この男の右に出るものはいない。
「龍興めに戦費を出しているのは、朝倉家にござろう」
「光秀さまは、朝倉家にも身を寄せていたことがおありなのです」
埋火が口を添える。
「なるほど」
「今、京は信長公の再びの上洛を待ち焦がれるところ。朝倉攻めのことは、二の次でござりましょうな」
「ひとまずは安心ですか」
「ですが」
光秀は、涼しい顔で言う。長政の反応をうかがうようである。
「龍興が絡んでいるとなれば、京の賊どもは、信長公が上洛したなら蜘蛛の子を散らすように消えてなくなるかも知れませぬ」
「龍興めは餌を飼うていると?」
長政は眉をひそめた。
つまり、龍興は囮である。兵法に言う陽動兵であり、信長を越前にまでの長い戦線へ引き込む餌だと、光秀は言いたいのだ。
「なるほど、この岐阜を離れれば離れるほど、信長公は苦しい戦いを強いられることになる」
「でも解せないわね。…龍興や六角承禎は朝倉家と織田家を戦わせることに、それだけ勝算を持っているのかしら」
「確かに。越前朝倉はいくさにそこまで積極的ではありますまい」
長政も帰蝶の意見に和したが、朝倉家は不拡大方針が家風なのである。信長と争ったとして、途中講和、不完全燃焼は十分に考えうる。
「なるほど。お二方も事情通でござる。朝倉家の腰の重さは重々ご承知か」
しかし、と光秀は釘をさす。
「されど無礼ながら、兵法を存じ上げぬご様子」
「兵法?」
「左様。…いわゆる詰め将棋にござるな」
光秀は微笑した。信長とも互角に渡り合うこの男の戦略絵図は、長政や帰蝶よりも一段上のようだった。
「敵は信長公を京に閉じ込め、二重三重の包囲にて干殺しを画策する肚にて候。さしずめ、この策は『信長包囲網』の計」
「なんと…」
織田信長の苦しい戦いが、幕を開けようとしていたのである。




